第22話 光る目

 オクトに連絡を取り、ルミナを交番に預けたままリシュアは寺院に戻った。彼の顔は暗い。警備室には寄らずにまっすぐキッチンへ向かい、地下室に潜った。


「なんてこった……」


 リシュアは愕然としてその床を見た。真新しい、泥の足跡。例の秘密の──ピクニックに出かけた時の扉は半開きのままだ。

 証言通りに足跡を追って見つけたのは、この通路を抜けて出た林だった。足跡はあの秘密の出入り口に続いていたのだ。そしてそこにほんのりと漂う残り香は、司祭のものと同じ甘い香りだ。

 リシュアはそれでも認めたくはなかった。あの司祭にあのような所業ができるとは到底思えない。あの場に居合わせたのが司祭だったとしても、犯人であるということにはならないのだ。


 あのピクニック以来、司祭はこっそりと寺院から抜け出ることに楽しみを見出していたのかもしれない。しかしただそれだけだ。不幸にして今日はあの現場に遭遇してしまったのだろう。そしてこのことがきっかけで、司祭が寺院から抜け出たことが明るみに出ては大変だ。少しでも司祭に嫌疑がかかることはどうあっても避けたかった。リシュアはこの痕跡を封じるかのように硬く扉に鍵をかけた。


***


「こちらがやられるとはな」


 腕組みをしたオクトが眉間を指で押さえながら吐き出すように呟いた。


「こいつは誰なんだ?」


 中央警察機構旧市街支部、その地下にある死体安置所に二人は再び居た。リシュアは昨日被害にあった、ミイラ化した遺体を見つめた。髪が金髪である以外はまるで同じような土色の人型の固まりであり、前回の被害者トーラス・ヘインとまるで見分けがつかない。


「イリーシャには関わりがなかったが、念のために別のチームが警護していた男だ。……バーテンをしてるんだが、裏で盗品売買なんかに関わっていたらしい。ちょくちょく我々のガードを撒いては「仕事」に行っていたようだが。……馬鹿なやつだ」


 苦々しいオクトの口ぶりから悔しさを感じ取って、リシュアは友を労わるような視線を投げかけた。今朝のニュースでも、警察の失態を叩くような報道が各局で流れていた。責任者であるオクトは相当応えているだろう。


「それで、なにか手がかりになるようなものは無かったのか?」


 オクトの質問にリシュアはどきりとする。平静を装いゆっくりと頷いて見せた。


「ああ、残念ながら俺が行ったときは逃げた後だった。後を追ったが……広場から街中に出たようだ」


 リシュアは友に心の中で謝罪しながらそう答えた。全ては司祭を護るため。犯人の手がかりならこれから一緒に探せば良い。


「そうか。じゃあ犯人は旧市街の人間という線がやはり濃厚だな。まずはまた聞き込みから始めるか」

「ああ、手伝うよ」


 嘘を償うような気持ちでそう伝えた。


***


 寺院に戻ると、リシュアは買ってきた煉瓦を地下の秘密の通路に運び込んだ。自分で壊した壁があったあの場所に、再び煉瓦を積んではセメントで固めていく。赤い煉瓦を1つ1つ積みながら、あのピクニックの時の司祭の笑顔を思い出す。太陽の下で、それは明るく輝いていた。無邪気な笑い声。また連れて行きたいと思っていたが、今はまだそれさえも許されないようだ。


 煉瓦を積む手が止まった。リシュアの心は沈んでいた。小さな煉瓦がやけに重く感じられる。半分ほど積みあがった壁を、暗い表情でしばらく見つめていたリシュアだが、ふと吹っ切れたように再び煉瓦を積み始めた。これが司祭を疑惑から護るためならば、もう迷うことはなかった。煉瓦を天井まで積み上げ通路を完全に封じ、その通路へ続く扉にも漆喰を塗り固めると、寺院は再び司祭を閉じ込める丘の上の牢獄となった。


***


 夜を待って、リシュアは昨日のことを思い切って司祭にたずねてみようという気になった。事実が分かれば、疑いを向けられた時に力になれる事も多いだろう。いつも司祭の秘密主義に付き合ってきたが、事件となると黙ってもいられない。これは司祭を護るためだ。リシュアは何度も心で繰り返し、挫けそうになる気持ちを追い払った。


