第5話 心の傷

 それが一変したのは、あのクーデターの後だ。

 近衛兵や私兵を動かし、最後まで抵抗を続けた皇帝の弟など、皇位継承権を持つ者は何らかの理由を付けてほとんどが殺害、処刑された。


 皇家の断絶を恐れた貴族たちは、一転フィルアニカを女装の男子だったということにした。その上でカトラシャ寺院に入れて、政治や権力から切り離した。そうすることで、命まで奪われる事を避けようとしたのだ。


 以降寺院から出ることなく聖職者として育てられたフィルアニカは、ルナス正教について学び、先代司祭の引退と共にその跡を継いだ。

 長い間国教であったルナス正教の寺院は、クーデターを機に本山であるカトラシャ寺院を残して多くが廃寺となった。フィルアニカはルナス正教の、いまや残り少ない司祭の一人なのだ。



 司祭は大きく息を吸って、目を開けた。湯舟に溜まっていた湯を流し、タオルで体を拭く。女児のそれのように僅かな膨らみしか持たない平坦な胸、性別を表すものがない下半身。


 それは司祭にとっての呪いだった。この醜悪さが、自身が持つ恐ろしい能力と対をなすものだとしたら尚更だ。

 他人から見ればため息が出る程の美しさと神々しさを持つ身体であることなど、当人には思いもよらないことなのだ。

 


 身体に触れる時間をいとうように手早く水気を拭き取ると、湯上がりのローブをまとい、寝室へと向かう。リュレイのない夜は好きではなかった。


 寝室で髪を乾かし、寝間着に着替える。オフホワイトでワンピースタイプのシンプルなものだ。寝室からリビングに移り、ソファに座ると本を取り出す。司書のメイアが特別に貸し出してくれている美術書。そのページを繰り始める。

 しばらくすると、控えめなノックの音がした。


「どうぞ、お入りください」


 司祭の声は穏やかだ。ドアが静かに開けられて、プラチナブロンドの長身の男が姿を現す。


「失礼致します」


 戦地で怪我をした際に、炎に巻かれて短くなったという髪は少し伸び、耳が隠れる程のくせ毛がふわふわと揺れている。長いまつ毛に縁どられた目は少し垂れて愛嬌を感じさせ、同時に色気も漂わせている。グレーの瞳が司祭を優しく見つめ、笑う。


「司祭様は本当に絵がお好きなんですね」


 少し低めの声はよく通り、耳に心地よく響く。司祭はほんのりと己の頬が赤くなるのを感じていた。入浴後だからだと誤魔化ごまかしたかったが、言えば却って藪蛇やぶへびだ。少し視線を下げて頷くだけにとどめた。

 リシュアを愛している。そう気付いた後一度はうしない、また再会することができた。二度と手放したくないと強く思う。


「今宵も宜しくお願いします」


 司祭はぺこりとお辞儀をした。今日は新月。無意識に彷徨さまよい出る可能性のある夜だ。戦地に行っていた時を除いて、リシュアはいつも深夜に寝ずの番をしてくれている。そのおかげで彼がいる間はずっと小動物の被害も出していない。


「はい、後は私に任せてゆっくりお休みください」


 安心させるように笑ってみせると、リシュアはそっと司祭の肩に手を乗せた。屈むようにして顔を近付け、その形の良い唇に己の唇を寄せる。

 司祭は目を閉じてキスを受け、おずおずとリシュアの背に手を回した。しかしそのまま抱きすくめられると、わずかに体を硬くする。


 まただ。そう思ってリシュアは力を込めていた手を緩める。


「「すみません」」


 二人は同時に謝った。弾かれたように顔を上げたのは司祭だ。大きく首を横に振る。


「とんでもありません。私が……」


 そう言ってリシュアの胸にそっと右手を置く。その白い指をリシュアの手が優しく握る。


「どうぞご無理をなさらないで下さい。焦る事はありません」



 ダリウス伯爵に襲われて以来、司祭は強く抱きしめられる事に時折恐怖心を抱くようになってしまったのだ。


 大切な司祭に心の傷を負わせた伯爵を、殴り殺してやりたいと思ったこともあるリシュアだが、私怨で人を殺すのは彼の信念に反する。

 勿論、誰かがまた司祭に危害を加えようとするというのなら話は別だが、先日狙撃された後は、ダリウス伯爵もすっかり大人しくなっている。


 そんなことよりも、今は司祭の心の傷が早く癒えることを考えねばと思いつつ、司祭の手にキスをした。淡い石鹼の香りが鼻腔をくすぐる。

 

「心配はいりません。私がついていますから」


 何か言いたげな司祭を寝室へと促しリシュアは微笑んだ。その笑みに押されるように司祭は歩を進める。そうして司祭は寝室に行き、リシュアはリビングに残った。 

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