第8話 放蕩息子の帰還


 車に戻り、助手席に資料をバサリと放って、リシュアはぼんやりとフロントガラス越しに旧市街の街並みを見た。しばらくじっと考え込んだ後、大きなため息をひとつ吐き出して、エンジンをかけると車を走らせた。


 細い裏通りは、少年の頃に見たよりもやけに細く小さく古びて見えた。しかしその先へ続くのは昔馴染みの光景で、不思議なほどに何も変わってないようにも思えた。

 古くて不揃いなでこぼこの石畳の道。煉瓦と煤けた白壁の家の窓から向かいの窓へと洗濯物がかけられている。子供達が道端で遊んでいるところでスピードを落とす。


 しばらく走ると大通りに出た。そこを真っ直ぐどこまでも走って、行きついたのはルーディニア子爵家──リシュアの実家の屋敷だった。石と鉄でできた威圧的な門がそびえ立っている。柵から覗くのは広い芝生の庭と、重厚な石造りの巨大な屋敷だ。その手前には白い大理石で作られた人魚の像と噴水。そして庭の両側にはバラのアーチが続いている。


 リシュアが門の前に車を停めると、中から険しい顔で初老の黒服の男が飛び出してきた。


「おい君、ここはルーディニア子爵様の……」


 言いかけた顔が強張り、目が大きく見開かれた。


「こ、これは……坊ちゃま?! ご無事で……お戻りで……」


 今にも泡を吹きそうな初老の男の肩をポンと叩いてリシュアは苦笑いした。


「落ち着けよファサハ。心配かけたみたいだな。親父のこと聞いてな……入って、いいかな」


 ファサハと呼ばれたその男は目を白黒させながら大きく深呼吸して、まじまじとリシュアの顔を覗き込んだ後、慌てて白い手袋をした手を前に差し出してリシュアを屋敷に招いた。小柄だが、身奇麗な執事だ。白いものが多く混じるその髪も丁寧に整えられており、几帳面な性格が見てとれる。


「も、勿論ですとも坊ちゃま。ささ、皆が坊ちゃまのお帰りをお待ちしておりましたんですよ!」


 リシュアは更に苦笑いした。


「坊ちゃまはよしてくれよ。リシュア、でいい」

「ああ、これは失礼を坊…リシュア様。お父上もどんなにお喜びになるか……」


 ファサハは嬉しそうに潤んだ目に純白のハンカチを当てながら数あるドアをどんどんと開けてリシュアを中へと案内していく。


 屋敷は広く天井も高く、質の良い木材を丁寧に仕上げた歴史のある建物だ。ところどころに写真や絵画、時代を感じさせる美術品が飾られている。

 屋敷の中には見知った顔もあれば初めて見る若い顔もある。それぞれがリシュアの突然の帰還にざわめいた。



「何ですか、騒がしい。静まりなさい」


 短く厳しい声がした。一瞬で場が静まる。声のした方に目をやると、深緑の長いドレスを身に纏った黒髪の女性が階段を静かに下りてくるのが見えた。

 切れ長の目に緑の瞳。背中まで編まれた黒い髪。堂々と威厳に満ちたその女性は、リシュアを一目見て一瞬驚いたような表情を浮かべた。が、すぐに平静に戻り落ち着いた声で呟いた。


「カスロッサ……」

「姉さん」


 12年振りの姉弟の再会だった。しかしお互い言葉もなく見つめることしかできなかった。姉は亡くなった母に良く似ていた。母も気丈な人だったが姉も同じように育ったらしい。

 長男のいなくなった家を一人で守ってきたのだろうか。リシュアは黙って姉の言葉を待った。拒絶か、罵倒か、辛辣な嫌味か。何を言われても甘んじて受けるつもりで戻ってきた。じっと姉を見つめた。


「お父様は2階にいらっしゃるわ。まだ眠っていらっしゃるかもしれないから静かにお入りなさい」


 姉はそれだけ言うと音もなく階段を下りてリシュアとすれ違い、立ち去った。残り香は母と同じ香水の香りがした。

 リシュアは肩透かしを食らったような気分になり、ただ黙って姉の背を見送った。


「サリート様は7年前に婿殿をとられてルーディニア家に残られたのです」


 ファサハは静かにリシュアの無言の疑問に答えた。少なくとも姉は一人ではなかったらしい。そう思っただけで僅かにリシュアは安心することができた。


 心の中で姉の寛大な態度に礼を言い、リシュアは静かに階段を上がった。一際大きな扉を執事がそっと開けた。天蓋のついた広いベッドの上に父が横たわっていた。ベッドの横には水や点滴の装置が置かれ、透明なチューブが父の腕に繋がれている。


