第5話 正体不明の気配
リシュアは日当たりの良いソファに横になって、新聞を眺めていた。相変わらず紙面を賑わしているのは、何件かの連続殺人事件だ。情報の少なさに業を煮やした新聞社が、こぞって各分野の有識者のコメントを並べては、名探偵ばりに犯人像の推理を書き立てている。そんな眉唾な記事はさっさと読み飛ばし文化面で手を止めた。
新都心の中央美術館で、ユルフィン侯爵家所蔵の美術品の企画展があるらしい。普段なら顰め面でページを飛ばすところだが、今日のリシュアは違った。貴族の装飾品に目がないメイアのことだ。次の休日にでも誘ってみれば、かなりのポイント稼ぎになるだろう。そんな事を考えているところで、正面のドアが静かに開いた。
視線を上げると、今しがた会議を終えたオクトが、資料を抱えたまま少し驚いたような顔でドアの前に立っていた。
「いよう、おかえり」
「……ただいま」
オクトは一度開けたドアのプレートを確認し、ソファで寛ぐ友人へと再び視線を戻した。
「ここは俺のオフィスだよな」
「何だ? ボケたのかお前」
リシュアは立ち上がりデスクの方へ行くと、引き出しの中にあった鋏で先程の美術展の記事を切り抜き始めた。
「それ、俺の新聞……」
言いかけて、諦めたように口をつぐんだ。一拍置いて、違う話題に切り替える。
「寺院の方はどうだ?」
友人の問いかけに、リシュアはちょっと首を竦めて見せた。もう用のない新聞をソファの上にぽいと投げ捨て、切り抜いた記事を大事そうに胸ポケットに仕舞った。
「さてね。行ってないから良く分からん」
オクトは目を丸くした。
「行ってないって? おいおい、さすがにそれはまずいだろうリシュア」
「知るか。歓迎もされていないものをどうやって護れって言うんだ」
リシュアは初日の顛末をオクトに話した。勿論司祭を尼僧と間違えて鼻の下を伸ばしていた事は除いて、だ。
「ああ、司祭の軍人嫌いは有名だからな」
「先に言え先に! 全くやりにくいったら……」
「で、ここで暇つぶしか。やれやれだな。せめて自分のオフィスで寛げよ」
「うちの秘書が煩くてな」
リシュアは大きく伸びをした。
「まあ、寺院の方は部下がしっかり見てるから大丈夫さ……」
***
「誰か僕のチーズプディング食べたー?」
冷蔵庫に頭を突っ込んで、大声を出しているのはブランク・ユニー。先日リシュアのオフィスで、無愛想な上司の洗礼を受けた新米兵士だ。
「どうせまた自分で食べて忘れてるだけだろ」
慣れたように聞き流しながら、警備日報を書いているのは同僚のハタナス・ムファ。少し浅黒い肌に筋肉質の体、彫りの深い顔立ちから察すると西部の少数民族の血を引いているようだ。
「そこまでボケちゃいないさ!」
ユニーは口を尖らせる。赤子のような白くて透明な肌と、柔らかな栗色の巻き毛が彼を更に若く見せている。
「きっとアルジュの奴だ。今度は名前書いておかなくちゃ……」
ぶつぶつと呟きながら、仕方なくジンジャーエールを手に取って、冷蔵庫のドアを閉めた。今日の寺院警備の当番は彼ら2人。そして主任のリシュアのはずだった。しかし赴任してくる予定だった上司は、初日に警備室に立ち入ることもなく寺院を後にしたという。そしてそのまま数日経つ今日も依然として姿を現さない。
初めはさすがに戸惑ったが、元々主任不在の状態が続いていたし、新しい上司が少々変わり者であるということも耳にしていた。若さ故に順応性もある彼らは、この状態にとうに慣れてしまい、平穏な日々を送っていた。
外では風の音が静まり始めていた。お気に入りのコメディドラマを見終わったユニーは、満足げに飲みかけの瓶を冷蔵庫に仕舞った。
「次の巡回は僕が行ってくるよ」
フードの付いたロングコートをクローゼットから取り出し、ゆっくりとボタンを留めると、棚の上から懐中電灯を取り出した。
