第35話 全ては幻か

 突然、控室のドアが開いた。誰かが駆け込んでくる音がする。司祭はまだ伯爵と揉み合いになっていた。

 現れたのは、敵か、味方か。伯爵の陰になっており、その姿は見えない。


「取り込み中だ、出ていけ!」


 伯爵が司祭の両手を押さえ込みながら怒鳴る。司祭は僅かに期待を寄せた。警備兵の誰かが助けに来てくれたに違いない。


「聞こえただろう。出ていけ!」


 大男が、乱入してきた人物に殴りかかった。しかし大ぶりなパンチはするりとかわされ、大男は体勢を崩す。そこに足払いをかけられ、思わず膝をついた。


 朦朧とした意識の中、司祭は目の前で繰り広げられる乱闘をぼんやりと見ていた。

 大男が腹に膝蹴りを何度も叩き込まれて、その都度一瞬宙に浮き、上から顔面を殴られて床に転がる。その胸を、顔を、長い脚が何度も何度も強かに蹴りつけた。

 巨体がぴくぴくと痙攣し、唸り声が次第に小さくなって、最後には動かなくなった。


 次に、その様子を見て固まっていた伯爵は胸ぐらを掴まれ、顔面を何度も殴りつけられた。伯爵の鼻骨が砕け、口から折れた歯が飛び出しても構わずに、固く握られた拳は渾身の力を込めて執拗に殴り続けた。


「ひぎぃいいいいっ」


 伯爵は血の混じった涎と鼻血を撒き散らしながら、腰を抜かしたまま後ずさった。魔の手から開放された司祭は、自分を救ってくれた人物を仰ぎ見る。


 逆光で顔が見えないが、肩で息をするたびに短い髪が揺れ、倒れている司祭をそっと抱き起すその腕は長く力強い。


「すみません。もっと早く来られれば、こんな目に遭わせずに済みましたのに……」


 その声には覚えがある。漂うコロンの香りにも。しかし、そんなはずはないのだ。薬物のせいで幻を見ているのだろう、と司祭は察した。

 勿論幻でも嬉しい。しかしその分後で辛くなるのは分かっている。司祭は涙を堪えることができず、むせび泣きながらその幻にしがみついた。


「幻でもいいですから、まだもう少しこうしていてください。まだ行かないで下さい」


 すると、耳元でふっと笑う声が聞こえた。その人物は司祭を抱き上げ、ソファにそっと横たえた。


「幻ではありませんよ」


 そう言って、脱いだ上着を司祭にかける。上着に残っていたぬくもりに、司祭の心は少しだけ落ち着きを取り戻した。


「今頃ですが、恥ずかしながら戻って参りました」


 焦点の定まらぬ目でも、その顔は間違えようもないものだった。自慢のプラチナブロンドは耳にかかる程度にまで短く切られていたが、そのグレーの瞳、下睫毛の多い垂れた目元は何一つ変わっていなかった。


「──ご無事で……?」

「幽霊ではありません」


 苦笑する口元も愛おしい。司祭は彼を抱き寄せて、その唇にキスをした。長い長いキス。リシュアは目を閉じ、夢見るような表情でそれを受け、離れていく唇を名残惜しそうに追いかけて再びキスをした。司祭の目から零れ落ちるのは嬉し涙だ。リシュアは指でその涙を拭う。

 伯爵とその従者はいつの間にか逃げ出していた。


***


「伯爵の悪い噂はかねがね知っておりましたので、司祭様を訪ねられたと聞いて血の気が引きました。検問所をなかなか通れずに時間がかかってしまいまして……さぞ恐ろしい目に遭われたでしょう」


 司祭ははっとした。あのような者に好きにされそうになって、髪も服も乱れた自分をリシュアに見られるのは耐えがたかった。かけてもらった上着にくるまり、髪を手櫛で直す。


「お願いです。どうか見ないで下さい」

「司祭様、このことは決して誰にも言いません。どうか安心してください」


 なだめるようにリシュアは司祭の肩を、髪を優しく撫でた。それでも当然のことながら、司祭の心は恥と不安、恐怖に苛まれたままだ。


 伯爵は当分の間、人前に出られない顔になっているだろう。口の中も切って歯も折れていては、まともな食事もしばらくはおあずけだ。それでもリシュアの怒りは収まらない。できることなら殴り殺してやりたかった、と拳を握りしめた。

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