第2話 記憶

 都心から少し郊外に出た所に、リシュアのマンションはあった。近くに公園もある割とのどかな地区だ。道の両側には住宅地が続き、深夜に人通りは見あたらない。

 ホテルのようなエントランスを抜けて、ガラス張りのエレベーターに乗り込む。新都心の建物に興味があるのか、アンビカはきょろきょろと見回し、少し落ち着きがない。

 部屋の中は淡い茶系を基調にした、極めてシンプルなものだった。壁には数字だけの時計とカレンダー以外何もない。家具も必要以上のものは見当たらなかった。

 

「……悪くないけど、なんだか殺風景ね」


 部屋の入り口近くで立ち止まったまま部屋をぐるりと見渡し、アンビカはぽつりと呟いた。

 

「ごてごてと悪趣味な、貴族様方のお屋敷に比べりゃあな。……座らないか。何かすぐに用意するよ」


 車の鍵をデスクに放りながらリシュアは言い捨てた。そんな言葉を軽く聞き流し、アンビカはショールを外してバッグと一緒にサイドテーブルに置くと、勧められたカウチに腰を掛ける。


「大したものはないんだがな」


 リシュアは冷蔵庫を開けた。いかにも独身男性らしくその中身は非常に少なくシンプルだ。中から買い置きのチーズとフルーツを取り出し皿に並べると、ワインを開けた。小気味良い音を立ててワインがグラスに注がれていく。

 グラスをアンビカに手渡すと、テーブルを挟んで向かいに座る。軽くグラスを上げて、リシュアは穏やかに微笑んだ。


「何に乾杯しようかな」

「そうね……無事故に、かしら」


 悪戯っぽく笑って、アンビカもグラスを上げる。リシュアは楽しそうに苦笑した。


「……じゃあ、無事故と再会に」


 二人は笑顔で乾杯し、グラスを口に運んだ。


「詮索する気はないが……そんな格好であんなとこで。何してたんだ?」


 率直にたずねると、アンビカはちょっと澄まして微笑んだ。


「マニには内緒で活動写真を観に来たのよ。旧市街にはほとんどないから不便だわ」


 その言葉を聞いて、リシュアは思わず小さく吹き出す。


「かつどうしゃしん……またえらく古臭い言い方だな。田舎の婆さんとでも話してる気分だ」


 アンビカはむっとした顔で手を伸ばし、軽くリシュアの頭を叩いた。


「失礼ねっ。映画、映画よ。わかってるわよ! こっちではみんなそう言うからつい……」


 怒っているのか恥ずかしいのか、アンビカはその白い肌を赤く染め、ぷいと横を向く。そんなアンビカを目を細めてリシュアは見つめた。ころころと変わる表情に飾らない性格は今も変わっていない。一方アンビカも、そんなリシュアの視線を感じて少し照れたように視線を泳がせた。


「……そっちこそ、すっかり新都心こっちの人間みたいな顔しちゃって」


 少し責めているようにも、羨んでいるようにも聞こえる。アンビカも、窮屈な貴族の暮らしには正直嫌気がさすこともある。新しい身分を得て自由に居を構えるリシュアを見て、複雑な気持ちになったのだ。


「ああ……そうだな。昔のことは、なんだかもう夢のことのような気がするよ」


 グラスを見つめて、ふっとリシュアは遠い目をした。アンビカはそんな表情をじっと見つめていたが、ついに耐え切れずに切り出した。


「ねえ。何があったの? どうして……急にいなくなったりしたのよ」


 リシュアはアンビカに視線を戻した。アンビカは思いつめたような顔でリシュアの瞳を見返している。はぐらかしたいと思ったリシュアだが、彼女の表情がそうはさせなかった。


「少し長い話になりそうだ」


 諦めたようにため息をつき肩を竦めて見せると、リシュアは2本目のワインを開けてテーブルに置いた。そしてグラスを持ったままアンビカの隣に席を移すと、ゆっくりと語り始めた。


