第25話 褒めてくれているだろうか

「何故あのような話をしたのですかな」


 ドリアスタ侯爵は怒りに声を震わせるが、語調は柔らかだ。しかしそれが却って迫力を増して聞こえる。


 ミサを終え、控室に戻った二人はテーブルを挟んで座り、司祭がお茶を出す間もなく侯爵の叱咤が飛んだのだった。その姿はまるで教師に叱られる生徒のようだ。

 しかし司祭は動じることなく静かに答える。


「水の天女の物語は、旧版のあの伝説が正しいのです。旧版の経典の方が本来の教えでありますので──」

「正しいか正しくないか、それは貴族院が決めます。司祭様は言われた通りに話して下されば宜しい」


 遮るように言い切られた。ステッキが控室の床を突き、大きな音を響かせる。しかし司祭はまるで気圧されることなく反論した。


「ここはルナス正教の寺院です。その日伝える経典は、今後司祭である私が選びます」 


 そう言い放った司祭の表情は、ミサの最中のように自信に満ち溢れていた。

 侯爵は沈黙した。あんなにも従順だった司祭が、一体どうしてしまったのか、まるで謎である。こんな風に、びくつくこともなく堂々と反論されたのは初めての事だった。

 厄介なことになった、と侯爵は心の中で舌打ちをする。


「まあ、恐らくは誰かにそそのかされたのですな。良いでしょう。そのうちにまた気も変わるでしょうから、今日のところは大目に見ます」


 ステッキを手に立ち上がった。今ここで押し問答をしても、却って司祭は頑なになってしまうのは目に見えている。侯爵はしばらく冷却時間をとり、改めてしっかりという事を聞くように手なずけるのが得策と見たのだ。

 去り際に振り返り、鋭く睨みつけた。


「どうぞお好きになさいませ。──ただし後悔はなさいませんよう」


 司祭は黙ってその後ろ姿を見送ると、急に緊張が途切れたようにソファに座り込み、大きく息を吐き出した。その顔には安堵と、満足げな微笑みが浮かんでいる。

 首を回して右後方をを見れば、そこにはベージュのコートが掛けられていた。


「──見ていてくれましたか……?」


 司祭は誰かに頼らずに、自分の力で現状を変える事に決めたのだ。

 コートを抱きしめたあの時、脳裏を過ったリシュアの言葉。その笑顔。それが自分に閃きと勇気をくれたのだった。


 リシュアが自分を「強い」と言ってくれたから。それならば彼がいう通り強くあればいい。

 本当は弱い人間だ。しかし司祭は考えたのだ。「貴族院が期待する司祭」になりきることができるなら、「リシュアが期待する強い司祭」になりきることも出来るはずだ、と。

 

 果たしてその試みは成功した。貴族院が指定してきた偽りの伝説ではなく、改変前の本物の伝説を信者の前で話すことができた。


 ただし、それは簡単なことではなかった。何よりも、大きな不安があった。それは侯爵のことだけではない。

 恐らくはルナス正教の信者たちは皆、新版の経典の物語を欲しているであろうことだ。自分が特別で選ばれし者だと思いたい気持ちが心のどこかにあるのだろう。


 日々の不安や不満、悲しみや怒りという感情を抑えて人々は日々生きている。その抑圧された気持ちを救っているのがミサで聞かされる物語なのだ。

 それを裏切るには勇気がいる。信者たちや侯爵がどう反応するかを考えると、とても緊張し、恐怖さえ感じた。実際に怒りや失望の表情を浮かべて席を立った者も少なくなかった。

 

 だが司祭はやり遂げることができたのだ。誰かに押し付けられるのではなく、自分が正しいと思った事を。

 少しは誇ってもいいだろうか。司祭は立ち上がり、コートに歩み寄り、触れた。リシュアは遠いところから自分を見て褒めてくれているだろうか。

 

 司祭の目から、訳もなく涙が流れた。

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