第26話 侯爵家の事情
アンビカは夕食を食べながら、ちらちらと父の方を見遣った。今日は、珍しく早く帰って来た父と2人で食卓を囲んでいた。
正確に言うと、囲むというよりも16人は掛けられる大きなテーブルの端に、二人だけで席を取っているのだが。
今日の父は機嫌が悪い。いや、機嫌が悪いというよりは、何か心配事を抱えている様子だ。アンビカは声を掛けるべきか否かをずっと迷いながら食事をしていた。そのために時々フォークが止まることもあった。
「──どうかしたのか?」
ドリアスタ侯爵は穏やかな声でアンビカにたずねた。
「あ、いえ……」
こちらから聞こうとしていたのに、先に問われてアンビカは言葉に詰まった。
「仕事の方は順調か?」
仕事、とはアンビカが経営を任されている馬の牧場のことだ。名馬を繁殖させ、育てて調教し、高値で販売する。
アンビカの牧場は亡くなった叔父が所有していたもので、彼女の愛馬クイン・ドランも、叔父から誕生日にプレゼントされたものだ。彼女は馬が大好きで、叔父の手伝いでよく馬の世話をしていた。
更には好きが高じて、叔父亡きあとは自ら進んで経営を引き継ぐと父親に申し出たのだった。
「お陰様で順調です。先週生まれた子馬も元気に育っていますし、昨日と今日で2頭に買い手がつきました」
「そうか。良かった」
それでも侯爵の顔が晴れる事はなかった。暫く考え込んだ後侯爵は席を立ち、アンビカの元へ近付くと、そっと頭に手を置いて一言だけ告げた。
「領地内の大部分の小麦が病気にかかって枯れた。今年の収穫は期待できないだろう」
「──えっ」
21年前のクーデターを機に、貴族たちの領地は軍によって大きく削られた。ただでさえ収入が落ち込んでいる状態で、主な収入源のひとつである小麦が駄目になってしまったのは大きな痛手だ。
「羊はいかがですか? このところ良い羊毛が収穫されていると聞きましたが……」
「羊は悪くない。新しい品種は質も量も良い羊毛がとれる。だが、内乱の際に軍が病院や学校を誤爆した事に反発して、ルナス帝国の商品の不買運動が起きているのだ」
ああ、とアンビカは吐息交じりに声をあげた。そういえばニュースにもなっていた。国外で乳製品やワインなどの不買運動が起きているのは知っていた。ならば名産の羊毛も対象になるのは当然だろう。
「どういたしましょう。領民の生活を守らねばなりません」
「無論だ。銀行に融資を頼んでいるが、状況次第では土地や別荘を手放すことになるかもしれん。分かってくれるか」
「当然です。私にできることがあれば、何でも」
侯爵は静かに頷き、再び愛娘の頭を撫でた。
「不動産や美術品以外にも手放さねばならぬものがある」
アンビカは僅かに首を傾げた。
「──この屋敷の使用人も減らさねばならぬ」
いつになく歯切れ悪く侯爵は言い淀む。
「幾人かのメイドと、調理人、それと……マニだ」
アンビカは目を見開いた。
「……マニも、ですか?」
侯爵は静かに頷いた。
「マニの方から申し出があった。ここを去って故郷に帰るそうだ」
「嫌です! マニだけは辞めさせないで下さい!」
娘の悲痛な叫びに父は戸惑う。アンビカも「自分にできることならなんでも」と言った舌の根も乾かないうちではあるが、まさかマニと離れることになるとは思ってもみなかった。
マニは乳母である。本来ならもうとっくに屋敷を離れているところだが、アンビカがそれを許さなかった。乳飲み子だった頃に病で母を亡くし、マニがずっと母親代わりだったのだ。
身の回りの事も侍女ではなくマニに頼んでいた。もはやマニはアンビカにとっては家族そのものなのだ。いなくなるなんて、考えられない事だ。
「言っただろう。マニからの申し出なのだ。嫌ならばマニと話すがいい」
父の提案に、アンビカは小さく頷いた。
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