第23話 証言
早朝の中央警察機構旧市街支部に、まだ人の姿は少ない。髪をきつく結び、度のない眼鏡をかけ、地味なスーツに身を包んだリシュアは、広い玄関を抜けてまっすぐ資料保管室に向かった。すれ違う人たちの中にも彼に目を留めるものは誰もいない。
保管室の鍵はかかっていなかった。壁のスイッチを入れて灯りを点け、目指すロッカーに手をかける。ロッカーには鍵がかけられていたが、ピンを使って簡単に開けることができた。ずらりと並ぶファイルの中から、リシュアは手早く目的の資料を探り出す。
先日リシュアが遭遇した、旧市街での第2の事件ファイルだ。オクトとは別に、旧市街支部の担当者が作成した調書や証拠、資料などが綴じてあった。
手帳を取り出し、目撃者の男の住所を書き写して事件の資料に目を通す。やはりあの後の雨のせいでこれといった証拠や痕跡は残されていなかったようだ。リシュアは安堵の息を漏らした。そしてロッカーに元通り鍵をかけ、リシュアは建物を後にした。
***
「あれ、またですか」
リシュアが身分証を見せながら中央警察を名乗ると、男は怪訝な顔をした。男はあの雨の夜の目撃者だ。リシュアは敢えて不機嫌そうな態度をする。
「事件が解決するまでは協力するのが市民の義務だ」
男は渋々ながら細く開けた玄関のドアを一度閉め、チェーンを外してリシュアを迎え入れた。
「何か思い出したことはないかと思ってな。なにせ目撃者が少なくて情報が足りない。なんでもいいから話してほしい」
男は腕組みをしたままあれこれと記憶を巡らしているようだが、その顔は渋い。
「うーん、なにせ暗かったし。一瞬だからねえ」
「年齢も性別も不明、か。性別くらいは分かりそうじゃないか」
男は恨めしそうにリシュアを見返す。
「本当に暗かったんですよ。それに動転していましたし。まあ、髪は長かった気がするんですが、女性にしちゃあ結構身長があったような気がしますねえ」
「そうか。だが女性はヒールの高い靴を履くからな。だとしたらどうだ?」
男は顎に手を当ててじっと考えた後、うんうんと頷いた。
「ああ、そうですね。言われれば確かに女性のように見えました。……なんだか、マントに頭巾のようなものを着ていたように見えましたね」
「マント? 今時仮装じゃあるまいし。例えばレインコートのような何かを見間違えたんじゃないのか?」
その言葉を聞いて、男の顔が明るくなった。
「うーん。そうかもしれない。あの日は雨だったし。ああ、そうだ。きっとそうですよ」
「そうか。……ほらな、良く考えれば思い出せるだろう」
今までの経験から、自信のない記憶は後から容易く書き換えられていく。もうこの男があの夜に見た人物の本当の姿を思い出すことはないだろう。リシュアは手帳を閉じた。
「助かったよ。また仲間が来るかもしれんが協力を頼む」
「……なるべくこれっきりにしてほしいですね」
恨めしそうな男の声を背中に聞いて、リシュアは彼の家を後にした。
駐車場に停めておいた車に乗り込み、エンジンをかけた。耳に馴染んだ音楽が流れてきて一気に緊張がほぐれる。リシュアは眼鏡を外し運転席にどさりと体を預けると、大きな息をひとつ吐き出した。
自分が今していることは少なくとも正義ではない。しかしそんなことはどうでもよかった。大事なのは司祭を護ることだ。たとえそれが法に背くことであるとしても。この行動に悔いも迷いもなかった。
「さて、帰るか」
体を起こしギアを入れると、リシュアは寺院に向かって車を走らせた。
そのまま寺院に戻って、午後のお茶の準備を手伝うことになった。イアラが簡単なクッキーの作り方をリシュアに教えながら器用に形作って天板の上に並べていく。
「後は焼くだけだから、そろそろ司祭様にお声をかけてきてくれる?」
司祭とは夕べ扉の前で番をしただけで、そのまま顔を合わせずに出かけた。どんな顔をして会おうかと思い迷いながら歩いていると、いつの間にか部屋の前まで来てしまった。
「あー、コホン」
ノックをする前になんとなく咳払いなどをしてみる。すると、部屋の中で人の気配がした。
「……中尉さんですか?」
扉の向こうから司祭の声がした。意外と明るいその声にリシュアはほっとする。
「お邪魔をしてすみません。少し早めにお茶の準備が出来ましたので、お迎えに参りました」
扉が静かに開く。少し目を伏せた司祭が立っていた。何と声をかけようかとその姿を見つめていると、司祭は僅かに顔を上げ、上目遣いにリシュアを見上げた。
「昨日は有難うございました」
そう言って小さくお辞儀をする。再び上げた顔ははにかむように微笑んでいた。リシュアの肩から力が抜けた。
「いいえ。お役に立てれば幸いです。これからは何でも遠慮なく仰ってください」