 しかし、その日に限ってイアラが司祭の部屋を訪ねて遅くまで談笑していた。更けていく夜に、じりじりと時計とのにらみ合いが続いた。深夜になってようやくイアラは暇乞いをして部屋に戻っていった。さすがにこれから部屋を訪れるのは非常識だろうか。迷った末にやはり明日まで待つことにした。


「もうすぐですね、司祭様のところのお祭り」


 冷えたソーダを片手に車の雑誌のページを繰っていたムファがふと顔を上げた。


「ああ、そういえばもう明後日か」


 ぼんやりとリシュアは答える。


「何着ていけばいいんですかねえ。何か持っていった方がいいんでしょうか?」


 そういえば何も聞いていなかった。しかし今はそんな気分ではない。祭りと聞いてリシュアは更に憂鬱な気分になった。


「明日にでも聞いておく」


 リシュアは不機嫌そうに答えて部屋を出た。夜の空気が吸いたかった。小高い丘の上にあるこの寺院は朝晩なら真夏でも涼しい。剃刀のように細いリュレイが僅かな光を庭園に落とす。妙な感覚にふと見上げると、いつぞやの夜のように塔が呼吸をしているかのような生暖かい気配を発していた。

 あの時はロマンチックだ、などと呑気なことを言ったものだが、今こうして見上げるとやけに不気味に感じられる。リシュアは息をつめた。


 ──歌が聞こえてきた。


 あの夜と同じだった。塔の方から歌声がする。リシュアはそっと声のする方へと近づいていった。

 塔の足元の庭に司祭が佇んでいた。庭にひとり立ったまま、静かに歌を口ずさんでいる。その周りを取り巻くように霧が立ち込め、生き物のように広がっていた。霧はだんだんと辺りを包み込み、見る間に視界を奪っていく。

 リシュアは司祭を見失わないようにそっと近づいた。低く不思議な歌声が、甘い香の香りが、霧とともにリシュアの元に届く。幻想的な美しい眺めだ。リシュアは心奪われたように言葉もなくじっと見つめ続けた。


 司祭の手がすう、と上がった。庭の向こうの藪の中でがさりと音がして、何かが動く。見ると痩せた狐がゆっくりと姿を現した。寺院を囲む石壁の、鉄格子の隙間からでも迷い込んできたのだろうか。

 愛らしい黒い瞳で真っ直ぐに司祭を見つめ、足音を忍ばせて近づいていく。司祭の横顔が、ふっと夢見るように微笑んだ。いつもの慈愛に満ちたそれとは違う、どこか妖艶な微笑み。リシュアはどきりとしてその横顔を見つめた。

 狐はそろりと司祭の足元にまで顔を寄せた。司祭はゆっくりと跪き、その細長く愛らしい顔に自分の顔を寄せた。そうしてそっと背を撫でながらその獣の上に屈みこんだ。


 その一瞬後、狐が小さく短い鳴き声を上げた。狐の体が、足が、小刻みに震える。暫くそうしたあと、小さく細長い体は崩れるように力尽きて横たわった。

 まさか、とリシュアは心の中で呟いた。そうして震える足でゆっくりと司祭に近づいていく。すぐ目の前まで近づいたとき、霧の中で狐の姿が鮮明に見えてきた。

 その姿は、干からびたミイラのようだった。


「あ……」

 

 リシュアは思わず声を漏らした。

 その声に、ゆっくりと司祭はリシュアの方へ顔を向けた。美しい妖艶な笑み。そしてその瞳は金色に鈍く光っている。動こうと思ったが、その目に魅入られ体が動かない。司祭はゆっくりとリシュアに向かって歩き始め、目の前で歩みを止めた。白い霧に包まれて、まるで夢の中にいるかのようだった。司祭は再びリシュアへ歩み寄る。端正な顔が少しずつ近づいてきた。


 息がかかりそうなくらいに司祭の顔が目の前にある。ぞっとするほどにそれは美しかった。司祭の白い指がリシュアの腕を掴む。彼は術にかかったかのように、体の自由を奪われていた。貴人は再び笑みを漏らした。少し伸び上がって顔を近づける仕草は、口づけをしようとしているように見える。そしてそれに従うようにリシュアは無意識に背を屈めていた。鼻が触れるほどに顔が近い。