 老けたな。まずそう思った。若い頃は女性に間違われたこともあるという、ふっくらとしていた頬は痩せて皺が刻まれている。心臓が悪いと聞いてはいたが、やはり顔色もひどく悪い。眠っているのか、目を閉じているのを見ると本当に息をしているのか心配になる程だ。

 リシュアは静かに枕元に近づいた。ふと、父が目を開けた。しばらく泳いだ視線がリシュアを捉え、一時じっと見つめた後、ふっとその顔に笑みがこぼれた。


「ああ、今お前の夢を見ていたよ。カスロッサ」

「……具合はどうだい」


 リシュアはそっと父の髪の乱れを直した。リシュアのくせのあるプラチナブロンドは父譲りだ。鏡を見るたび父の若い頃に似てきたと日頃から思っていた。12年という月日が流れても決して消えない血の絆をリシュアはその手で感じていた。


「ああ。お前は元気か?」


 思わず苦笑しながらリシュアは感極まった自分の気持ちを抑えていた。重篤だと聞いていた父が自分の心配をしているのがやりきれなかった。


「父さんが元気になれば後は全て順調さ」


 父は静かに頷いて目を閉じた。息子は微笑んでその寝顔を見つめた。そして静かに呟いた。


「また来るよ。だから早く良くなって」



 再び眠りに落ちた父を起こさぬようそっとドアを閉めて廊下に出た。ようやく肩の力が抜けた気がした。改めて家の中を見回すと、昔と何も変わっていない気がした。

 時代を経た壁や床も古い家の匂いもそのままだ。ここが自分の居場所だとは感じないが、自分の一部は確実にこの場所に根付いている。

 おずおずとファサハが歩み寄ってきた。


「リシュア様のお部屋はそのままになっておりますよ。良かったらご覧になっていかれませんか?」


 正直意外だった。突然飛び出し生死も分からぬ状態で12年も経った自分の部屋などとうに片付けられているものと思っていた。リシュアの胸がどきん、と鳴った。しかしそれが嬉しいのか驚いたからなのかそれとも何か他の感情なのかは自分でも良く分からなかった。


「ああ、有難う。勝手に見に行っていいかな」

「当然ですとも」


 ファサハは嬉しそうに微笑んだ。リシュアはそのまま自分の部屋へ向かった。大きな屋敷の入り組んだ廊下を、体はちゃんと覚えていた。無意識に足は部屋へとリシュアを導き、そしてドアの前でぴたりと止まった。


 ドアノブに手をかけながら少し胸が高鳴るのを感じていた。そっとドアを開け、薄暗い部屋の中へ進む。閉めきられた厚手のカーテンを開けると春の日差しが射しこみ、部屋を明るく照らした。贅沢な刺繍を施したシルクのカーテンは多少日に焼けてはいたが、他に傷みもなくしっくりと手に馴染んだ。


 振り返ると、まるで変わらない自分の部屋があった。ベッドの脇に置かれた靴も、机に並べられた本やペンも、飾り棚に納められた鉛のドラゴンや騎士の人形達、そして壁に掛けられた12年前のカレンダーまでが、何一つ動かされることなく変わらずにそこにあった。


 それでいて部屋には埃ひとつなく、ベッドからは太陽のにおいがしていた。何時帰ってきてもいいように、12年の間ずっと掃除されて自分を待っていた部屋。リシュアは胸が熱くなった。この家を異国のように遠く感じていたのは自分ひとりであったのか。


 飾り棚から一番お気に入りだった髭面の斧使いの像を取り出して指で弄び、一人微笑んだ。ふと思い出して飾り棚の裏を手で探る。指に触れたものを取り出すと、それは小さな鍵だった。机の一番大きな引き出しの底板を外すと鍵穴の付いた木の蓋が出てきた。先程の鍵を挿しこんで回すと、カチリと軽い音を立てて鍵が開く。リシュアはその蓋を持ち上げた。


