第8話 ミサの朝
翌朝の空は、昨日の事件など何も無かったかのように青く晴れ渡っていた。リシュアは、出勤時間よりも少し早めに寺院へ向かった。今日は週末。旧市街から人々がミサに訪れる日だ。
寺院に入ると、イアラが祭壇にある大きな花器に白い花を活けていた。菱形をした繊細な白い花弁が黄色い中心部を隠すように渦巻いている美しい花。
「ルニスの花か」
リシュアが名前を知っている数少ない花だった。
「司祭様がお好きな花なの」
イアラは1本1本丁寧に挿していった。
「俺は嫌いだ。葬式の花だろ」
この花特有の強く甘い香りは、リシュアに母や戦友達の葬儀を鮮烈に思い出させた。
「でも、綺麗な花よ」
全部挿し終わったイアラは、ようやくリシュアに向き直った。
「おはよう軍人さん。風邪はひかなかったみたいね」
「おかげさまでな。昨日は何事もなかったかな」
リシュアは礼拝堂をぐるりと見回した。静かなその空間は、至って平穏に見える。
「そうね。ロタが夜中に葡萄パンを荒らしたくらいかしら」
イアラは微笑んだ。
「ミサの警備をするんでしょ? いい場所を教えてあげる」
手招きされてついて行くと、細い階段を上がった屋根裏のような場所に出た。白い石を荒く削っただけの通路と壁。灯りは無く、外に面した鉄枠の窓から日光が射し込んでくるのが唯一の光源だった。
「ここからなら祭壇と礼拝堂が良く見えるの。秘密の場所よ」
微笑みながらイアラは自分の口元に人差し指を当てた。下を覗くと、確かに先程まで彼らが立っていた祭壇が良く見えた。
「ここに詳しいんだな」
「それが仕事よ」
そう言ってリシュアの顔を覗き込んだ後、イアラはくすりと笑った。
***
部下達に配置などを指示した後、リシュアは再び先程の「秘密の場所」にやってきた。祭壇ではムファが懐中電灯をくるくると回しながら鼻歌交じりに危険物などのチェックをしている。
「ムファ、気を抜かずにしっかりチェックしろよ」
トランシーバーでそう告げると、ムファは驚いて姿勢を正し、きょろきょろと辺りを見回した。リシュアはその姿を可笑しそうに眺め、床にどっかりと腰を下ろした。どうやら彼はこの場所が気に入ったようだ。
礼拝堂の椅子には、気の早い参拝者がぱらぱらと座っていた。ミサまではまだ時間がある。リシュアは明かり取りの窓からぼんやりと外を眺めた。手作りガラスの窓のせいで、景色は少し歪んで見えた。
しばらくして、リシュアはその景色が例の果樹園に続く庭だと気が付いた。庭師小屋の屋根ごしには葡萄畑も見渡すことが出来た。もっと良く見ようとしたが窓ははめ殺しになっていて開ける事ができない。窓にへばりつくようにしてその奥を覗き込むと、小さな丸いテーブルが見えた。
丁度司祭と庭師が席につき、イアラが紅茶のようなものを運んで来ているところだった。リシュアは目を凝らして司祭を遠く見つめた。視界が悪く良く分からないが、彼らはとても楽しげに談笑しているようだ。朝の光の下、彼らの笑顔は輝いて見えた。
自らの息でガラスが曇り、思わず手で拭いたリシュアは、そこで初めて我に返った。
「何やってんだ俺は……」
彼は急に情けない気分になり、窓に背を向けるとごろりと横になった。
***
時間が経つにつれ、礼拝堂は参拝の人達で埋め尽くされてきた。皆顔見知りらしく銘々に朝の挨拶を交わしている。その中には乳母のマニを連れたアンビカの姿もあった。リシュアは昨日の件を謝りたいとも思ったが、貴族達が溢れる礼拝堂に入る気には到底なれなかった。
特にマニはアンビカを溺愛しており、許婚のリシュアに対しては、当時からやたらと厳しかった。万が一彼女に見咎められては面倒なことになるだろう。不本意ながら今日のところはアンビカには関わらないことにした。
一通り挨拶を終えた人々が席に着き始めた頃、礼拝堂へと続く通路の奥の方から澄んだ音が響いてきた。その音が聞こえ始めると、一瞬のうちに礼拝堂は沈黙に包まれる。人々は静かに立ち上がり、音のする方へと目をやった。彼らの目にまず映ったのはえんじ色の短いケープを羽織った栗毛の少年だ。