自然と司祭の肩に手を置いていた。親密になってきたとはいえ、今までは何となく距離を感じて気軽に触れることなどできなかった。だが今の司祭からは以前のような緊張した空気は感じられない。司祭はじっとリシュアの目を見つめた後、静かに頷いた。
キッチンに行くと、クッキーの焼ける甘い香りが立ち込めていた。
「もうすぐ焼きあがりますよ」
イアラはオーブンを覗き込んでいる。司祭はキッチンに用意されていた道具を使って手早く紅茶を煎れはじめた。
「今日は暑いのでアイスティーにしましょうか」
司祭が言うと、イアラは頷いて氷を運んできた。赤い液体が透明な氷を伝い、ガラスのポットの中で色鮮やかに冷やされていく。
お茶の準備が整った頃、丁度クッキーが焼きあがった。スライスしたアーモンドが練りこまれた生地をざっくりとまとめて焼いた素朴な菓子だ。
「なかなかうまく出来てるわね。ひとまず合格といったところかしら」
イアラがリシュアに向かっていたずらっぽく微笑んだ。
「先生がいいからな」
司祭の椅子を引きながらリシュアも笑みを返す。
「ふわぁー。あっちい。喉渇いたぁ」
勢いよく裏木戸が開いて、正面の庭からロタが姿を現した。
「お疲れ様ですロタ。精が出ますね」
「あっ! し、司祭様。いらしたんですか。……あはは、訳ないですよ、このくらい!」
優しく微笑む司祭の姿を認めて、ロタが真っ赤になる。慌てて手を洗いにキッチンへ駆け込み、汗を拭きながら戻ってきた。
「……そういえばこの勝手口、いつの間にかひっかかりがなくなったなあ」
何気なくロタがポツリと呟くのを聞いて、司祭はリシュアと視線を合わせた後、嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「これか? これはな、司祭様がちょちょっと直してしまわれたんだよ」
にやりと笑うリシュアを、ぽかんとした顔で見つめ返すロタ。そんなロタの姿を見て司祭はくすくすと笑った。
「訳ないのですよ、このくらい。ですからこれからはもっと色んな仕事を任せてくださいね」
リシュアの言葉に乗って、すまし顔の司祭が言う。それを聞いてリシュアも声を出して笑った。
「さあ、お茶にしましょう」
皆の笑いが収まったところで静かに司祭が祈りを捧げ始めた。
「いただきます」
冷えた紅茶からは甘い花のような不思議な香りがした。目を丸くしてグラスを覗き込んでいると、司祭が茶葉を入れた缶の蓋を開けて見せた。
「自家製のハーブやフルーツを干したものをブレンドしたのです。いい香りでしょう?」
缶を覗き込むと、黄色や赤、紫の小さな花びらや、細かく刻まれたドライフルーツが茶葉の合間から顔を出している。茶葉からも鮮やかな香りが漂い、見た目にも宝石箱のようだとリシュアは思った。
「いよいよ祭りも明日ですね。部下たちも本当に楽しみにしております」
祭りの話題になり、子供たちの表情もさらに明るくなる。
「今日のうちに色々と仕込みをしなくちゃ。軍人さん達は何人参加できるの?」
「秘書も来たいと言っていたから、6人だな。……ほら、前に旅行の絵葉書をお見せしましたでしょう。あの子ですよ」
司祭に向き直って指で四角を作って見せると、司祭はすぐに思い出したようだ。
「そうですか。寺院や史跡がお好きだとか。是非当日は寺院の敷地内をご覧になって頂いて下さい」
「はい、有難うございます。きっと大喜びすると思いますよ」
その後祭りの話題でしばらく盛り上がった後、お茶の時間はひとまず終わりとなった。
「さーて、残りの雑草をやっつけてくるかー」
ロタが大きく伸びをする。
「随分頑張るじゃない。最近サボってた分を取り戻すつもりかしら?」
イアラにからかわれてロタは真っ赤になる。
「さぼってなんかいないさ! 最近は雑草が伸びなかっただけだって。……でもまた露が降りるようになったみたいだからなあ。伸び始める前に抜いちまっておかないと。庭を荒らして司祭様に恥をかかせるわけにはいかないからな!」
鼻息を荒くしてロタは再び帽子を被って木戸へと向かった。笑顔のままリシュアは司祭の顔に視線を戻し、ふと眉を寄せた。
司祭はやや俯き加減で暗い表情をしていた。
「どうかしましたか?」
たずねると同時に、それがロタの発した「露」という言葉のせいだということに気が付いた。霧の夜が明けた後に必ず庭を覆う露のことだ。リシュアの問いに司祭は答えない。彼は黙って司祭の手をそっと握った。すると少し驚いたような表情で司祭はリシュアを見上げる。
「大丈夫。そう言ったでしょう?」
リシュアが微笑むと、ようやく司祭も硬い表情をほぐして頷いた。僅かに、ほんの僅かに司祭がその手を握り返してきたように感じた。
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