「なんだこりゃ」


 出てきたのは、ほとんどがガラクタだった。鍵をかけていたのは覚えているが、実際何が入っていたかなど覚えていない。改めて中を探ってみると、ひび割れた水晶の玉や記念金貨、射撃大会で貰ったメダルなどが大事に仕舞ってある。リシュアは当時の自分が余りに微笑ましく感じられ、思わずくすりと笑ってしまった。


 他には赤と金の表紙の日記もあったが、これはさすがに今更読む気にはなれなかった。何が書いてあるかなどとうに忘れたが、青臭い日々の記録など読んだら体が痒くなってしまいそうだ。


 苦笑しながら日記をどかすと、青いベルベットの四角い包みが顔を覗かせた。一際大事そうに仕舞われているが、やはり記憶にない。少し戸惑った後、リシュアはそれを取り出して恐る恐る開けてみた。

 

 中から出てきたのは1枚の写真だった。正装した立派な髭の男性と豪華なドレスの美しい女性、そしてその間に椅子に座った愛らしい少女が写っている。女の子は5,6歳といったところだろうか。レースをふんだんに使った、それでいて上品な可愛らしいドレスを着て微笑んでいる。


「あ……」


 リシュアは凍りついた。一気に記憶が蘇り、軽い眩暈のようなものを感じていた。何故。何故今まで忘れていたのだろう。


 その写真は前皇帝の一家──ゲリュー皇家のものだ。クーデターが起こる前の、幸せな家族の姿だ。まだ皇帝や貴族に権力があり栄華を誇っていたその頃は、どの家庭にも必ず皇帝の写真が飾られ、ルナスの神と共に愛され崇められていたのだ。


 しかしクーデターが起こり、皇帝と貴族はその力を失った。皇帝の写真を飾ることは軍によって固く禁じられ、その権力を誇示するようなものは集められ焼かれた。本来は所持してはいけないものなのだ。これは禁忌のもの。リシュアが記憶から消していたのもそのためかもしれない。


 リシュアは皇帝に傾倒していたわけでも、必要以上に尊敬していたわけでもない。ただ、この愛らしい少女の姿を初めて見た時から彼の心を捕らえて放さず、手放すことができずに人知れずこうして隠し持っていたのだった。


「……って、待てよ」


 皇帝には子供は一人しかいなかったはずだ。そしてその子が育って寺院に幽閉されて今に至っている。つまりこの少女が司祭の幼少の頃の姿だということだ。リシュアは写真を掴んだまま呆然と立ち尽くした。これはどういうことなのか。

 王家や貴族の間では幼い男子を魔よけの意味を込めて女装させるしきたりもある。しかし、公的な写真にまでそのような格好で写るということがあるだろうか。


「待て待て待て……」


 リシュアは一人呟いて、混乱した頭を整理しようと大きく息をついた。


「まさか司祭は女……?」


 そう言ってから、あの雨のピクニックの日を思い出した。雨に濡れた司祭のシャツは水で少し透けていた。その胸元はどう見ても女性ではなかったように思う。


「あれで女だとしたら余程ぺったんこ……って、あああ! 何言ってんだ俺は」


 言ってから不謹慎だと感じてリシュアは一人自己嫌悪に陥り自分の頭を叩いた。ひとしきり落ち込んだ後、はあ、とため息をついてから気を取り直し再び頭をひねった。


「写真の女の子が皇帝の娘だとすると、司祭は……誰だ?」


 もう一度写真をじっくりと見つめる。古い写真は色が褪せてはいるが、その長くゆったりと巻いた美しい栗色の髪と大きな菫色の瞳、そして陶器のような白い肌と綺麗な顔立ちは幼いとはいえ今の司祭の面影そのままだ。眉根を寄せて写真を見つめていると、ドアの外からファサハの声がした。


「リシュア様、お邪魔して申し訳ありません。もし宜しければお茶をお持ちいたしますがいかがでございましょう」


 その声に我に返ったリシュアは時計を見た。驚いたことにこの部屋にもう1時間ほど居たらしい。リシュアは慌てて写真を布に包みなおした。そして適当な本をとり、その間に挟んだ。


「あ、ああ、いや。今日はもう帰らないと」


 このままお茶まで飲んで行くほどに彼も厚顔ではない。ドアを開け、残念そうなファサハに微笑みかけると、リシュアは玄関に向かって歩き出した。


「今日は来て本当に良かったよ。有難う。……次は何かうまい菓子でも持ってくるさ」


 


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