第4話 アンビカの意思

 この話を父に託された時、彼女には迷いがあった。今まで父のすることに対して疑問や批判を感じたことはなかったが、今回ばかりは違った。


 聖職者として生きていたからこそ、窮屈ながらも平穏でいられた司祭を、皇帝に祭りあげるという行為。それはこの内乱の中、軍を刺激し司祭を危険に晒す行為ではないのか。アンビカは一晩悶々と悩み続けた。父の言いつけに反する選択をするべきなのではないか、とも考えながら。


 だが彼女は結局今日こうして寺院に立っている。ただそれは父親の言いなりになってのことではなく、彼女自身の意志だった。そしてそれは司祭にとっても同じこと。意思を持つ一人の大人に、情報も与えずただ守ろうとするだけが、正しい訳ではないと思ったからだ。


 閉鎖された空間で与えられる情報も限られているからこそ、今の内乱そして軍の動き、貴族達の希望などをありのままに伝えることが大事だと思ったのだ。

 司祭はそこから自分で判断をすればいい。そう判断したアンビカは、自分の意思でここにこうして来たのだった。


 幸い寺院にはアンビカ以外の参拝者の姿はない。がらんとした礼拝所には司祭の姿があるだけだった。


 司祭は祭壇の前でひざまずき、熱心に祈りを捧げている。

 白いローブと栗色の髪が良く磨かれた石畳の上に広がり、その周囲を薄明るい日差しが浮かび上がらせている。


 日差しはステンドグラスの色を滲ませてうっすらと色とりどりに輝き、その情景は1枚の神聖な絵画さながらに神々しい。

 アンビカはしばらく声をかけるのも忘れて、その姿を見つめていた。


 すると突然司祭がその顔を上げ、こちらを向いた。不意を突かれたアンビカは動くことができず、にっこりと微笑む司祭に魅入られていた。


「お祈りをされますか? それとも何か願い事が?」


 アンビカは動揺を悟られないように、小声で静かに司祭に告げる。


「大事なお話があって参りました。誰にも聞かれずに話せる場所はございますか?」


 司祭は不思議そうに小首を傾げる。しかしすぐに親しみを込めた微笑みを浮かべて頷いた。


「私の自室で宜しければ」


 つられてアンビカもようやく笑みを浮かべ、小さく頷いた。


「こちらへ」


***


 長い廊下や頑強な扉を抜けて、2人は司祭の部屋の前へと辿り着いた。貴族院の議長である父や、軍の警備担当でさえ踏み入れることのできないプライベートな空間だ。

 アンビカは改めて緊張に息を詰めた。が、司祭は変わらず柔らかな笑みを浮かべたまま、家族や友人に対するような自然さでその扉を開け、アンビカを招き入れた。


 部屋は意外なほどに簡素だった。床や壁はオフホワイトとローズブラウンのモノトーンで、家具も上品ではあるがやけにシンプルだ。


 聖職者としてならば確かに違和感はないが、次期皇帝の住む部屋とはとても思えない。美術品などの装飾品もなく、飾られているのは子供が描いたような鳥の絵と、一枚の家族写真だけ。

 ゲリュー皇家の血を引く唯一の貴人が、このような質素な暮らしを強いられていると思うとアンビカは怒りさえ感じた。


 しかし、そんな風に感じたことを司祭に知られれば、更に相手を傷つけることになるだろう。彼女は平静を装って、司祭に勧められるままにソファに腰を下ろした。


 その瞬間、アンビカの表情が強張こわばった。ソファから微かに漂う香りに気づいたのだ。

 彼女にはとても馴染みのある香り。それはリシュアが昔から愛用している香水の香りだった。


 本来立ち入りを禁じられているはずのこの部屋。司祭のプライベートな空間にまで出入りしているというのだろうか。

 

「……どうかなさいましたか?」


 その声にアンビカは我に返る。こんなことを気にしている場合ではない。

 アンビカはじっと膝の上の自分の手を見つめ、心の乱れを落ち着かせる。


「司祭様。……いいえ、フィルアニカ様。今日は父に代わって大切なお話をしに参りました」


 アンビカは静かに、そしてゆっくりと目の前の美しい皇子に向かって話し始めた。


 押し殺したような声になっているのは、緊張のせいだろうか。それとも無意識に盗聴などを警戒しているのか。

 普段と違うアンビカの様子に、司祭も何かを感じ取ったようだ。紅茶を淹れようとしていた手を止め、アンビカと向かい合うように静かにソファに腰を下ろした。


「伺いましょう」


 それでも司祭の声は、普段と変わらずに穏やかで柔らかい。顔には笑みさえ浮かべている。

 恐らくこの皇子は、これから聞かされる話の重大さにまだ気づいていないのだろう。アンビカは話を聞いた後の反応を想像してみる。

 まず驚き、争いになることを嘆くだろうか。それとも荷の重さに耐えられず拒絶するだろうか。彼女の手は緊張の汗に濡れていた。

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