第10話 縁談の行方

「着きましたよ」


 運転手がドアを開ける。アンビカは静かに車を降りた。銀色に輝くシルクのドレスの裾が揺れる。今日は嫌味なほどにフォーマルにして来たつもりだ。見合いなら見合いとはっきり設定すればいいものを、こうしてお茶を濁すような食事会にすることが苛立たしかった。


 しかしもうアンビカは腹をくくっていた。自分をあれだけ心配する父が、半ば無理矢理進めている縁談だ。余程の事情があってのことだろう。

 彼女はこの縁談を受けるつもりでいた。相手がどんなに嫌な男だったとしてもだ。それが父への愛情の証となり、侯爵家の娘としての責任となるのだ。そう思った。

 威厳に満ちた表情で奥へと案内されていく。今日はマニが付いてきている。マニは主人の様子から何かを感じ取っているのか、終始無言で少し後を歩いている。


「氏はもうお越しになっています」


 ホテルのマネージャーらしき男が、慇懃な笑みを浮かべてエスコートする。アンビカはボーイにコートを渡してマニを控えさせ、一人で控え室代わりの小さな会議室に入る。一度ここで顔を合わせて名刺を交換するのだ。


 部屋に入っても、そこには誰もいなかった。一瞬緊張が途切れて短く息を吐く。すると、すぐにノックの音がして、マネージャーが入ってきた。


「お待たせしました。こちらがルドラウト氏です」


 振り返って、アンビカは声を失った。

 マネージャーの横に立っているダークブロンドの青年は、仕立てのいいスーツを着て穏やかな笑みを湛えている。そのオリーブ色の瞳はあんぐりと口を開けたままのアンビカを優しく映していた。


「……あなた……」


 アンビカがそう声を絞り出すまでに随分と時間がかかった。現に怪訝そうな顔になったマネージャーが痺れを切らして部屋を後にしてから、暫く経ってからのことだった。


「良かった。やっぱり僕達は縁があるみたいだ」


 青年はそれだけ言うと、にこにこと微笑んでいる。

 その声に初めて我に返ったアンビカは、つかつかと青年に近づいて思い切り平手を振った。しかしその手は空を切る。


「すみません。今日はこんなつもりではなかったのです」


 アンビカが叩こうとした瞬間、青年は深く頭を下げたために、アンビカの平手は空振りに終わったのだ。


「ちょっと! 避けないでよ!」


 青年の謝罪も耳に入っていないようで、アンビカは真っ赤になって怒りを抑えられずにいた。


 青年──ルドラウト・キルフは困ったように微笑んでアンビカを見つめている。


「すみません。本当に。今日のことは僕も予想外だったんです。お父上から是非にと今日の約束を頼まれたものですから、どうしても断れなかったんです。あの寒空であなたが待ちぼうけになるのではと、本当に気がかりでしたよ」


 キルフはそっとアンビカの手をとった。アンビカは即座にその手を跳ね除ける。


「これはなんの冗談? 私をからかっているの? 最初から仕組んでいたのね?」


 偶然の出会いで日常から逃げ出す冒険をしていたように思っていたのに、実はこの男の掌の上で踊らされていたのかと思うと、情けなく、悔しかった。


 怒りを隠そうとしないアンビカをなだめようと、キルフはとりあえず椅子と水を勧める。

 アンビカはぐいっと水を飲み、たん、と大きな音を立ててグラスを置いた。


「とにかく、納得できる説明をしないと許さないから」


 キルフは素直に頷いて、アンビカの隣に座って話し始めた。


「あなたをホテルのロビーで見かけたのは本当に偶然です。あなたに振られて、諦めて帰るところでしたから。でも本当に具合が悪そうだったので、放って置けなかったんですよ」


 キルフはアンビカのグラスに水を足し、自分の分も注いでゆっくりと口に含んだ。


「あなたが映画好きだということは以前から知っていました。だからあそこにお連れしたんです。……喜んで頂けたのかな」


 最後はちょっと不安げに、自分自身に問うような口ぶりだった。アンビカは何も言わずに聞いている。


「そしてあの映画館。あれは……あなたが好きそうな映画だったから。勿論僕もとても好きな作品です。でも何度も観に行ったのは、あなたも観に来るかもしれない。そうしたらまた会えるかもしれない。そう思ったんです」


 アンビカは呆れたような顔になったが、やはり何も言わずに耳を傾けている。


「……そして、本当は今日、待ち合わせた後に全て明かすつもりだったんです。名前も、身分も、この縁談のことも。それなのに、急にこの約束が入ってしまって。あなたに連絡する手段もないし。今日ばかりは本当に賭けでしたね」

 

「呑気なものね」


 アンビカが初めて口を開いて出たのはその言葉だった。


「賭け? いい気なものだわ。あなたは一人二役でまんまと私を騙してほくそ笑んでいたのね。馬鹿にするのもいい加減にして頂戴」


 キルフは驚いたような顔で慌てて弁解した。


「いいえ、いいえ。そういうつもりじゃないんです。……僕は以前からあなたを知っていました。毅然として綺麗で、素敵な人だな、と。でもそんな時にこの縁談が持ち上がったんです」


 アンビカは鼻を鳴らした。


「あら、そう。良かったじゃない。あなたのその財力なら誰でも思いのままってことでしょ?」


 その言葉に、青年は初めて暗い顔をした。


「……逆ですよ。そんなこと、思うはずがない。だって悔しいじゃないですか。初めに好きになったのは僕なのに、僕の職業や年収であなたとの縁談が決まってしまうなんて。……僕はあなたとちゃんと縁があることも示したかったし、僕の気持ちも伝えたかった。だからあなたが初めにこのホテルから逃げてくれて良かったと思ってるんですよ」


 アンビカは再び黙り込んだ。この青年の言っていることはどうもよく分からない。これまでの奇をてらうような行動もだ。


「あなたには付き合いきれないわ」


 アンビカは大きくため息をついた。なんだかとても疲れた気がする。


「でも、縁があるのは確かだと思いませんか?」


 めげずに青年は白い歯を見せた。アンビカは呆れた顔をしてじっと青年の顔を見つめた。オリーブ色の瞳はとても澄んでいて暖かいものだった。


「……そうね。それは認めるわ。……悔しいけど」


 すると青年はアンビカの手を引いて立ち上がった。


「じゃあ、とりあえず食事でもしませんか。場所は変更になっちゃったけど、お互いこれで隠し事はなしです」


 アンビカは根負けしたように小さく吹き出した。


「あなたみたいに軟弱なのに強引な人は初めてだわ」

「そんな風に言われたのは初めてだな」


 二人はくすくすと笑い合い、アンビカは手を引かれたまま控え室を後にした。


「食事中に色々と尋問させてもらうから覚悟してね」

「勿論です。今日はそのための時間ですからね」


 愉快そうな二人はマニとマネージャーを無視してレストランに向かう。

 残された方の二人はぽかんとして若い二人の背中を見送った。


「……随分短時間で意気投合されたようですね」


 マネージャーが呟くと、マニは困ったように頷いた。


「なんだかお邪魔になりそうだわ。……帰ったほうがいいかしら」


 途方に暮れるマニに頷いて、マネージャーは彼女を伴うとロビーに向かって歩き出した。

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