「一昨日あたりから塔の西階段の踊り場に蝙蝠が棲みついてるらしい。驚いて転げるなよ」
読んでいた本から顔も上げずに、ムファは同僚を送り出した。
まだ日が落ちる前とはいえ寺院の中は薄暗く、空気もひんやりとしている。ユニーは深く被ったフードの襟元を片手で掴み、マフラーをして来れば良かった、と一人呟いた。小さなブーツがたてる足音がやけに大きく響いて聞こえた。
週末のミサ以外にはこの寺院を訪れる者は少ない。今日も何事もなく1日の勤務が終わろうとしていた。広い庭をぐるりと廻り、沢山の蝋燭が灯る礼拝所を過ぎて長い廊下に通りかかった時、ユニーはふと足を止めた。
どこからか鋭い視線を感じたのだ。
気のせいではない。この空間のどこかで、確かに誰かが息を殺してこちらをじっと見つめている。ユニーの全身から一気に汗が噴き出した。
「ぼ、僕が気付いてないと思ったら大間違いだぞ!」
威嚇するつもりで張り上げた声は、情けなくも上ずって掠れていた。それでも闇に潜む何かには効果があったようで、布を擦るような音と共に廊下の向こう側へと怪しい気配は消えていった。
「蝙蝠じゃない。あれはもっと何か……違うものだよ!」
寒さと恐ろしさで血の気の引いた顔つきのユニーは、くっくっと体を揺する同僚に抗議の声を上げた。
「はいはいはい。きっと物陰から恐ろしいドラゴンがお前の尻に喰い付こうと狙ってたんだろうよ」
「ムファったら!」
今度は顔を真っ赤に染めて、握り拳をさらに硬く握るユニー。
「あんまりからかうなよ。次はお前が尻を噛まれるかもしれんぞ」
本気とも冗談ともつかない顔で間に割って入ったのは、同じく寺院警備担当のアルバス・ビュッカだ。 ユニーの報告を受け、念のために2名の兵士が招集されていた。交わされる会話とは裏腹に、現場には若干の緊張感が漂っていた。
ビュッカは皆の中でも年長者で落ち着きもあった。階級も伍長と最も高い彼が、主任不在の今は実質的にリーダー役をこなしていた。
「しかし僕も気をつけて巡回してきてみたけれど特に異常は感じなかったよ。何かの小動物かもね」
今まで彼らのやりとりを黙って見ていた細身の少年が 、ぽそりと愛想無く言い捨てた。黒髪のその少年はカナク・アルジュ。ユニーとは正反対の性格だが、同年代で意外と仲は良かった。寺院の警備は通常彼らと主任の5名で交代で行なわれていた。
「まあ何事もなくて良かった。私は 司祭様に報告してくる。アルジュとユニーは帰っていいぞ。ムファ、報告書を本部にFAXしておいてくれ」
てきぱきと指示をするビュッカの背後で重い木のドアが開いた。不機嫌そうなリシュアの顔がこちらを覗いている。
「一体何事だ。こんな時間にわざわざ呼び出しやがって……」
スーツで正装した姿を見るに、どうやらまたどこかの美女とディナー中だったらしい。いつもにも増して眉間の皺は深い。
「異常事態ということで、一応お声を掛けさせて頂きました」
上司の様子に怯む様子もなく、ビュッカは敬礼をした。
軽く全員の自己紹介をした後、ビュッカはリシュアに煎れたばかりの紅茶とソファを勧めた。そして自分も腰掛けると、手短に事の経緯を説明した。
「なるほどね」
リシュアは、帰らずに残っていた部下たちの顔を、ぐるりと見回した。
「まあ、適切な対応だな。ヒヨっ子共にしては上出来だ」
「ありがとうございます」
表情も変えずにビュッカは礼を言った。
「よし。じゃあ司祭には俺が報告をする。非番だったものは帰っていいぞ。ええと、ビュッカ、案内しろ」
ビュッカは黙って小さく頷いた。
塔を回りこむように伸びた細い渡り廊下を抜けると、いきなり大きな広間に出た。古い石積みの壁に赤いタペストリーが掛けられ、部屋の仄かな灯りがそれを暗く照らしていた。
時代を感じさせるタペストリーは、太い金糸で縁取られ、銀糸で中央に大きく紋章が描かれている。今は権威を失ったルナス帝国皇帝の紋章だ。
