第4話 月のない夜に

 雨上がりの湿った石畳を、ひたひたと歩く音がする。他には何も聞こえない寂しい夜だ。

 路地裏を、若く痩せた女がひとり歩いている。赤く短いスカートだけが薄暗い中でぼんやりと浮かび上がって見える。


 がさり、という音。女はふと足を止めた。不安げに辺りを見回し、バッグの紐を固く握りしめる。

 今は娼婦などという商売をしているが、元は会計事務所の事務員をしていた。

 しかし夫を病気で亡くし、もっと短時間で収入を得られるこの世界に足を踏み入れたのだ。

 胸を張れる仕事ではないが、幼い子供を養うためには必要な事だった。


「だ、誰かいるの?」


 その声に呼応するかのように、ブリキのゴミ箱の中から大きなねずみが飛び出した。そのまま女の足元を走り去る。ふわふわと生温かいものが足をかすめた。

 女は短く悲鳴を上げ立ちすくみ、狭い路地裏にその声がこだまする。


「ねずみ……嫌ね」


 走り去る小動物の姿を見て、女は少しほっとしたように呟いた。


「どうかしましたか。大丈夫ですか?」


 迷路のような道の、出口の方から足音と声がした。悲鳴を聞きつけて誰か来てくれたようだ。


「大丈夫です。ごめんなさい、驚かせて。ねずみが……」


 自嘲を含んだ声はそこで途切れた。辺りを一瞬照らす光、続いてどさりと土嚢を倒したような音。あとは一面の静寂と闇。

 全ては月のない暗い夜の、すえた匂いのする路地裏での出来事だった。


***


 その2時間ほど前。カトラシャ寺院の司祭の部屋。


 泡を浮かべたバスタブに体を横たえて、司祭は軽く息を吐いた。クリーム色をした海綿のスポンジで、腕や首周りを丁寧に洗っている。目は閉じたまま。白いタイル張りの浴室は薄暗く、鏡もない。


 司祭は自分の身体を嫌悪していた。男でもない、女でもない。ならば自分は一体何者なのか。



 こうして入浴などで己の身体と向き合う度に、子供時代を思い出す。


 父である皇帝の判断により、フィルアニカは女児として育てられた。優しい両親の愛情を一身に受け、幸せに満ちた子供時代だった。しかし、その異質な身体に周囲の者が困惑したのも事実だった。


 跡継ぎを残せない身体。それは話題にすることさえ禁じられており、知る者もごく僅かだ。そんな中にも、フィルアニカを陰ながら「忌み子」と後ろ指を差す者がいた。それはいつしかフィルアニカ本人の耳にも入り、その幼い心を深く傷つけた。



 皇帝の一族も遠い昔から「天女」や「天女のかけら」を捕えては積極的にめとり、その力を己が血筋に取り入れて来た。

 その様な血を持つ一族には、それなりの確率で異能者、若しくは飛び抜けて身体能力が高い子供が生まれることがあるのだ。内乱が続き皇帝や貴族に対する風当たりも強くなっているこの時こそ、そういったカリスマ性を持った跡継ぎが必要だった。


 故に、天女の血筋どころか普通に子をなす事も出来ない者など、国を統べる者としての皇家には不要だった。

 天女の力を持たない普通の子供でも良い。これまで受け継がれてきた血脈を絶やすことのない子供、出来れば男児が求められていた。


 そんな折、弟のナファル皇子が生まれた。両親も貴族たちも国民も皆歓喜した。フィルアニカ自身も大いに喜んだ。

 子を作り血脈を繋いでいく。それが皇帝の責務のひとつでもある。そして普通の男児であるナファルには当然それができるのだ。

 フィルアニカは自分の肩に負っていた荷を下ろせることに感謝した。



 しかし、彼らの喜びは長くは続かなかった。皇太子となるべき彼は、幼くして水の事故で命を落としてしまったからだ。

 宮殿の庭の浅い小川で流されてしまった幼子。捜査の結果事故として扱われたが、余りにも状況は不自然だった。


 次期皇帝の座を狙っていた現皇帝の弟が犯人だとも、軍による暗殺だとも言われているが、どちらを調べても他殺の証拠は出てはこなかった。半年で捜査は打ち切られ、以来全ては闇の中だ。


 ナファルもフィルアニカと同様に女児として育てられていれば、何かが変わっていたかもしれない。しかし保守的な貴族達は、早く彼に皇位継承権を与えたがった。その後ろ盾となって、自分たちの思うままに動かせる皇帝を擁立したかったのだ。


 両親や貴族達は2度目の「事故」を恐れ、その後もレースをふんだんにあしらったドレスをフィルアニカに着せ続けた。波打つ栗色の髪は腰まで伸び、その姿は人形のように愛らしかった。

 女児として扱われたフィルアニカは、当然の如く女児としての自我を目覚めさせていった。


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