「お前は覚えてるかな。俺の乳母の一人息子のカウワのこと……」


***


 カウワはリシュアより1つ年上で、当時リシュアは16歳カウワは17歳だった。

貴族の家に仕える者の多くは、南部の貧しい農村の部族の出だ。カウワの母のリニャも例外ではなく、生活のために乳飲み子を抱えてルーディニア子爵家に仕えていたのだ。

 幼くして母を亡くしたリシュアはリニャによく懐き、カウワとも実の兄弟のように仲が良かった。

 ある日庭の木陰でリシュアが寝転んで本を読んでいると、カウワが駆け寄ってきた。汗だくでひどく思いつめた顔をしていた。


「どうしたんだカウワ」


 そのただならない様子に日頃は呑気なリシュアもすぐさま飛び起きた。カウワは膝から崩れるように両手を地面につくと、乱れた息で吐き出すように言った。


「タリハが……タリハが……」


 タリハ、とはカウワの幼馴染で二人は恋仲の関係になっている。器量の良い南部の娘で、彼女は旧市街のカフェで働いていた。


「タリハが売られる! リシュア、タリハを助けてくれ!」


 タリハの家は貧しく、しかも大黒柱であった父が先月病気で亡くなった。悪徳な金融業者から多額の借金を背負ってしまっているという話は以前カウワから聞いてはいた。

 利息代わりにとりあえずという理由で、たった今タリハが車に乗せられて連れて行かれたというのだ。行き先は外国のお屋敷奉公ということだが、実際は売春宿に売られる事が多いという。


「追いかけようカウワ。まだ間に合うかもしれない!」


 青ざめたカウワの手を引いて、リシュアは走り出し、車に飛び乗った。免許を取ったばかりの危なっかしい運転だったが、リシュアの車は先行く車を次々に追い越し、出航前の船のいる港に着いた。


 港には古びたバスが1台停まっていた。中には数人の少女達が乗っているのが見えた。泣いている子もいたが、タリハは真っ直ぐに前を見て黙って座っていた。


「タリハ……!」


 カウワは思わず助手席から飛び出し、バスへ向かって走り出していた。バスの周りには1人の男が見張りをしながら煙草を吸っていたが、駆け寄ってくるカウワを見咎めて煙草を投げ捨てた。


「坊主、帰んな!」


 制止する男を思い切り殴り飛ばし、カウワはバスに飛び乗った。騒然とするバスの中から驚いた顔のタリハの腕を掴んで連れ出すと、リシュアの車へと走って戻ってきた。


「逃げるぞ、カウワ! しっかり掴まってろよタリハ!」


 リシュアはハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。

 しかし、少年達の逃走劇は30分もしないで終わりを告げた。殴られた男が警察に通報し、南へ向かう途中の街道でリシュアの車はパトカーに囲まれたのだ。


 彼らは失敗した。


 タリハは売られていき、カウワは誘拐と暴行の罪で投獄された。


「カウワは半年もしないうちに獄中で病死したんだ」


 静かに、リシュアは呟いた。アンビカは黙ってグラスの中の液体を見つめていた。


「俺だけは何も罰を受けなかった。運転したのも、彼らを逃そうとしたのも俺なのに。子爵の息子というだけで事件に関わったことすら表沙汰にされなかった」


 そんな自分に、身分の差が平気でまかり通る世界に、嫌気がさしたのだ。そう言いたいリシュアの気持ちをアンビカは痛いほど感じることが出来た。

 アンビカはそっとリシュアの膝に手を置いた。そこで初めてリシュアは自分の堅くなった表情に気付き、ふっと肩の力を抜いた。膝に置かれた小さな手を優しく握る。


「なんだか湿っぽい話になっちまったな」


 リシュアはふう、と息を吐き出した。


「あ、そうだ。手紙の話なんだけどさ……」


 気分を変えようと、リシュアは先日オクトから聞かされた戦場からの届かない手紙の顛末をアンビカに明かした。


「やだもう。検閲のことも考えないなんて、あなたらしいわね」


 呆れたようにアンビカは笑った。後先を考えないリシュアの性格も可笑しかったが、戦地からも自分に向けて便りを出そうとしてくれていた事実がアンビカには嬉しかった。


「馬鹿ね。でも、読んでみたかったな、その手紙」


 アンビカはリシュアの肩に頭を乗せ、重ねられた手を軽く下から握り返す。少しワインに酔ったのかもしれない。そう自分に言い訳をした。


 右手に伝わるリシュアの手のぬくもりをアンビカは懐かしく感じ取っていた。遠い少女時代、奔放に先を行くリシュアの背を気が付けばいつも追っていた。追っても追っても届かない、それなのに時折気まぐれに差し伸べられた手。アンビカにとってそれは特別なぬくもりだった。


