第6話 司祭の答え

「単刀直入に申し上げます。貴族院をはじめとする貴族、そして旧市街の人々の多くが、フィルアニカ様の1日も早い皇位継承を望んでおります。そのためにもまずこの寺院から離宮に移られ、即位の儀を執り行って下さいませ」


 一気にそこまで言って、そのまま深く頭を下げた。自分でも驚くほどに声が震えて、顔を上げることができない。司祭と目を合わせるのが、いやその表情を窺うことさえが怖かったのだ。


 司祭が怖いのではない。自分の一言で、今はっきりと何かが動き出した。何か後戻りのできない選択のスイッチを押したという感覚が、彼女を総毛立たせていた。


「現在の内乱に至る軍中枢の不手際。その後の対応の未熟さに皆が不満を募らせております。今こそどうぞ我らをお救い下さい」


 沈黙を押し流すようにアンビカは言葉を継いだ。無論顔は下を向いたままだ。

 司祭はどんな反応をするだろうか。拒絶、絶望、混乱。それとも嘆き……。


 しばらく待っても返事はない。恐る恐る顔を上げると、笑顔を湛えた司祭が自分を優しい目で見つめていた。

 その様子にアンビカは驚きを隠せなかった。このような重大な話の最中だというのに、何故にこのように穏やかでいられるのか。

 そんな彼女の心中を察してか、司祭は笑顔のまま一礼して話し始めた。


「実を言いますと、私もいつかこのようなお話を頂くのではないかと感じていました。この混乱をなんとかするために私も何かすべきなのだろう、と。ただ……」


 ずっと以前から、司祭はこうなることを予感していたのだろう。見せかけの平和な生活に慣らされて、心まで飼い殺しにされているのだと思い込んでいた自分をアンビカは恥じた。

 そして再び司祭の言葉に耳を傾ける。


「ただ、本当にそれで内乱を終結させることが出来るのでしょうか。この身が危険に晒されても構いません。飽くまでも私達の目的は内乱を終わらせること。ですが私が皇位に就くことで却って混乱をもたらすのではないでしょうか。そこをもう一度しっかりとご確認下さい。それと……」


 司祭は強い口調で言葉を継いだ。


「私はここから離れるつもりはございません。皇子であると共に私はルナス正教の司祭です。それだけはご承知おきください」


 凛とした瞳がアンビカを見つめる。口調は柔らかいが有無を言わせぬ強さと威厳がそこにはあった。

 アンビカは今度こそ目を逸らすことなく強く頷いて見せた。


「分かりました。司祭様のご意向は必ず父をはじめ貴族院の皆に伝えます」


 司祭は安心したように微笑んでから立ち上がり、再び紅茶の準備を始めた。


「では詳しい事はまた後日。私ももっと良く考えてみます。何かこうしてお話することができた時は、イアラにお声を掛けてください。すぐにここへお通しするように伝えておきます」

「はい。ご配慮ありがとうございます」


 ふとアンビカは、自分が自然に笑みを浮かべていることに驚く。貴族同士の付き合いなど終始腹の探り合いだ。幼いころから見よう見まねで覚えた愛想笑いが、今では常に顔に貼り付いている。


 しかし、今の自分の笑みは違う。唯一心を許せるマニだけに見せる、そんな笑顔。互いに大きな秘密を共有したからなのか、それともこれが司祭の魅力のなせる業なのか。

 ともかく、少なくともこの貴人のために多少の犠牲を払っても惜しくはない。この会話の中でアンビカははっきりとそれを確信した。


「どうぞ。お口に合うと良いのですが……」


 遠慮がちに茶が差し出される。礼を言って手にしたカップの中には初めて見るような黄金色の液体が満たされていた。


「先日珍しいお茶を頂いたので、今日はそれを淹れてみたのですが……」


 司祭に贈られるくらいなのだから、かなり貴重なものに違いない。しかし当の司祭は普段通りの自信なさげな笑顔で小首を傾げ、こちらを見守っている。


「そのような貴重なものを……有難うございます」


 カップを口元に運ぶと、確かにその色味に似合う爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。


「まるで草原のような香り……」


 そう言いかけて、笑顔が一瞬固まった。


 大きく吸い込んだお茶の香気に混じって、先程も感じたあの香りがしたのだ。ソファにしみ込んだ、リシュアの香水の香り。


「……あの……?」


 その声にはっとして顔を上げると、司祭が不安げにこちらを見つめていた。


「お気に召さないようでしたら、すぐにいつものお茶を……」


 気遣うような司祭の言葉に、アンビカは慌てて首を振る。


「いえっ、違うんです。ちょっと懐かしい香りに感じたものですから……」


 嘘ではない。嘘ではないが、彼女の心にまた暗い影が差す。

 自分とリシュアはもう許嫁ではない。それに彼も任務の一環でここに来たとも考えられる。頭では分かっている。分かっているのに彼女の心のざわめきは一向に収まらなかった。

 更に先日目にした司祭とリシュアの抱擁が脳裏に蘇ってくる。


 再び司祭に目をやると、今度はほっとしたような笑みを湛えてこちらを見ている。どうにもいたたまれない気分だった。

 アンビカは早くこの場をから立ち去りたい一心で、まだ熱い紅茶を一気に飲み干した。


「ご、ご馳走様でした!」


 案の定、司祭は驚いて目をしばたたかせている。そしてアンビカのとってつけたような言い訳。


「あの、喉が渇いていましたもので……」

「そうだったのですか。もっと早くお持ちすれば良かったですね」


 再び二人の会話はぎこちなくなり、挨拶もそこそこにアンビカは逃げるように部屋を辞した。

 司祭も慌てて立ち上がり、公共部分の廊下のところまで見送った後首を傾げる。


「やはりいつもの茶葉にすれば良かったでしょうか……」


***


「あああ、もうっ!!」


 庭まで出て、誰もいないことを確認してから、アンビカは踵で思い切り石畳を蹴った。しかし悪い事は重なるもので、一瞬バランスを崩してよろけ、軸足の足首を捻ってしまった。


「痛ぁ……っ」


 腹立たしいやら悔しいやら。更に情けなくなり、アンビカはそのまましゃがみこんでしまった。

 この苛立ちをどこにぶつければいいというのだろう。


「おいおい、大丈夫か?」


 ふいに呑気な声が降ってくる。見上げるとそこには緊張感のない顔で突っ立っているリシュアの姿があった。


「うるさいわねっ!」


 勢いよく立ち上がり腕を振ると、手にしたバッグがリシュアの側頭部に見事命中した。そう、アンビカにとっては怒りの矛先を向ける相手が都合よく現れたという訳だ。


「でぇ……っ!!!」


 小さいが頑丈な革製のバッグの角が直撃したのだからたまらない。リシュアは両手で頭を押さえてのけ反った。


「い、いきなり何だよっ!!!」


 その抗議は至極正当である。しかしアンビカは全く悪びれる様子もなく、むしろ畳みかけるように言葉を継ぐ。


「舌は火傷するし、足は捻るし。どうしてくれるのよっ!!」


 その形相と勢いにリシュアは思わず――。


「え、あ、悪い……」


 謝ってからはっとしたが、既にアンビカの姿は門の向こうに遠ざかっていた。


「って、俺のせいかよ?!」


 訳も分からないまま誰もいなくなった庭園でそう言い捨てるのが精いっぱいだった。

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