第2話 秘書の気遣い

 ここ数日、中央警察機構ビルのとある一室では、もの珍しい光景が見られていた。

 一日中デスクに噛り付いて、脇目も振らずに仕事をし続けるカスロサ・リシュア

中尉の姿だ。


 その様子は、彼を知る署内のすべての人間にとってあまりにも奇怪な姿に映った。

 署内メール便の配達人をしている南部出身の若者が、その様子を見て「神よ、お守りください」と、胸にさげたお守りの石に祈りを捧げたほどだ。


 しかし当人にすればこの行為は、全てラムズ祭を含む年末年始に寺院に入り浸るため。つまりは司祭と一緒に過ごす時間を作るためという、非常に個人的且つ短絡的な理由からでしかない。

 それを思えばこの姿もさして驚くべきものではないのだ。


 しかしその理由を知る者は誰もいない。


 上機嫌に灰皿を洗う秘書、ルイズ・ミレイもその一人だ。

 普段は汚れと匂いが手につくのを嫌い、吸い殻は捨てるものの灰皿の汚れは水で流すだけだった。そんな彼女が丁寧に洗い終えた灰皿をおろしたての布巾で磨き上げている。


「今日も精が出ますね中尉。私はちゃんと分かっていましたよ、中尉はやればできる人だって」


 リシュアはそんな世辞にも表情を変えることなく、さらりと言い返す。


「ミレイ君、俺はやって見せるまでもなくできる男なんだがね」

「ええ、知ってますとも、知ってますとも」


 普段なら眉間に皺を寄せて「だったら本気でやればさらにできるのでしょうね。さあさあ、いいから手を動かしてください」と小言を言うところだが、今日は恐ろしい程の従順ぶりだ。


「君は何か勘違いしているようだが……」


 そこまで言いかけてやめる。

 どうせなら年末の休みを取るまでは、このまま上機嫌でいてもらった方が何かと便利だろう。


 咥えていた煙草の灰が落ちそうになると、すかさずミレイが洗いたての灰皿を差し出した。リシュアの口元にも思わず苦笑が浮かぶ。煙草の灰を落として大きく伸びをすると、再び退屈で難解な書類との格闘を再開させた。


「でも、折角煙草を止めたと思ったのにまたヘビースモーカーに戻っちゃいましたね」

 ミレイは残念そうな表情を隠さずに換気扇のパワーを最大に上げた。髪に煙草の匂いが付くのが彼女は嫌いだったし、壁紙や白いブラインドがヤニで黄色く染め上げられるのも憂鬱だ。それと、ほんの少しだけ上司の健康も気になった。飽くまでほんの少し、だが。


「仕事に集中するにはどうしてもコレがないとなあ。でも相当軽いのに変えたんだぞ。匂いが残っちゃまずいからな」


 するとミレイは目を丸くし、少し驚いたような嬉しいような表情を浮かべる。リシュアが自分の髪につく匂いに気配りをすることなど今まで一度もなかったからだ。


 しかしそんなミレイをリシュアは不思議そうに見る。煙草が苦手な司祭様に会う時に自分が煙草臭いのはまずいと思って変えたのだが、彼女は何をそんなに嬉しそうにしているのだろう。

 だが彼にとってそんなことは全くどうでもよかった。

 半分吸い終わった煙草をもみ消し、再び仕事に取り掛かる。



『国の土地と州の土地がまぜこぜになった部分に建てられた廃墟の周りの草刈り費用はどこがいくら持つのか』の算定。『駅に棲みついたハトのフンが、撮影中の人気モデルの髪に落ちた訴訟が取り下げになった事に対する、ファンからの膨大な抗議の署名』への対処。『胡散臭い不動産会社からリュレイの土地を高額で買ったという成金たちが "20年経っても月へ行く技術ができない" ことへの抗議デモを、何故か陸軍に対して執拗に続けている事』への対応策。


 彼に回される書類の山。その中身を見ればほとんどが下らなく、しかし厄介なものだった。つまりは実際のところ、滞っても解決してもさして変わりがない仕事という事だ。


 いつもはサボってばかりいる上司に腹を立てたり呆れたりしているミレイだが、こうしていざ真面目に取り組んでいる姿を見るとそれはそれで気の毒な気になってくる。


 問題行動の多い彼ではあるが、数年前までは前線で英雄視されていたこともあった優秀な兵士なのだ。意味のないデスクワークに縛られ飼い殺しにされる事が、適正な処遇であったのか、と彼女はほんの少し憂鬱な気分になった。

 飽くまでもほんの少し、だが。


 時計に目をやると、もう終業時刻の6時をとうに過ぎている。

 ミレイは先日自分のために奮発して買っておいた最高級のコーヒー豆の袋に鋏を入れる。

 そうして、人並みに仕事をするようになった上司へのご褒美のために、鼻歌混じりでお湯を沸かし始めるのだった。


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