「変わらないわね」


 ふと、アンビカは呟いていた。何に対してそう言ったのか、自分でもよく分からなかった。ただ懐かしさだけではない何か焦がれるような気持ちが心の中にこみ上げていた。

 リシュアは優しく微笑んで、手を握ったままアンビカの額に自分の額をこつんと当てた。子供の頃からよくしていた仕草のひとつだ。アンビカも微笑みを返し、そのままリシュアの肩に頭を乗せた。その頭をリシュアの右手が優しく撫でる。そのまま二人は自然に抱き合い、リシュアはそっとアンビカをカウチに横たえると初めは軽く、次に深く口付けた。




 人が動く気配にリシュアが目を覚ますと、ベッドの隣は空になっていた。バスルームからシャワーの音がする。外はまだ薄暗く、時計を見ると4時前だった。水音が止まり、少ししてバスタオルを巻いたアンビカが現れた。目を覚ましているリシュアに気付き、ちょっと気まずそうな顔をする。


「起こしちゃったみたいね」

「随分早起きなんだな。おはようも言わずに帰るつもりだったのか?」


 リシュアが困った顔で笑う。


「マニが心配するからもう帰らないと」


 泊まるつもりはなかった、と言いたいのだろう。なんとなくリシュアの顔を正視できずにアンビカは窓の外を見る。

 リシュアはシーツを巻いてベッドから出ると、入れ変わりにバスルームへ向かう。


「送るよ。そういう約束だろ」


 アンビカは何か言おうとしたが、既にリシュアはバスルームに消えていた。  


***


 旧市街と新都心の行き来は制限されているが、検問は極めて緩いものだった。リシュアが軍の認識票をちらりと見せると、若い係員は二人の乗った赤い車を笑顔で送り出した。

 しばらく大きな街道を走ると、周りは段々と緑に囲まれてきた。20年前の軍によるクーデターの後、新政府によって興された新都心と、かつては帝都として繁栄していた旧市街。これら二つは広大な森と農地によって隔てられている。

 

 畑や牧草地が広がる先には、薄明るくなりはじめた空の下になだらかな稜線が横たわっている。ここで育ったリシュアには、本来馴染みの懐かしい風景であるはずだ。しかし最早都会の生活に慣れきった今の彼に、どうもこの景色は落ち着かない。

 アンビカはじっと窓の外を見つめて黙っていたが、小さな橋の前に差し掛かると前方を指差した。

 

「そこの角でいいわ。誰かに見られると困るし。」


 リシュアは言われるままに静かに車を停めた。小さなエンジン音も、この静かな平原ではやけに大きく響いて聞こえる。


「ここから歩くのか?昼になっちまうぞ。」


 少し驚いたように辺りを見回すリシュアにアンビカはくすりと笑う。


「家からこの格好で出てきた訳じゃないわ。その先の小屋に馬と着替えを置いてあるのよ。」


 ドアを閉めながらそう得意げに言った。


「なるほどね。かなり遊び慣れてるみたいだな」


 リシュアににやりと笑われて、アンビカは頬を染めた。


「変な言い方しないでよ。たまには息抜きが必要でしょ」


 そんな様子を見て愉快そうに笑ってからリシュアは少し真面目な顔になり、名刺の裏に何か書いてアンビカに手渡した。


「これ、自宅の電話番号だ。こっちに来ることがあればいつでも連絡してくれ」


 アンビカは少しはにかみながらその紙片を受け取り、バッグにしまった。


「ありがと。また連絡する」


 そうして軽く手を振ると、あとは振り向かずに歩き去った。少しの間それを見送った後、リシュアの車も静かにその場を後にした。

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