第33話 願い

 寒い風が吹き抜ける庭の出口、リシュアは門の手前で、ポケットに手を入れたまま身を屈めて待っていた。もう12月も中旬を過ぎた。流石にコートも着ずに外に立っているのは寒さが堪える季節だ。


 向こうからアンビカが足早に近づいてくる。リシュアは一瞬緊張した表情になる。また先ほどのような平手打ちをお見舞いされるかと一瞬身構えた。


 しかしアンビカはどこか元気がなかった。先ほどの勢いは影を潜めている。


「用事は済んだのかい?」


 拍子抜けしたリシュアがそう尋ねると、アンビカは無言でじろりと彼を見上げた。


「前にしっかり釘を刺したはずよね? 司祭様は高貴で神聖なお方よ。あなたのような人間が、遊び半分に手を出していいお方じゃないの」


 リシュアは困ったように薄ら笑いを浮かべ、頭を掻いた。


「それはしっかり覚えてるさ。でもなあ……」

「何よ。今更言い訳なんか聞きたくないわ」


 アンビカの厳しい声がぴしゃりとリシュアの言葉を遮る。

 さすがにリシュアも眉を寄せ、アンビカの顔を覗き込む。


「まあ聞けって。俺は遊び半分なんかじゃない。本当に良く考えたんだ。お前は信じないかもしれないけど、俺は真剣だよ。本気で司祭様を守りたいと思ってるし、心から愛してる」


 アンビカは耳を疑った。そして体は勝手に反応し、再びその右手がリシュアの頬を打ち据えていた。


「恥を知りなさい! あなたなんかに本気の愛情なんてあるわけがないじゃない。そんなものは錯覚よ。そうやってまた司祭様まであなたの犠牲にするつもり?」


 リシュアは赤くなった頬をさすりながら、小さくため息をついた。


「なあ。お前が信じられないのは良く分かるよ。俺自身信じられなかった。でも、本当なんだ。もう今は他の誰も目に入らない。司祭様のためなら何でもする覚悟だ」


 アンビカは、自分の体から血の気が引いていくのを感じていた。それが何故なのかは自分でも良く分からない。しかしそれが、リシュアの言葉の真実を感じ取ってのことだという事だけは理解できた。


「……本気、なのね」


 勢いを失ったアンビカは、小さくぽつりと呟いた。


「ああ。本当に、済まない」


 謝られて、初めてアンビカは自分が悲しげな表情になっていることに気付く。


 悲しいのだろうか。そうかもしれない。かつて許婚であった頃から今まで、彼の自分に対するこのような言葉を聞いたことはなかった。それが悲しかった。悲しいと言うよりも空しいと言ったほうが合っているかもしれない。


 気持ちを落ち着けるために、アンビカが一つ大きな息を吐いた。


「……あなたの気持ちは分かったわ。でも、それとこれとは話が別よ。あなたと司祭様は身分も立場も違うわ。世の中の誰もあなたたちを認めない。その邪な気持ちは胸の奥に仕舞って、今後は行いを慎みなさい。これは警告よ」


 鋭く言い放ち、再びリシュアを睨みつける。

 その言葉には答えず、リシュアは肩を竦めた。


「それが言いたくてここで待たせてたのか?」


 その言葉に、ようやくアンビカは本来の用件を思い出す。


「違うわよ。あなたに確認したかったの。……凱旋パレードの責任者になったって本当なの?」


 思いがけない質問にリシュアは目を丸くする。


「何でお前がそんなことまで知ってるんだ?」

「当たり前よ。パレードの開催には貴族院の承認が必要なんだから。父の代わりに会議に出て、資料を見て驚いたわよ」


 そう言って、呆れたような視線をリシュアに向ける。


「呑気なものね。一方で司祭様に熱を上げておきながら、そのお気持ちを踏みにじるようなパレードの責任者になるなんて」


 その言葉にリシュアは首を傾げた。


「あんなくだらん行事が司祭様と何か関係あったか?」


 その頭にアンビカの手が飛んでくる。ぽかりと頭を叩かれても、リシュアは不思議そうに見返しているだけだ。


「あのね。凱旋パレードはクーデターの成功を祝ったものの名残なのよ。司祭様のご両親が亡くなったのも元はと言えばあのクーデターのせいじゃない。今こうして寺院に閉じ込められている事もね。司祭様への愛情を口にしながら、皇帝陛下のご一家と貴族の権威を地に貶めた出来事を祝うつもりなの?」


