第14話 月明かり

 寺院に帰ってからも、リシュアはアンビカのあの動揺した姿が気になって仕方がなかった。司祭が本当に男ならアンビカのことだ、小ばかにするような態度をとったりけしかけたりするだろう。


「こりゃあいよいよ怪しくなってきたな」


 しかし喜ぶべき方向に予想が固まりつつあっても、何故か気持ちは裏腹に不安で落ち着かない。苛立たしさは募るばかりだった。リシュアは大きくため息をついた。


「夜中にため息をつくと死神が来ますよ」


 巡回を終えたユニーが戻ってきていた。リシュアは答える気にもなれず、立ち上がってユニーの頭をぽんぽんと軽く叩くと、警備室を後にした。時間はもう深夜の2時を回っている。朝方中途半端な時間に眠ってしまったせいか、横になっても一向に眠くならなかった。外はリュレイが明るい夜だ。少し散歩に出て気分を変えることにした。


 庭は月明かりに照らされて青く冷たく輝いていた。止みかけの風が壁の向こうでひゅるひゅると音を立てる。ひんやりとした夜気を吸い込むと、少し胸のつかえが取れたような気がした。リシュアはそのまま裏庭へ向かった。


 木戸を開けてロタが休んでいる庭師小屋の前を静かに過ぎると、昼間と同じく白いサキアラの花の甘い香りが漂っていた。誘われるように歩み寄り花にそっと触れると白い花弁がぽろりと地に落ちた。リシュアは何か罪を犯したような後ろめたい気分になって、落ちた白い花をじっと見つめ続けた。


 しばらくそうしていたリシュアだが、ふと遠くに人の気配を感じた気がした。顔を上げると目の前に寺院の塔があり、こちらに向かって影を落としている。

 この寺院に来て間もない頃に、司祭の歌声を聞いたあの古い塔だ。リシュアはそちらに向かって歩き始めた。あの霧の夜は塔が生きているかのようで、それ自体から不思議な気配を感じ取れたのだが、今日は冷たい石のまま無機質な顔で空へ向かってそびえ立っている。


 塔は礼拝堂と渡り廊下で繋がっている。しかしその他にも古い木の扉があった。おそらく昔は独立した1つの建築物だったのだろう。

 扉をそっと開けると短い廊下があり、その先に塔の内部が広がっている。中は煙突のように空洞の筒状になっており、石壁の内側にやはり石でできた螺旋階段が渦を巻いている。中は意外と広い。


 石畳には真ん中に細密な文様の赤いラグが真っ直ぐに敷かれ、その外側を黒い鉄製のシンプルな蝋燭立てが等間隔に縁取っている。その先には古い祭壇があった。大きな石を切り出したような、時代を感じさせるその祭壇は塔の中でも最も古いようだ。角は丸くなり、側面の細工はすっかり擦り切れていて、半ば朽ちているような印象を与えていた。


 祭壇の前に人が立っている。リシュアは息を呑んだ。

 暗い塔の中でそこだけリュレイの光を照明のように浴びて、司祭がひとり立っている。青い光の下でその髪は菫色に輝いて見えた。静かに、静かにリシュアは司祭の背に歩み寄った。手を伸ばせば届きそうな距離で立ち止まると、司祭は初めてリシュアに気づいたように少し驚いた顔で半身を彼に向けた。

 リシュアの胸がどきりと音を立てた。司祭の瞳から一筋の涙が流れている。

 司祭はすぐにまた背中を向けた。ローブの袖で顔を隠して一歩距離を置く。


「何か御用ですか」


 とがめるような声は涙声だった。思いがけない司祭の様子に、リシュアは動揺を隠せなかった。


「いえ、すみません」


 無礼を詫びるように視線を逸らしたまま姿勢を正した。

 沈黙が続く。リシュアは胸の痛みを感じていた。司祭の涙はとても美しかったが、もう見たいとは思わなかった。ふと手を伸ばそうと少し持ち上げたところで、アンビカの言葉が頭を過ぎった。


「いい? 絶対に不埒な考えを起こすんじゃないわよ!」


 上げかけた手が止まった。じっと見つめた手をぐっと握って再び下ろし、リシュアは半歩後ろに下がった。

 半歩、1歩、2歩。

 そうしてくるりと背を向けて無言でその場を逃げるように立ち去った。司祭も背を向けたまま動こうとはしなかった。

 そうするしかなかった。

 あと少しでもあのままあの場にいたら。1歩でも近づいたら。彼は司祭を抱きしめてしまっていただろう。リシュアは迷いを振り切るように早足で警備室に戻った。


***


 警備室では、ユニーがソファに座ったまま居眠りをしていた。本来交代で眠ることになっているのだが、リシュア自身も勝手に出かけていたのだから咎めることはできない。幸せそうな寝顔に苦笑して、ユニーに毛布をかけてやると、コーヒーを煎れ始める。今日はもう寝るのは諦めることにした。


 コーヒーを飲みながらリシュアは夜を明かした。図書館で借りてきたルナス正教の本を2冊読み終える頃、ユニーがもぞもぞと動き始めた。

 

「おかあさん、水―……」

 

 リシュアは笑いをかみ殺しながらグラスに水を汲んでユニーの額に当てた。

 

「!!!」

 

 初めは冷たさに、次は驚きに目をまんまるにして、ユニーは飛び起きた。

 

「あ、あのっ、中尉! これは、ど、どうも」

 

 茹でたザリガニのように真っ赤になって、上司の手からグラスを受け取り、一気に飲み干す。ちょっとむせた後、大きく息を吐き出して上目遣いにリシュアを見やった。

 

「ちょっと出かけてくる。交代のやつらが来たら帰ってていいぞ」

 

 ユニーは両手でグラスを持ったまま黙って小さく頷いた。リシュアは目を細めて笑うとユニーの肩をぽんと叩いて部屋を出た。

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