第19話 事故 

 寺院に戻り、リシュアはまずイアラの姿を探した。前回のマフィンが好評だったので、また買ってくると約束していたのだ。菓子の入った袋を手にキッチンへ向かう途中、彼は意外なものを目にした。


 司祭が工具箱を抱えて佇んでいた。どこか途方に暮れたような表情をしている。しばらく何か考えた後、意を決したようにキッチンへと姿を消した。リシュアは心配になり後を追う。


 すると半開きの勝手口の前に、危なげな手つきでドライバーを持った司祭が、ドアに手をかけて立っていた。司祭は傍にあった脚立に上がると、蝶番のネジにドライバーをあてて回し始めた。錆付いて磨り減ったねじ山はドライバーを空回りさせるだけだ。司祭の足元は覚束無い。そのうちに、その細い体がぐらりと揺れた。


「危ない!」


 思わず駆け寄って脚立から落ちかけた司祭の体を抱きとめる。細いが、意外に柔らかい。後ろから司祭を抱きかかえるような形になり、顔と顔が近づく。司祭はびっくりしたように目をまん丸にして固まったままだ。先に我に返ったリシュアは自分の顔がみるみる赤くなっていくのを感じていた。


「……大丈夫ですか」


 照れ隠しに、とにかく平静を装ってそう声をかけた。司祭はまだ状況が掴めないようで、目をしばたたかせて小さく頷いた。そっと脚立から下ろしてやり、ふう、と一息ついた。


「何してらっしゃるんですか?」


 思わず咎めるような声になったのは警護をする立場からだけではなく、なんとなく感じるやましさを誤魔化すためだったかもしれない。


「すみません」


 司祭は少ししょんぼりとして俯いた。その姿が可愛らしいので思わず吹き出しそうになったが、すんでのところで堪えた。


「もともとこの勝手口は建てつけが悪かったのですが……。先ほど閉めようと思いましたら動かなくなってしまいましたもので」

「そんなことはロタに任せればいいではないですか。あなたの仕事ではありませんよ」


 今度はなだめる様に語りかけた。司祭は暫く小首を傾げてもじもじしていたが、ぽつりとため息のように漏らした。


「二人は今買い物に出ています。私も少しずつこういうことを出来るようにしてあの子達の負担を減らしてやりたいのです」


 なるほど、とリシュアは納得した。きっと司祭は前々からそう思っているのだろう。だが過保護なあの2人のことだ。司祭が何かやると言っても聞き入れられはしないのだろう。だからきっとこの留守をいい機会と思って一人で直すつもりだったのだ。そう思うとなんとも微笑ましい気分になった。


「最初から一人でやろうと思っても無理ですよ。私がやりますからまず見ていてください。やりかたが分かればそのうち出来るようになります」


 そう言ってリシュアは落ちていたドライバーを拾い上げ、脚立に上った。司祭はぽかんとして見上げている。


「修理して頂けるのですか?」

「お安い御用です。危ないですから、離れて見ていてくださいね」


 リシュアはにっこりと微笑みかけ、作業に移った。蝶番に油を差し、ねじを締めなおしてドアの傾きを調節すると半開きだったドアはなんとか閉まるようになった。しかし以前からの引っかかりはそのままだ。時代を経たドアの木枠がもう歪んでおり、ドアにぶつかるのが原因だろう。


「ついでだ。これも直してしまいます。これは司祭様には無理ですし、危ないですからお部屋にお戻りになられて結構ですよ」


 しかし司祭は動く様子を見せない。興味深そうにドアとリシュアを見上げ続けている。


「司祭様」


 ダメ押しで声を掛けられて、ようやくしぶしぶと数歩後ろに下がる。リシュアはドアに向き直るとこっそりと苦笑した。

 一度締めなおした蝶番のねじを緩めてドアを木枠から外し、木枠に当たる部分を削ることにした。司祭はその作業の間中、好奇心旺盛な子供のように遠巻きに眺めていた。

 作業に集中しづらくはあったが、司祭の視線を受け続けていることは悪い気分ではなかった。二人きりの静かな時間はとても充実しているように思える。


「さて」


 服の木屑を払いながらリシュアは立ち上がった。


「これを取り付ければ終わりです。もう面倒な開け方をしなくてもいいはずですよ」


 床に置いたドアを持ち上げようと手を掛けると、司祭が少し近づいてきておずおずと手を差し出した。


「お手伝いします」


 リシュアは困って一瞬考え込んだが、懇願するような司祭の表情に根負けして、つい笑顔がこぼれた。


「じゃあそちらを持ってくださいますか?少しささくれがありますので気をつけて」


 司祭は嬉しそうに頷くと、置かれたドアの下にそっと白い手を滑り込ませた。心配したものの、司祭はひょいと他愛なくドアを持ち上げた。


「ワインや果実を運んだりしておりますから意外と力はあるのですよ」


 リシュアの表情を読んで、司祭はちょっと誇らしげに微笑む。それを聞いて、ここはその言葉を信用して手伝ってもらうことにした。リシュアは脚立に上がって司祭に声を掛けた。


「すみません、それをこちらに頂けますか」


 司祭はドアを両手で抱えてリシュアに向かって歩き出した。しかし不運にもその足はうっかりとローブの裾を踏みつけてしまっていた。


「あっ」


 とと、とよろめいて、司祭はドアごと前方に倒れこむ。そのままドアは木枠に激しくぶつかり小窓のガラスが衝撃で砕けた。


「司祭様!」


 ドアは反動で跳ね返り司祭の上に倒れかかってきた。リシュアが脚立から飛び降り駆けつけた時には、司祭はドアと石の床の間に挟まれていた。ドアの下から柔らかな栗色の髪が床に広がっている。リシュアは青ざめて、祈るような気持ちでドアを持ち上げた。

 鮮血。

 リシュアの目に飛び込んできたのは、大きなガラスの破片が腕に深々と突き刺さった司祭の姿と、その純白のローブを染める真っ赤な血の染みだった。


「!」


 リシュアは息を飲んだ。ドアを投げ捨て、司祭の肩に力を込めて止血を始める。そのまま下手に抜いては激しく出血する恐れもあるのだ。手当てを施していると司祭がうめき声を上げて目を開けた。幸い頭は打っていないようだ。


「動かないで。今手当てします」


 その瞬間、司祭の顔がみるみる強張り血の気が引いていった。自らの怪我をその目で確認すると、体を硬くする。素早くリシュアの手を振りほどき、起き上がって後ずさった。左手で怪我をした右手を押さえてはいるが、腕にはまだガラスが刺さったままで、右手の指先からはぽたぽたと赤い血のしずくが床に向かって零れ落ちている。


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