 薄紅色の唇がリシュアのそれと触れようとした瞬間。リシュアの脳裏に罪悪感と使命感のようなものが湧き上がった。こんなことで良い訳が無い。この優しく美しい人に罪を犯させて良いはずが無い。そして同時に湧き上がる恐怖。


「司祭様!」


 突き飛ばすように体を離して、リシュアは短く叫んだ。その声と衝撃に、司祭の金の瞳が揺らめきながら大きく見開かれた。そうしてゆらりゆらりとその体を揺らした後、司祭は目を閉じてゆっくりと崩れ落ちた。地面に頭を打ち付ける直前にリシュアの手がその体を支える。


「……司祭様?」


 そっと抱きしめた後、司祭の顔を覗き込む。再び開かれたその瞳はいつもの淡い菫色に戻っていた。


 虚ろな目がしばらくくうを見つめる。そしてゆっくりと焦点を合わせたあと、不思議そうにリシュアを見上げた。


「……中尉さん?」


 今目覚めたとでも言うようなぼんやりとした表情だ。支えていた体を起こしてやると、軽く頭を振って目頭を押さえた。


「大丈夫ですか?」


 労わるように優しく声をかけると、その目に光が戻った。そしてはっとしたように周りを見回す。辺りはまだ霧が立ち込め、木々の葉や芝生に夜露が降りていた。そして少し離れた地面の上に転がる獣の骸。


「あ……」


 司祭の体は足の力が抜けたようによろめき、それを支えていたリシュアの手に重みがかかる。それをしっかりと抱きとめてなだめるように囁いた。


「大丈夫。大丈夫です」


 しかし司祭は体を硬くしてすぐに身を離した。そしてゆっくりと骸に近づくと、傍らに座り込んでそっと撫でた。


「……また……私は……」


 それだけ言って頭を垂れる。リシュアは静かにその後ろに近づいて、そっと肩に手を置いた。二人は暫くそうしていたが、司祭はふいに立ち上がり、逃げるように駆け出した。


「……待って!」

 

 無意識に、リシュアはその後を追い司祭の手を掴んでいた。


「お放しください」


 懇願するように言って、司祭は顔を背けたまま腕を引いた。だが、リシュアは握る手に力を込めた。今この手を放してはいけない。それだけははっきりと分かっていた。いつもは司祭の気持ちを優先して深追いをせずにいたが、今はその時ではない。


「もう黙って見ているわけには行きません。お願いです。私にだけは全て打ち明けてください」


 司祭の動きが止まった。リシュアから身を離そうとする力がゆっくりと抜け、静かに項垂れた。その背に手を添えると、霧に濡れたローブが風で冷やされてひんやりとしていた。


「ここは風に当たりますから、部屋にお送りしますよ」


 なだめるように声をかけ、リシュアは司祭を連れ立って建物の中に入っていった。


***


 部屋まで連れ添って行くと、ようやく司祭の顔色に血の気が戻ってきた。自分の部屋に戻って、少し気持ちが落ち着いたようだ。ローブを乾いたものに着替える。更に落ち着かせるために、リシュアは棚からブランデーを取り出してグラスに注ぎ司祭に手渡した。


「……有難うございます」


 司祭は俯いたままグラスを手に取り、静かに口に運ぶ。リシュアは敢えて何も聞かずに隣に座ったまま黙って司祭を見つめていた。それからどれだけの時間が経っただろう。司祭は静かに口を開いた。


「全てご覧になったのですね」


 リシュアは黙って頷いた。司祭は俯いたままだったがその動きは感じ取ったらしい。ゆっくりとため息をつくような深呼吸をした。


「いつからなのか自分でも分からないのですが、気が付いたときはこの力に目覚めていました。新月が近づくと何故かこのような行動に出てしまうのです。そしてその間の記憶も朧気おぼろげで……」


 司祭は唇を噛んだ。涙を堪えているのだろう。手と肩が小さく震えていた。


「私は、自分が何者なのか分からないのです。何故私だけが人と違うのか。両親も何も教えてはくれませんでした。私にできることは、新月の頃にはイアラたちに夜出歩かないよう言い聞かせることだけです」


 リシュアはグラスを持ったまま小刻みに震える司祭の手を、自分の両手でそっと包み込んだ。


「大丈夫。もう心配はいりませんよ。私も力になりますから。どうか一人で悩まないで下さい」


 その言葉に司祭は驚いたように顔を上げた。


「あなたは私が恐ろしくはないのですか? あなたを襲うかもしれないというのに……」


 司祭には先ほどの記憶がない。人を襲おうとしたと聞けば司祭がどれだけ傷つくことか。リシュアは自分が体験しかけたことは話さずにおこうと心に決めた。


「恐ろしい? 私は司祭様のお優しい心を良く知っています。何故恐れることがありましょうか」


 リシュアは優しく微笑みかけた。そうして司祭の手からグラスを受け取りテーブルに置くと、その目を見つめながら両肩に手を置き語りかけた。


「大丈夫。先ほども司祭様は私が声をかけたら正気に戻られました。誰かが傍についていれば防ぐことができるはずです。……もしも司祭様がお嫌でなければ、その役目を私に命じてはくれませんか。必ず秘密は守りますから」


 司祭は不思議そうに眉をひそめて小首を傾げた。


「……中尉さん。何故あなたはそこまでしてくださるのですか? これはもう軍のお仕事の範疇を超えております。思えば私は、あなたにひどい言葉をかけたことも少なくありません。それなのに何故見限ることなく、こんなに親切にしてくださるのですか?」


 ずっと気になっていたことだった。そして今こうして口に出してみると、尚更不思議でならなかった。今まで寺院に赴いた軍人たちは、悪い者ばかりではなかったがどこか余所余所しく、全て仕事と割り切っていた。そしてそれは司祭も同じことだった。

 しかしこの目の前の人物は、どんなに突き放してもそれを受け止めて、いつも笑顔で傍にいてくれる。まるで家族のように、今もこうして自分を護ろうとしてくれている。何が彼をそうさせているのか、司祭にはまるで見当がつかなかった。


 尋ねられて、リシュアは返答に詰まった。彼にしてみれば自然なこと、当たり前のことなのだ。だが今こうして改めて何故と聞かれてしまうと、言葉にして答えることは難い。リシュアは顔が僅かに上気するのを気取られないよう少し俯いた。


「根がおせっかいなんですよ。気にしないで下さい」


 そうして照れ隠しににっこりと笑いかけ、司祭の手を取って立ち上がった。


「今日はこのままお休みください。私は部屋の前で朝まで番を致します」


 司祭は何か言おうとしたが、リシュアが笑顔で首を振ると諦めたように口をつぐんだ。


***


 司祭の寝室の前で朝を迎えた。その後頃合いを見て、リシュアは古びた布袋を手に庭へ戻った。先刻司祭と遭遇した塔の前には、まだ狐の骸が横たわっていた。庭はきらきらと露が朝日に輝いている。

 そういえば前にもこの風景を見たことがある。霧の露に濡れて輝く朝の庭園。こんなにも美しいのに、それは深い闇の秘密を内包しているのだ。まるで司祭そのもののように、とリシュアはじっと庭を見つめた。


 手にした布袋に狐を仕舞いこんだ時、リシュアは人の気配を感じて後ろを振り返った。後方にイアラが古布を抱えて佇んでいる。布袋を持ったリシュアをじっと見つめて立っていたが、再び彼の方へ歩みを進め立ち止まって間近から見上げた。


「それ……」


 イアラの視線はリシュアが手にした布袋に注がれている。


「狐さ。塔にぶつかったらしい」


 リシュアは袋の上からぽんぽんと軽く叩いて見せた。


「ふうん。狐もそんなヘマをするのね」


 イアラはじっとリシュアの灰色の瞳を覗き込んでいる。その目を見返して、リシュアはにっこりと微笑んだ。


「埋めてやりたいんだが、手伝ってくれるか?」


 イアラは黙って頷いた。


 二人は連れ立って、塔の奥にある林の中に入っていった。杉の木の根元にスコップが立て掛けてある。その周りにはいくつもの土の山。リシュアはそれを避けるようにして穴を掘り始めた。深く深くぽっかりと開けた穴に袋ごと狐を横たえるとそれを封じ込めるように土をかけていく。そうして土の山がひとつ増え、秘密の林は再び沈黙した。

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