19:愛しさ
「この、次の項目って何?」
お昼休みに、コンビニ弁当の端っこに添えられていたお漬物をポリポリと食べながら、拓海は夏帆に尋ねた。
【 KAHO / 袖を捲られてみたい 】
あまりに漠然としすぎている。袖なんか、勝手に捲ればいいではないか。タピオカの時と同じ感情を抱いた拓海に、夏帆は「よく聞いてくれました!」とばかりに、食べかけの弁当をベンチに置いて立ち上がる。
月曜日だけ、拓海と夏帆は昼食を中庭でとるようにしていた。お重を広げる心が人目に付かないよう、空き教室を二人に提供したのだ。
「はい! こっち! こっち来て」
ベンチのすぐ側にある手洗い場に呼び寄せられる。拓海は訝しみながらも、文句一つ言わず立ち上がった。先に惚れた方に、拒否権などない。
「本当は洗い物してる時とかがよかったんだけど」
「?」
「今日は洗う物がないので、手を洗います」
オペ室の医者のように両手をあげて手の甲を見せる夏帆に、拓海はふっと息を吐くように笑った。真面目な顔をして、こういうよくわからないことを言う夏帆が、可愛い。
「うん。それで?」
夏帆は得意げな顔をして、蛇口を捻る。夏帆の手を見ていた拓海は、小さく声を漏らした。
「あ……」
「ねっ!?」
「?」
何が「ねっ!?」なのかはわからないが、夏帆が得意げな顔のままなのが、また可愛い。
「あって思ったやろ? ね? ほら? 彼氏的に、何かすることがあるのでは?!」
カーディガンの隙間から指先を出した夏帆が、ちらちらと自分の手先と拓海に交互に視線を送る。拓海は口元を手の甲で覆い、ふはっと笑う。
「なら、ちょっとお邪魔します」
「どうぞどうぞ」
蛇口から流れる水に両手を差し出している夏帆の隣に、身を寄せる。夏帆の腕に手を伸ばし、彼女の服が濡れないように袖口を捲ろうとするが、横からの姿勢では上手くいかない。
「ちょっとごめん」
夏帆の背に周り、腕を伸ばす。夏帆を後ろから抱き締める形で、袖に手をかけた。
これまでも何度も隣に立ったり座ったりしていたが、これまでで一番夏帆の体の小ささを感じた。二十センチほど身長差があるため、拓海がこれだけ貼り付くと、見下ろしても夏帆のつむじしか見えない。
(すげえいい匂いする)
シャンプーだろうか。自分の顎よりも下にある夏帆の頭に頬を寄せ、鼻を擦り付けたい衝動を堪え、指先に神経を集中させる。
「こっちも?」
「う、ん」
左手が捲り終わったため、右手もするのかと尋ねると、夏帆はぎこちなく頷いた。よく見ると、髪の隙間から覗く耳が赤くなっている。
(うわ……やべ。可愛い)
こんな風に自分に反応しているのかと思うと、心がぐっと呻く。挙動不審にならないよう、意識して深く呼吸しながら、右手の袖も捲る。
「ん」
捲り終えた後、手を離すのが名残惜しかったが、触れていていい理由ももうない。拓海は潔く体を離した。
「ありがと」
両手の裾を捲った夏帆が振り返る。その頬は赤く、眉は下がっていた。
「へへ……すっごいドキドキしちゃった」
自分の両頬を両手の指先でむにむにと押しながら、夏帆が照れ笑いを浮かべる。まさか真っ直ぐ言葉にされるとは思ってもいなかった拓海が絶句する。
「なっ……! 自、分が――!」
「わかってる。そうなんやけど、そうなんやけどっ!」
「想像してたよりずっとドキドキしちゃったんやもん」と消えそうな声で夏帆に言われた拓海は、顔中に力を入れて「ん゛っ」と鳴いた。
***
「ごめん、夏帆さん。今日送ってけない」
「お? 大丈夫だよ。どうしたの?」
「バイト。ちょっと人足りんぽくて、出来るだけ早めに来てくれって言われて」
授業が終わると同時に三組に駆け込んだ拓海は、バイト先からのLINEを見せて説明をした。帰り支度をしていた夏帆は「バイト先とLINEしてる……」と感心したように呟く。
「夏帆さんはしてないの?」
「先生スマホじゃないから。基本的に電話やし、緊急の時は森山先生が来る」
「森セン?」
「お習字の先生の息子さんなの」
「へえー」
そういえば、森山先生は書道部の顧問だった気がする。そんな繋がりがあるんだな、と習字のことも、夏帆のことも、まだまだ自分は知らないことに気付く。
「ねえ。しゃきしゃき歩くから、私もついてってもい?」
「は? どこに?」
「カラオケ」
「すんの?」
「ううん」
「え。俺そのまま仕事やし、送ってってやれんけど」
「私が送るって話だよ~」
カラカラと笑う夏帆に、拓海はぽかんとした。
「めちゃくちゃ遠回りやん」
「いっつも拓海君がしてくれてることやん。……駄目ってこと?」
拓海の純粋な疑問が否定に聞こえてきたらしく、夏帆が心細そうな表情を浮かべた。拓海は慌てて否定する。
「いやいやいや、嬉しい。けど、夏帆さんに悪いなって」
「なんそれ。私からしたいって言ってるんに」
じゃあついてっちゃお。と夏帆がにこにこしながら拓海の隣に立つ。あまりに可愛くて、抱き締めたくなる。
(あー、きっつ)
お試し期間とはいえ恋人なのだから、抱き締めてもきっと許される。けれど、一方的に邪な想いを抱えている罪悪感から、寄せられた信用を裏切る行為な気がして、抱き締められない。
夏帆を好きだと思う度、そんな関係が苦しくなる。
かといって、抱き締めたい気持ちをやり過ごすことも出来ず、拓海は夏帆の頭に手を伸ばした。ポンポンと、欲望を誤魔化すために頭を撫でる。
夏帆の体温が、手触りが、拓海にほんの少しの満足と、大きな渇望を与える。
夏帆が首を倒し、拓海を見上げて目を細めた。
(あー……)
拓海も目を細めた。
愛しさが溢れて、どうしようもなかった。
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