「司祭様は世が世なら皇帝になった方ですよ。ロマンティックじゃないですか」
いつだったか秘書が漏らした言葉を、リシュアは思い返した。しかし目立った装飾はそれくらいで、目の前に広がる殺風景な広間は、お世辞にもロマンティックとは言い難い気がした。
広間の左側の壁には、見上げる程の大きな木の扉があった。
「我々が入れるのはここまでです」
花瓶の横にある電話の受話器を上げながら、ビュッカは上司に説明する。やけに古風な電話の金のボタンを押すと、扉の奥の方でジリリ、とベルの音がした。
「アルバス伍長です司祭様。恐れ入りますが先程の一件につきまして、ご報告に参りました」
数分後、重い音を立てて大きな木の扉の片側だけが開き、紫紺のローブを羽織った司祭が現れた。
「ご苦労様です」
司祭のよく通る声が、静かに広間に響いた。手にしたランタンの光が、司祭の色白の顔をゆらゆらと照らしている。するとそれまで冷たく殺伐としていた部屋が、急に華やいだようにリシュアには感じられた。
思わず見とれて言葉を失い、がらんとした広間に沈黙が続いた。部下が指示を待つようにこちらを見ているのに気付き、リシュアはようやく我に返る。
「あ、あの。お騒がせして申し訳ありません。何度か部下の方から連絡をさせて頂いたようですが……」
その声でようやくもう一人の存在に気付き、司祭はランタンを軽く掲げた。あの日の無礼な侵入者の姿を認めて、美しい顔が僅かに曇る。そんな様子を見逃さず、リシュアは少し胸が痛むのを感じた。
「いつぞやは失礼しました。改めまして、主任のカスロサ中尉です」
心を込めて恭しく頭を下げた。
「再度確認を致しましたが、不審なものはその後確認できませんでした。今日はもう大丈夫かと思われますが、尚引き続き注意して警備致します」
「そうですか。では家のものにもそう伝えておきます」
素っ気無く立ち去ろうとする司祭の背に、リシュアはつい声を掛けた。
「あ、あの……!」
「……はい?」
怪訝そうに僅かに振り向いた横顔の美しさに、リシュアは思わずどきりとする。
「念のため今夜は私も警備室に泊り込みますので……」
リシュアは自分が発した言葉に自分で驚いていた。言われた司祭も、少し戸惑っているように見えた。しかしそれは一瞬だけのことだった。
「……そうですか」
緊張が一気に解けたリシュアは、はあ、と息を吐いてがっくりと肩を落とした。
当直のムファとリシュアを残して、部下達は帰路に就いた。時計の針は深夜をとうに回っている。ムファは読書を中断して巡回へ出ていた。リシュアは当直用のベッドに横たわり、浮かない顔でぼんやりと天井を眺めた。ベッドは小さいが適度に柔らかく清潔だ。少し眠ろう思ったが、どうにも胸のもやもやが晴れない。
「なんで泊まるなんて言っちまったんだ……」
急な呼び出しでデートは台無しになってしまった。しかしあの時間なら、まだ花でも届けて御機嫌を直してもらうことも出来たはずだ。この自分が恋愛よりも仕事を優先させるとは、とリシュアは戸惑いを隠せない。
そんな考えとは裏腹に、ずっと司祭の横顔が彼の頭から離れない。先刻薄明かりの中で振り向いた冷たい横顔。そして初めて中庭で見た穏やかな横顔。同じ人物とは思えない印象……しかしどちらも美しかった。
彼には美術品を愛でる趣味はないが、何時間も同じ絵の前に立つ人々の気持ちとはこういうものだろうとリシュアは思った。
ドアが静かに開いた。
「異常ありません」
ムファが戻ってきた。
「俺が起きているから、少し休め」
リシュアは起き上がって伸びをした。今夜はもう眠れそうにない。ムファは素直にはい、と頷くと代わりにベッドに横たわった。
程無く寝息が聞こえてきた。どうやら今日はこのまま何事もなく終わりそうだ。そうリシュアは安堵の息を漏らした。
新鮮な空気が吸いたくなり、リシュアは部屋を出た。外は
彼にとって、
「おかしなことになったもんだ……」
そう心の中で呟いた時、どこからかかすかに声が聞こえてきた。歌声、のようだった。リシュアは声の主を探して上を見上げた。しかし見上げる前から声の主は分かっていた。
「……司祭か」
姿は見えなかったが、塔の中程の小窓が開いており、声はそこから聞こえていた。リシュアは煙草を消すと慌てて身を隠した。なんとなく、ここに居る事を知られたくなかった。
少し掠れたようなとても小さな声は、聞いたことのない言葉を、不思議な旋律で紡いでいた。どこか異国の歌なのだろうかと、しばらく黙ってリシュアは聴き入っていた。するとどこからともなく夜霧が現れ、辺りに漂い始めた。歌声に呼ばれた生き物のように、霧はどんどんと濃くなり、建物をそして庭を覆い尽くした。辺りにあるのは霧と歌声だけ。そう感じられる不思議な光景だった。
絵本の中に取り残されたようだ、とリシュアは思った。灌木の奥の隅っこに膝を立てて座り込みながら、全身で不思議なメロディに心を委ねるリシュアも、いつしか霧に包まれていた。
普通の人なら怯えても良さそうな突然の出来事。しかしリシュアはやけに幸せそうににやけた顔で目を閉じ呟いた。
「こういうのって、なんかこう……ロマンティックじゃないの?」
***
リシュアが目を覚ますと既に朝になっていた。どうやらあのまま、霧に飲まれて眠ってしまったようだ。水気を含んだ服は重く冷たかった。
夕べの霧はすっかり晴れて、芝生や木の枝に露となって、名残を残しているだけだった。地平線から広がる朝の光は、小高い丘の上の寺院まではまだ届かず、塔の上部だけが照らされて輝いていた。
ゆっくりと立ち上がると、灌木の向こうの少女と目が合った。こちらへ向かって歩いていた少女は驚いたように目をまん丸にして立ち止まった。その両手には毛布が抱えられていた。
「……おはようございます」
「やあ」
少女は14、5歳というところだろうか。あの威勢のいい庭師の少年よりも、少し年長に見える。彼女の白と淡いグリーンのワンピースは、手作りのようだ。肩まで真っ直ぐに伸びた茶色の髪を、カチューシャで留めている。
「こんな所で寝るなんて、変わった軍人さんね」
ちょっと迷った後、少女は毛布をリシュアに差し出した。どうやらこの毛布は、庭で眠りこけていたリシュアのために運ばれてきたものらしい。眠っているうちに掛けておいてくれるつもりだったのか。
「有難う」
リシュアは素直に礼を言い、冷え切った体に巻きつけた。
「ロタは色々言ってたけど、あなた悪い人には見えないわ」
ダークブラウンの瞳が優しく笑った。
「……色々言われてるみたいだな」
渋い顔のリシュアを可笑しそうに見つめて、少女は小さく頷いた。
「司祭様はああ見えてとても頑固な方だから。苦労するかも」
今度はリシュアが頷く番だった。
少女はその年齢よりもずっと落ち着いて見えた。
「早く着替えないと風邪をひくわ。それにロタに見つかったらまた大騒ぎよ」
「だな。そろそろ退散しよう」
そう言って毛布を渡そうとすると、そっと手で押し返した。
「後で返してくれればいいから。……あなたなら長続きしそう」
「そうかな。……そう願いたいね」
にっこりと笑った少女は軽くお辞儀をしてからリシュアに背を向けた。少し歩いて立ち止まり、振り向いて言った。
「私はイアラ。司祭様のお世話をしているの」
そしてふと真剣なまなざしに変わり、こう加えた。
「司祭様を……護ってくださいね」
「それが仕事だ」
ぶっきらぼうにリシュアがそう答えると、イアラはじっと彼の顔を見つめた後無言で小走りに去っていった。
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