第24話 水の天女の物語

 栗毛の少年が声をかけ、司祭は控室を出る。後はいつもと同じだ。静まり返った礼拝堂は朝の光がステンドグラスを通して、色鮮やかに照らされている。


 壁際にオクトの姿が見えた。じっと司祭を見つめている。司祭はオクトから目をそらして祭壇へと進む。オルガンが鳴り讃美歌が流れる。いつもと変わらぬミサの朝だ。ただ一つ、司祭の表情はいつもより硬かった。


「今日は水の天女のお話を致します」


 凛とした声が礼拝堂に響き渡る。信者たちはその美しい語り部の姿に心を奪われていた。


「かつてルナスの民も異教徒の民も天女たちも、あらゆる者がリュレイには住んでいました。ですが、リュレイは乾いた土地が多く、人々は水を巡って争いに明け暮れていました。特に異教徒間、異民族間の争いは目を覆いたくなる程醜悪なものでした」


 ドリアスタ侯爵の眉が僅かに動く。


「争いは更なる土地の荒廃を生み、誰もが乾き、飢え、苦しみました。人々の争いを見かねた水の天女は地中より大量の水を湧き出させて、リュレイを水で覆いつくしました」


 司祭の手元には小振りの、古い経典が置かれていた。


「しかし大量の水は人々を襲い、多くの民が水の底へと沈みました。その水は恵みではなく、人々への制裁だったのです。」


 読んでいるのは大きな革表紙の経典ではなかった。先程控室で司祭が読んでいたのはこの手元に置かれた小さな古い経典だ。

 司祭の自信にあふれた美しい声が、詠うように古い物語を語っている。それはいつもの物語とは違い、ルナスの民が天女から制裁を受けたというものである。


「その時ルナスの民が舟を出し、他の人々を救いました。救われたのはルナスの民、そして異教徒の人々でした。更に異教徒達も舟を出し、その舟がルナスの民をも救いました。彼らは高い山へと移住し、皆が協力しあって小さな街を再建したのでした」


 ざわ、と一瞬のざわめきがあった。ドリアスタ侯爵が僅かに腰を浮かせた。構わずに司祭は話し続ける。ルナスの民と異教徒が助け合う物語を。


「こうしてリュレイは水に満たされた星となりました。互いに助け合う気持ちを忘れないように。リュレイを見るたびにこのことを思い出すためにと、水の天女がリュレイを水の星にしたのです」


 しばらく礼拝堂はざわめきに包まれたものの、すぐにしんと静まり返った。信者たちの大半は、真剣な顔で司祭が語る言葉に聞き入っている。司祭の声そして姿はそれほどまでに人々を魅了するのだ。 


「大変な時は勿論の事、普段から助け合うのは人として大切なことです。宗教や人種によって争うような愚かしい行為は、いつかまた天女の怒りを買うでしょう。私たちは日頃から助け合う心を、己と違う者達を理解する心を持たねばなりません」


 怒りに満ちた表情で、ドリアスタ侯爵は司祭を睨みつけた。だが、ミサが始まっている今、その話を遮る事はたとえ彼でもできなかった。

 司祭はそんなドリアスタ侯爵の目を正面から見据えながら先を続けた。


「ルナスの民が特別なのだとしたら、それは他を思いやり気遣い助け合うことができるからです。奢りはいつか己の身を滅ぼすでしょう。ルナスの民よ、ルナス正教の信者よ、謙虚でありなさい。神に愛されるにふさわしい存在でありなさい」


 数人の信者が無言で席を立ち、礼拝堂を後にした。それにも司祭は動じることなく、堂々と祭壇に立っている。

 そして戸惑いと驚きに満ちた人々の顔を、ぐるりと見回した。


「──神と天女に祝福されし我々ルナスの民に幸あらんことを」

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