風が吹く前に 第三章

第1話 新たな出会い

「随分と顔色が良くないですね。大丈夫ですか?」


 穏やかなオリーブ色の瞳が心配そうに見つめているのは、ロビーの椅子に腰掛けている女性だ。背もたれのない四角い革製の椅子は、大理石の大きな柱の周りを囲むように置かれており、女性はその柱に寄りかかるようにして休んでいた。

 

 平日の夕方は、チェックインの客やホテルのレストランに向かう人々で賑わってはいたが、青ざめた顔で柱にもたれている女性の姿に気付く人は誰もいなかった。

 ダークブロンドの青年に声を掛けられた赤毛の女性は、それまで閉じていた緑の瞳を薄く開けた。そして身なりの良いこの若い男性を見上げると、弱々しく微笑みながら言った。


「顔色が悪いのに大丈夫なわけないじゃない。あなた馬鹿じゃないの」


 突然辛辣な言葉を浴びせられた青年は、きょとんと目を丸くして女性を見返した。


「これは失敬。では、何か僕にできることはありますか?」


 素直に頭を下げた青年を一瞥すると、女性はにっこりと微笑んで彼の背後を指差した。


「そのまま真っ直ぐ歩いて消えて頂戴。そして余計なお世話を焼いたお節介加減を深く反省することね」


 それだけいうと、女性は再び目を閉じて柱にもたれてしまった。青年は暫くその姿を見つめていたが、遂に諦めたように肩を竦め、言われるがままにきびすを返して歩き出した。



 そうして青年の姿が人ごみに消えようとした時、女性は何かを思いついたように目を開けた。そしてその背に向かって小さく叫ぶ。


「……ねえ! あなた、車持ってる?」


 しかし一瞬遅く、青年の姿は人ごみの中に飲まれてしまっていた。女性はぼんやりと青年が消えた人ごみを見つめていたが、すぐに諦めたように目を閉じた。


「タクシーでも拾おうかしら」


 ため息と共に小さく呟くと、彼女の耳元で、チャラ、と金属の音がした。驚いて顔を上げ、音のした方へ目をやる。


 目の前には高級車のエンブレムの入ったキーホルダーと鍵。そのまま視線を上げるとオリーブ色の瞳が微笑んでいた。


「車なら持っていますよ」


 先ほどの青年が白い歯を見せて立っていた。女性──ドリアスタ・アビィ・アンビカはじろり、と青年を睨むと、ぷいと顔を背けた。


「あはは、すみません。フロントに鍵を預けておいたもので」


 青年は悪びれた風も無く手を差し伸べた。アンビカは面白くなさそうに彼を睨みつけていたが、渋々その手を借りて立ち上がった。強がってはいても、かなり具合が悪いのは事実なのだ。


「ここから連れ出して欲しいのよ。訳は聞かないで」


 青年は静かに頷くと、アンビカを優しくエスコートしながらエントランスまで連れて行き、ボーイに車の鍵を渡した。

 程なくしてシルバーの車が玄関に回されてきた。青年は車両係りにチップを手渡し、自分でドアを開けてアンビカを後部座席に座らせた。



「行き先は病院がいいんでしょうか」


 静かに走り出した車のハンドルを握りながら青年はミラー越しにアンビカに視線を合わせる。


「病院はいいわ。原因は分かってるから」


 ぶっきらぼうに返したが、ミラー越しの青年の瞳はじっとアンビカを捕らえて放さない。普段ならそんな視線は無視する彼女なのだが、何故かいたたまれない気分になり遂には悲鳴のような声を上げた。


「分かった。分かったわよ。話すから!」


 そうして、はぁ、と一つため息をついてから再び口を開いた。


「昨日から何も食べてないのと、血圧を下げる薬を飲んだせいなのよ。あとは至って健康なの」


 青年の顔があからさまに怪訝そうに歪んだ。相変わらず言葉に出しては聞かないが、じっと目を離さずにアンビカを見つめ続けている。


「……抜け出したい食事会があってね。でもちょっとやそっとじゃ帰れないと思ったから。本当に具合が悪くなっちゃえば向こうだってどうしようもないでしょ?」


 それを聞いて青年は少し怒ったような顔になり、ようやく口を開いた。


「だからってそんな真似。血圧を下げるなんて、素人がそんな薬適当に飲んで良い訳ありませんよ」


 アンビカはバツが悪そうに口を尖らせて目を逸らした。


「分かってるわよ。確かにちょっと失敗しちゃったと思ってるわ」


 実際薬の効き目は予想以上だった。相手を出し抜いて意気揚々と帰るつもりが、ホテルのロビーから動くことも出来なくなってしまったのだ。こんなことなら前もってリシュアにでも車を頼んでおけば良かったとも思う。


「では、まずは何か食べたほうがいいですね」


 青年はハンドルを切って細い路地に車を進めた。


「ここで待っていて頂けますか」


 住宅街の中にある、赤い屋根の家庭料理の店の前に車を停め、青年は車を降りた。アンビカは車の窓ごしに街並みに目を移して彼を待つ。西日に照らされた洗濯物を取り込む主婦をぼんやりと眺めていると、程なく大きな紙袋を抱えた青年が笑顔で戻ってきた。


「車の中で食べるの?」


 少し不満そうにじろりと視線を送るアンビカに、青年は穏やかな笑顔を返す。


「あまり動かないほうがいいと思いまして。良い場所がありますから、ちょっと走りますよ」


 

 車は再び走り出した。大通りに戻り川沿いに向かって走ると、橋の手前に検問所が見えてきた。


「え……?」 


 思わずアンビカは小さく声を漏らしていた。

 橋の向こうは新都心だ。検問所には軍の制服に身を包んだ男が3人立っている。青年は穏やかな表情のまま胸ポケットから何かカードのようなものを取り出して検問所の軍人に手渡した。


 受け取った軍人はじっとカードに目を落とし、小さく頷くと検問の柵を上げた。

 車は静かに新都心へと滑り込む。


「あなた、何者?」


 一時は法改正で新都心と旧市街の行き来が自由化されると言われていたが、この内乱で自由にどころか以前よりも取締りが厳しくなっていた。一般の市民は事前に審査を受けて許可証を発行してもらわねばならなくなっていたのだ。

 それを、この青年はカード1枚ですんなりと許されてしまった。


「あはは、なんてことはありません。あちらとこちら、両方に職場があるのですよ」


 青年はウインカーを上げながら視線は前を向けたまま愉快そうに種明かしをした。

 しかし理由が分かってからも、アンビカには先ほどの青年のカードが魔法の道具のように思われて仕方が無かった。とはいえ、それ以上の質問はなんとなく憚られ、ただその仕立ての良いスーツの背中を見つめるだけだった。 


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