風が吹く前に
千石綾子
風が吹く前に 第一章
第1話 序1
遠くに見える細い雲が渦を巻き 勢いを増して流れ始めている
あの風は もうすぐここまで来るだろう
だから
今すぐに この花をあなたに届けよう
風が吹く前に
花が散ってしまう前に
***
「カスロサ・リシュア中尉か……使えるのかね?」
黒い本革の椅子を少し回転させ男は部下を見遣った。男の名はグリムス・ヘイザー。ルナス帝国の陸軍元帥だ。年相応に薄くなった髪も髭にも白髪が混じっている。短く刈られた髪と対照的に、ふさふさと蓄えられた顎髭が否が応でも威圧感を倍増させている。
一方、ドアの方へちらちらと視線を向けていた細身の男は、慌てて声の主に向き直る。心なし顔色が悪い。ポケットから白いハンカチを取り出し、額の汗を拭った。彼の名はグルーオ・フォンス中将。現在は中央警察機構の総長を務めている。丁寧に撫で付けられた灰色の髪に皺一つない軍服。一目で几帳面な性格だと見て取れた。
「少なくとも実戦経験と腕は確かな男です。南部統合前、前線に居た時分は危険を厭わず戦い、また運にも恵まれたと思います」
「ふん、それが本当ならかなりの戦績を上げているはずだが……」
ヘイザーはメタリックのバインダーに綴じられた資料を捲りながら、不機嫌そうな声で読み上げた。
「アーカン村潜入作戦、キーラ部隊救出作戦、ルイズ砦奪還……」
眉が上がり、手が止まった。緊張気味に立っていた中将がそれに気づいて、デスクの方へ歩み寄った。
「そうです。彼は傭兵として常に自ら過酷な作戦に名乗りを上げ、必ず生還しました。たとえ……隊が全滅しても。そのしぶとさから仲間からも『死神』などと呼ばれていたものです」
「死神か……面白い」
左程面白くもなさそうにそう言い捨て資料をデスクに投げ置くと、せり出した腹の上で手を組んだ。趣味の悪い金の指輪が鈍く光る。
「で」
「その死神殿とやらはいつになったら現れるのかね?」
「あ、そ……その……」
中将はまた噴き出しはじめた汗を忙しく拭いながらドアの方を振り返った。
「奴はその、兵士としては有能なのですが……」
「時間にルーズなのが玉にキズなのよね」
腕を組んで上目遣いに軽く睨みながら、女──メイアは口の端を上げた。ツンとした態度に反して、声は嬉しそうに弾んでいる。
「欠点がないとホラ、イヤミってもんだろ?」
カスロサ・リシュアは軽やかな動きでメイアの肩に手をかけ、花束を渡しながら彼女の髪に軽くキスをした。緩やかに巻いたブルネットからは、淡く菫に似た香りがする。
「はいはい、いいから入って入って。チキンが冷めちゃうわ」
「いい匂いだ」
リシュアはご機嫌そうにベージュのコートを脱ぎながら部屋に入る。彼の肩まで伸ばしたプラチナブロンドは柔らかなウエーブを描いて、色白で面長の顔をひときわ華やかに縁取っている。部屋の明かりに目を細める。淡いグレーの瞳は一見冷淡に見えがちだが、垂れた目尻と長い睫毛が人懐こい印象を与えていた。
慣れた手つきでコートを掛けると、嫌でも彼の目に飛び込んで来るものがある。豪奢な細工を施したアンティークのカップボード。天板には象嵌で花や鳥が描かれ、ガラスには繊細な模様が刻まれている。いかにも新都心らしいオフホワイトを基調にした無機質なこの部屋の中で、ただこれだけがひときわ異彩を放っていた。
彼女に気取られぬようにリシュアはフン、と鼻を鳴らしてリビングを通り過ぎた。
旧市街の……貴族の臭いのするものは嫌いだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます