第7話 父の憂慮
アンビカは一人で朝食をとっていた。いつもながら玉子は絹のように滑らかで、実に絶妙な焼き加減だ。しかし、そんな好物を前にしても、彼女の口からはため息しか出ない。
結局マニは故郷へと帰って行った。馬車の窓から何度も何度も振り返り、大きな目に涙をいっぱい零しながら去っていった。そこまで悲しむなら行かなければいいのに、とアンビカが思った程だ。
それを見て、自分の元から去って行く彼女を許してやろうという気になったのも事実だ。マニにも彼女の家庭の事情があるのだから。
だが、マニが居ない寂しさを埋めることは難しい。無償の愛を注いでくれた、母のような存在だ。代わりなど居るはずもない。
アンビカはサラダに手を伸ばす。バジルのドレッシングをかけたトマトはやけに酸っぱく感じられた。
ふいに、ダイニングの大きく重厚なドアの向こうから、父の声が響いた。
「入るぞ」
静かにドアが開いて、ドリアスタ侯爵が入室してくる。アンビカは思わず身構えた。父親が何の話をしに来たのか、容易に想像がついたからだ。
侯爵はゆっくりと歩み寄る。身長も肩幅もあるその体躯で背筋を伸ばし、アンビカの向かいの椅子に腰掛けた。常に持ち歩いているステッキも傍らに携えている。
「おはようございます父上」
アンビカの方から挨拶を切り出した。侯爵は小さく頷き微かに笑みを浮かべている。
「最近ルドラウト氏と疎遠になっているようだが……」
単刀直入に切り出されて、アンビカは怯んだ。フォークを置こうとしていた手が弾かれたように動き、微かに音を立てる。嫌だ。そう思った。動揺している事を知られたくはなかった。
「銀行との事を気にしているのか?」
息を飲む。図星だった。勿論それだけが疎遠になっている原因ではなかったが、きっかけになったことは確かだ。思い切って司祭に相談したこともある。しかしアンビカの悩みは消えることはなかった。
司祭の『他人同士が夫婦になって家族になるものだ』という言い分は至極当然の事だ。あまりにも月並み過ぎて、正直気が抜けた程だった。
事実、他人でも本当の家族になれるのだろう。寺院での降星祭で彼らの仲睦まじい姿を見て、アンビカも確かにそう感じたのだ。
それでもアンビカを悩ませるもの。それはやはり彼女とキルフの間にある関係──そもそもが経済的な援助ありきで決まった縁談だ、という事だ。
それについては出会ったばかりの頃にキルフも強く否定していたし、アンビカ自身も常々そんなことは関係ないのだと感じていた。しかし実際にドリアスタ家の家計や領地の経営が厳しくなってきた今、頼るところはキルフ以外にないのだと思うと、この関係が打算だけで積み上げられているように思えてならない。
──いや違う。
アンビカはぐっと手を握りしめた。キルフとアンビカの間には確かに愛情と呼べる感情が生まれて始めている。
分かっている。頭では分かっているのに、心は裏腹だ。今のアンビカはまるで穴の開いた自転車のタイヤのようで。何度心を希望で膨らませても、何故だか空気が抜けるように気持ちが冷めていくのだ。
「ご心配をおかけして申し訳ございません」
アンビカは質問には答えず、ただ謝るだけだった。自分の気持ちが分からないのだから答えようがない。大切な家族である父に、また心配をかけている事だけは良く分かっていた。
「謝る必要はない。彼のことは私も良く知っているが、悪い男ではない。今回の件では彼も本当に尽力してくれたのだ。このことが原因なら彼を責めるのは違うと言いたいのだよ」
だから、分かっている。理屈はもういいのだ。アンビカは心の中でそう叫んでいた。彼女自身、何故こんなに頑なになっているのか分からない。今度こそ返す言葉が見つからず、アンビカは黙り込んだ。
「今度連絡があったら、久しぶりに会ってみなさい。彼にも言い分はあるだろう」
言い分。アンビカは唇を噛んだ。言われてみれば、彼との会話の途中で席を立ってしまったのは自分なのだ。以来一方的に彼を避けている。キルフは一体何を言いたかったのだろう。
「……分かりました」
冷却時間は充分にあった。一度ちゃんと話をしなければならない。彼との関係を続けるのか、それとも……。
どちらにしても彼と話す機会を持たなければ、とアンビカは腹を
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