少年は、クリスタル製の大きなベルを鳴らしながら礼拝堂へと歩いてくる。その後ろを静かに進んでくるのは、白地に金刺繍を施した、長いケープを身に纏った司祭だった。
司祭はゆっくりと歩を進め、祭壇へと上がった。刺繍の輝く金糸以外にも、その純白の衣の織りに何か細工があるのだろう。無数の蝋燭の灯りの中で、司祭は文字通り眩く煌いて見えた。
リシュアは息を飲んで司祭を見つめた。
以前日の光の下で見た優しく微笑む聖母のような姿ではなかった。その美しさは変わらなかったが、雰囲気はまるで別人のように感じられた。
堂々と威厳に満ちたその姿は、皇帝の血を継ぐ者として全く恥じるものではない。また凛として動じないその瞳は聖なる者として人を惹きつけるには十分過ぎた。
明らかに場の空気が変わっていた。
リシュアは鳥肌が立つのを感じていた。こんなにも美しく、力強く、確固としたものがこの世に存在したとは。
リシュアをはじめその場の誰もが身じろぎ一つせず、ただ一点司祭を見つめていた。しばらくの沈黙の後、司祭は参拝者達を見回してから、右手を軽く上げて彼らに着席を促した。人々は深々と一礼した後、静かに腰を下ろす。香が焚かれる中オルガンの音が流れ始め、司祭は静かに歌いだした。
その旋律は以前リシュアが真夜中に聞いた司祭の不思議な歌に良く似ていた。しかしその歌詞は現代の言葉で神を讃える普通の賛美歌だった。追いかけるようにして会場の皆も合唱を始めた。司祭の声は格別大きくはなかったが、誰のものよりも際立って礼拝堂に響いていた。
心を掴まれるような美しい声だった。リシュアは思わず目を閉じて聴き入る。合唱はそれ程長くはなく終了し、続いて司祭が説教を始めた。
「我々ルナスの民は創造の神ルナスとその使いである天女に常に護られています。我々は一時たりとも神と天女への忠誠を忘れてはなりません」
そう説いた後、経典から古い神話を語り始めた。
「遠い神代の時代のことです。遠く3つの海を隔てた退廃の地にラチノアという都市がありました。人々は繁栄の末に怠惰な生活に溺れ、異教の神を崇めておりました。そのために地は汚れ水は腐り人の血は汚れていました」
何気なく聞いていたリシュアは昔その話を聞いたことがあるような気がして思わず真剣に耳を傾け始めた。
「異教徒の血は星を穢します。神はこの地を清めるために自らの半身である天女を遣わしました。天女の鎌から放たれた雷は、街と異教徒を全て一瞬で焼き尽くしました。神と天女の力により大地は再び清められたのです」
リシュアの顔はみるみる強張っていった。
「この宇宙で唯一、神の寵愛を受けているのが我々ルナスの民であります。我々は神の血を引く選ばれし民なのです。その誇りに恥じることのない行動を常に選ばねばなりません。正しい道を見失ってはいけません。我々が正義を行い、他の卑しい血を統べることで宇宙の秩序が保たれるのです。神はそれを望まれています。ルナスの民によって秩序の保たれた世界こそが最後に行き着くべき理想郷となるのです」
リシュアは呆然として自信に満ちた司祭の顔を遠くから見つめた。耳を傾ける人々は夢の中にでもいるような表情をしている。
「こりゃあ相当えげつない選民思想だな」
リシュアは嫌悪感を露にして目を細めた。そうして改めて神秘的な程に光り輝く司祭の姿を見つめた。低く優しく、しかし強く魂を捉えるような声を聞いた。この姿、この声には人の心を捕らえて離さない魅力があった。そんな司祭が語りかければ、民はいとも容易くその思想に染まり、如何様にでも動いただろう。司祭がもしも現在皇帝の座に就いていたらと思うと、リシュアは空恐ろしくなった。同時に今このルナス正教が軍によって厳重に管理されている意味を初めて理解した。
最後に、司祭は目を閉じて祈りの言葉を呟いた。
「神と天女に祝福されし我々ルナスの民に幸あらんことを」
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