第3話 白い車

 寺院へと繋がる橋の手前の駐車場に、一台の車が静かに停められる。

 橋の中央に設けられた検問所の若い警備員からも、その様子は良く見える。参拝者の車など珍しくもない。しかし彼は引き出しから小型の双眼鏡を急いで取り出し、その車を更に熱心に観察しはじめた。


 品のあるパールホワイトに輝くボディは、丸みを帯びた流線型をしている。車好きなら誰もが憧れる、名車の限定モデルだ。


「あれはたしか先月出たばかりのモデルじゃないか……」


 ため息交じりで呟く声には、羨望と嫉妬が僅かに込められている。彼の年俸では、200年働いても買えない代物なのだから、彼の心境も少しは理解できるというものだ。


 若い警備員は軽く舌打ちして、双眼鏡を机の上に放った。

 しかし数分後、彼は再び双眼鏡を手にしようとする。車から降りて真っ直ぐこちらへ歩いてくる人物が、あまりにもその車とそぐわなかったからだ。

 運転席の車の持ち主を良く見ようとした若者の手は、双眼鏡には届かなかった。


「レディをそんな呆けた顔で見つめるなんて、礼儀知らずな男ね!」


 検問所に着いた途端に睨みつけられ、厳しい口調で叱咤されて、彼は伸ばした手ごと固まってしまったためだ。


 怒りを具現化したような赤い巻き毛の女性は、紛れもなくドリアスタ侯爵家の女傑、アンビカ嬢だ。彼女のきつい言葉にどう答えようかと必死で考えながらも、彼の頭の中は一つの疑問で埋め尽くされていた。新都心限定モデルの新車に、何故旧市街のそれも貴族の人間が乗っているのだろう。


「で、ですが、今の車は侯爵様のもので……?」


 思わず口にしてから彼は死ぬほど後悔した。旧市街の貴族の女性の中で最も気難しいと言われる令嬢が、ぴくりと片眉を上げ凍てつくような怒りを込めた目で、再び自分を睨みつけたからだ。


「不躾にも程があるわね。いいこと? 詮索好きは命を縮めるって言葉を、その小さな脳によく刻み込んでおきなさい」


 それはまるで、凶悪な魔女に呪いの呪文を浴びせられた気分にさせる声そして表情だった。


 哀れな警備員は「ひっ」とだけ声を上げ、腰を抜かすように椅子にへたり込む。その間に、アンビカは足早に寺院へと向かって歩きだしてしまった。しかし彼にはもう「礼拝者名簿に記名を」などと呼び止めるような勇気は残っていなかった。


「車? 車ですって? ……何が車よ。くだらない! どうして男って車なんかで大騒ぎするのかしら」


 そう言いながらも彼女が苛ついているのは、別に車のせいなどではない。むしろそんなことはどうでも良かった。


 更に言えば、彼女は怒っているのではなく極度に緊張しているのだ。

 今日自分がここに来たことは、警備員達に極力印象付けたくはなかった。目的を考えれば至極当たり前のことだ。しかしまさか自分自身ではなく、橋の向こうに待たせた車が目に付いてしまうとは予想していなかった。


***


「ああもう。なんでこんな日に馬車が壊れるのよ!」


 父から託された大事な伝言を、司祭に伝えるため寺院へと出かけようとしていたのだが、出がけに屋敷の馬車の車軸が折れてしまった。更に他の車は出払っており、用心のためにもタクシーを使うことは避けたかった。仕方なく愛馬で出かけようと支度しているところに現れたのが、あの車だ。


 乗っていたのはルドラウト・キルフ。新都心と旧市街に多くの支店を持つアウシュ銀行の若き相談役。そして現在進行中の彼女の縁談の相手でもある。


「おや、こんな寒空に遠乗りですか?」


 キルフはいつもと変わらぬ穏やかな笑顔で、凛々しい乗馬服姿のアンビカを見つめた。

 その目は愛情と称賛に満ちていた。彼女はその笑顔を見て、ようやく彼との約束を思い出す。


「──いっけない!! そうよね。今日は一緒にランチに行くって……ごめんなさい!!」


 突然重要な仕事を父に頼まれたからとはいえ、完全に彼との約束が頭から抜け落ちていた。弁解の余地もなく彼女の失態だ。


「ちょっと急に用事が入ってしまって……。でもほら、馬車も車も都合が悪くてね……」


 服装に似合わず急にしおらしくうな垂れる彼女を見て、キルフは思わず顔を綻ばせる。


「では私の車に乗って行けば万事解決ということですね。ただ……」


 くすりと笑ってアンビカの服装に再び注視する。アンビカは一瞬不思議そうな顔をした後、自分が乗馬服姿だったことに気づく。


「あ、そ、そうよね。この格好で新都心のランチは無理……だわね」

「ええ、非常に残念ではありますがね。その姿でのデートはまた今度、ということで」


 慌てて着替えに戻るアンビカを、少し名残惜しそうに見送るキルフ。

 そんな彼を、アンビカは強く信頼するようになっていた。恐らく彼は決して自分を裏切ることはないだろう。これといった根拠はないが、何故かそう確信していた。


(だからって、こんな時に送ってもらうのは間違いだったわ。なんて馬鹿な私!)


 アンビカは、今更取り返しのつかない選択をした自分を、心の中で毒づいた。

 寺院への門をくぐる前に、ちらりと後ろを振り返る。


 白い車は忠実な大型犬のようにアンビカの帰りを待っている。彼女の顔に思わず笑みが浮かぶ。

 煩く付きまとうでもなく、追えば逃げるわけでもなく。キルフはいつも適度な距離を保って彼女を見守っている。

 今まで彼女の周りを取り巻いていた男性とは、まるで違っていた。結婚という気持ちにはまだ至らないが、少なくとも良い友人にはなれそうだ。


 そんなことを考えていると、先程の苛立ちも嘘のように消えていく。キルフという男は、その柔和な外見に反して、底知れない謎と余裕を感じさせるのだ。

 大きく息をひとつ吐き、アンビカは落ち着いた足取りで寺院の門をくぐって行った。

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