09:彼氏の特権
互いの友人を呼んでの食事は、週明けの月曜日にということになった。
とはいえ、拓海は夏帆とお付き合いをしているので、毎日だって恋人と昼食を取ることが出来る。
【 KAHO / ごめん! 先に食べてて 】
というLINEが拓海のもとに届いたのは、四時間目の授業が終わってすぐだった。いつもの空き教室に向かおうと立ち上がっていた拓海は、中休みに学食で買っていたパンを持ったまま、スマホを操作する。
【 拓海 / どしたん? 】
【 KAHO / 先生に頼まれごとされちゃって 】
【 KAHO / 終わったらすぐ行く 】
【 拓海 / 何頼まれたん? 】
【 KAHO / プロジェクター運んでって 】
【 KAHO / 今日一人やから時間かかると思う 】
文面を読んで、拓海は少し悩んだ。
(手伝うの、迷惑かな)
クラスの女子があたふたしていた場合、拓海なら声をかけない。
助けなど求めてないかもしれないし、求めていたとしてもその相手は琥太郎みたいな男子であって、拓海ではない。それに友人らに、女子への点数稼ぎと思われるのも嫌だ。
(でも、手伝ってやりたいしな)
プロジェクターやスクリーンを抱えて、何度も廊下や階段を往復する夏帆を想像した時には、文字を打ち終えていた。
【 拓海 / 待ってて 】
(彼氏、って。踏み込んでいい、ってことだろ?)
スマホをポケットに仕舞うと、パンは机の上に置いて、三組に向かった。
***
(待ってて、って)
プロジェクターの横で、夏帆はスマホを見下ろしていた。既に昼休みに入っている教室は騒がしく、夏帆が教壇で途方に暮れていることに気付いている生徒はいない。
いつもなら二人で世界史の係をしているのだが、今日はもう一人の男子生徒が風邪で欠席だった。
というのに、そんな日に限ってプロジェクターを使う日で、ロール状のスクリーンも社会科の準備室まで運ばねばならない。
「早川さん。入ってい?」
続けて何かメッセージでも来るのかとLINEの画面を見ていた夏帆は、教室の前の扉から声をかけられて驚いた。
「え? 三浦君? なんで?」
どうぞどうぞ、と身振りで教室の中に招くと、拓海は素直に室内に入ってきた。違うクラスが珍しいのか、「おお」とキョロキョロしている。
「なぁ、それ。手伝ったら駄目?」
「え?!」
思いがけなさすぎた言葉に夏帆は目を見開く。
昼休みとは、学生の誰もが待ちに待った瞬間である。一秒でも長く甘受していたいものに違いないのに、拓海はわざわざ違うクラスまで来て、夏帆のために昼休みを削ろうとしている。
「いいの?」
「ん」
「ありがとう……!」
拓海は当たり前のように、重いプロジェクターに手を伸ばす。夏帆はスクリーンを抱え、拓海の後ろに続いた。
「ごめんね。本当に先に食べてくれててよかったんだけど……気ぃ使わせちゃったね」
廊下を歩きつつ、すぐ隣に立つ拓海を見上げる。至近距離にいると、首を大げさに後ろに倒さないと拓海の顔が見えない。
拓海はチラリと夏帆を見た後、前を向き直す。そして少し緊張した面持ちで口を開いた。
「正直に言って欲しいんやけど」
「うん」
「迷惑?」
「え? なんで? どこが? 欠片も迷惑じゃありませんが??」
「心の底から感謝しております」と伝えると、「そこまで?」と拓海が笑う。
「よかった。なら頼ってよ。彼氏やん」
夏帆はぽかんと口を開いた。
「……え? 彼氏ってこんなことまでしてくれるんです……?」
「そう。彼氏って誰より先に頼っていいし、愚痴っていいし、雑用押し付けてもいいらしいよ」
「どこ情報?!」
「六組女子」
「六組の子、強すぎでしょー」
つい本気で笑ったらスクリーンが落ちそうになったため、夏帆は抱え直した。
社会科の準備室に教材を持って行った後、のんびりと二人で廊下を歩く。走って往復しようと思っていたが、拓海が隣を歩いている時点で、急ぐ理由も必要もなくなった。
丁字の廊下で左右に分かれ、それぞれ三組と六組に昼食を取りに行く。合流した夏帆と拓海は、昨日と同じ空き教室へ向かった。
教室の扉を開け、二人で中に入る。昨日と同じように机を移動させ、椅子に座ろうとした拓海に「待って」と声をかけた。
「?」
パンを机に置きつつ、律儀に拓海がこちらを向く。
「ご飯を食べる前に」
「うん」
「本日分のぎゅっをお願いしたいと思っております」
「は?」
一日一ぎゅっの有言を実行させようと手をわきわきする夏帆に、拓海は「まじか」と呟いた。
「“恋人とやりたいことリスト”、一回のみとは書いていませんし?」
「んや、勿論。どうぞ。ご自由に」
くるりと背中を向けた拓海が「あっ、でも」と首だけを回してこちらを見る。
「声は出さんでね」
「三浦君……なんかえっちぃ……」
「どの口がそれを言った??」
「え?? この口ですけど??」
「ソウデスネ……」
何故か脱力した拓海が再び前を向いた。それをOKの合図だと思うことにして、夏帆はぽすんと拓海の背中に抱きつく。
「んーっ! いいっ……!」
思わず風呂上がりにビールを飲んだ父のような声を出してしまった夏帆を、拓海が叱責する。
「約束は!?」
「守れます」
拓海の脇腹から、彼の顔を覗き込むように顔を上げると、「お口チャック」と唇の右から左に指を滑らせた。拓海は少し困った顔をして、夏帆に僅かに頷いた。
拓海の背中に戻った夏帆は、無言で背中にぐりぐりと頭を押しつけた。拓海の着ているカーディガンの繊維が前髪と擦れて、静電気がぱちぱちする。
(すごいな。あったかいし、かたいし、男の子の匂いする……)
拓海の匂いが鼻から入り込んで、胸でふわりと広がるような、不思議な感覚だった。他人の匂いをこんなに近くで嗅ぐ事なんて、女同士でもそれほどない。
(この匂い、好きだなぁ)
夏だったらよかったのに。と少し残念だった。夏だったら、カーディガンは羽織らない。薄いシャツ越しに、もっと拓海の熱や匂いを感じられただろう。
夏帆は心の底から満足するまで背中を堪能して、拓海を解放した。夏帆にくっつかれて暑かったのか、拓海は若干顔を赤らめ、汗をかいていた。
「暑かった?」
「熱くなった……」
それは確実に自分のせいだろう。「すまないね」と眉を下げる夏帆の前で「気にせんで」と拓海がカーディガンを脱ぎ始める。
「満足した?」
「した! 今日の分は!」
「なるほど」
すかさず明日の分も主張する夏帆を、ワイシャツ姿になった拓海が口の端を持ち上げて笑った。
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