「……ああ、そういうことか。考えもしなかったな」


 呆気に取られたようなリシュアの様子を見ると、その言葉は本当らしい。


「あなたって、本当に気遣いとかそういう言葉とは無縁の男よね」


 もはや怒る気力も失せたように、アンビカはため息をついた。


「でも、もう今から断るわけにもいかないし。司祭様には俺からお話しておくよ。俺だってあんな馬鹿げた行事に好きで関わるわけじゃない。これも仕事なんだよ」


「仕事、か。便利な言い訳ね。まあ、せいぜいあなたの大事な司祭様に嫌われないようにすることね」


 そう言い捨てると、視線も合わせぬままにアンビカは門をくぐって去っていった。



 頭を掻きながら無言でアンビカを見送り、そのまま礼拝堂に戻る。

 礼拝堂にはルニスの花束を手にした司祭が立っていた。


「何かご迷惑をお掛けしましたでしょうか? ドリアスタ公爵のご令嬢は何と?」


 自分のせいでリシュアが責められたのではと思ったのだろう。酷く心配そうにリシュアを見上げる。


 その肩にそっと手を乗せて、リシュアは微笑んだ。


「いえ、私個人のことです。どうぞ気になさらないでください」


 それを聞いてようやくほっとしたように司祭は頷き、近くの大きな白い花瓶にルニスを挿し始めた。


「信者の方は皆ルニスを持ってきますね」


 苦手な甘い香りをなるべく吸い込まないようにして、リシュアは司祭の背中に語りかけた。


「ええ。ルニスは神の化身とも言われる花です。祈りを捧げたり願い事がある時には必ずこの花を飾るのですよ」

「願い事……か」


 リシュアは神を信仰しない。願い事は自分で叶えるものだと信じている。神に縋るほどの願いとは一体何なのだろう。


「司祭様の願いはリュレイに行くことでしたね」


 何気なくそんな言葉が口をついて出た。

 司祭はルニスを挿し終えてゆっくりと振り返った。


「ええ。でも今は……まずはこの内乱が一刻も早く終わるようにと」


 それはリシュアにとっても同じだった。静かに頷く。


 

 リシュアは司祭に歩み寄り、そっとその肩を抱こうと手を差し伸べる。

 しかし司祭は困った顔で俯いてしまった。


「……どうかしましたか?」


 司祭は俯いたまま小さな声で告げる。


「先ほどアンビカさんからご忠告を頂きました。私のような立場の人間は軽々しい行動を取るものではない、と」


 続けて、すみません、と頭を下げられてリシュアは困惑した。そして同時に心の中で余計なことを言った元許婚を毒づいた。


「そんな言葉、気にすることはありませんよ。あなたはあなただ。司祭としての職務は立派に果たされています。個人的に何をしようと他人がとやかくいう権利はありません」


 しかし司祭は固い表情のままだ。


「ですが、司祭であるこの身は私一人のものではありません。信者の方の信頼を損ねるようなことは、避けなければいけないのかもしれません」


 リシュアは表情を曇らせた。折角明るくなってきた司祭の表情が、こうしてまた暗くなるのは見るに忍びない。伸ばしたままの手で司祭の両肩をそっと掴み、その顔を覗き込んだ。


「司祭様。あなたはもっとご自分の幸せを考えて行動すべきです。外野が何と言おうと、私はあなたを諦めない。あなたを幸せにしたいと思っています。ただ、私といることがあなたにとって迷惑ならば……」


 司祭は驚いたように顔を上げた。


「迷惑だなどということはありません。中尉さんのお気持ちは有難いと思っております。でも……」


 自分の肩を掴む手にそっと触れる。迷いながらも司祭は不安に満ちた目でリシュアを見つめている。その目には光るものがあった。


 リシュアは微笑んで司祭が浮かべた涙をそっと拭った。


「言ったでしょう? 私はあなたを愛しています。あなたの幸せのためなら喜んで何でもしますし、誰に何を言われても構いません」


 その言葉に堰を切ったように司祭の目から大粒の涙が零れ落ちた。

 司祭は困惑したままリシュアのぬくもりを感じていた。


「あなたに答えが出ないのならば、私が代わりに考えます。どうか悩まないで下さい。私のためにいつも幸せで、笑顔で居てください」


 司祭は顔を上げた。涙に濡れてはいたが、その顔は微笑んでいた。


「難しいことを簡単に仰るのですね」

「何事もシンプルなのが好きなんですよ」


 リシュアも微笑みを返してその髪を撫でた。


「私の願いは、それだけですよ。さあ、ここは冷えます。部屋に戻りましょう」

 そう付け加えて、リシュアは司祭の手を取った。

「願い事にはルニスを捧げなければなりませんよ」


 司祭はそう言ってくすりと笑った。


「ルニスの花は苦手です」


 リシュアは振り向いて笑った。

 そうして二人の姿は廊下の向こうに消えていった。



                         第三章 完

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