第3話 縁があるなら

「さて。お加減のほうはいかがですか?」


 上映が終わると、青年はアンビカに向かって笑いかけた。


「……悪くないわ」


 体調も、機嫌もかなり良くなっていた。アンビカはようやく青年に向かって僅かに微笑んだ。青年は嬉しそうに頷くと、アンビカの手から空になったカップを受け取りギアを入れた。


 出口に向かって走っていると、敷地内にはパラパラとだが他の車も停まっていた。離れていたので気付かなかったが、他にも客はいたらしい。馬鹿な心配をした、とアンビカは一人くすりと小さく笑った。


「どうやらようやく安心してくれたみたいですね。じゃあその物騒なものは仕舞って貰えますか?」


 アンビカは驚いて青年を見た。銃を隠し持ったことに気付いていたらしい。一瞬気まずそうな表情になったが、それを見る青年の顔は相変わらず穏やかに微笑んでいた。


***

 


 行きと同じようにすんなりと検問を抜け、車は再び旧市街へと戻ってきた。大通りを街の中心地へと向かって走り続ける。


「さて。どこへお送りしましょうか」


 青年の問いに、アンビカは少し考えた後、短く答えた。


「最初のホテルに」


 青年は頷いて車をホテルの方角へ向けた。



 程なく二人が初めて会ったホテルの前に着き、車は静かに玄関前に停まった。


「今日は有難う。助かったわ」


 礼を言うアンビカに青年は笑顔を返した。ボーイが助手席のドアを開ける。


「良かったらまた会いましょう」


 車を降りるアンビカの背に青年がそう声をかけた。アンビカは少し驚いたように振り返る。


「……え、ええ。いいわよ」


 青年との時間は悪くなかった。また一緒に映画の話をしたいとも思う。しかし青年が合図をすると、ボーイはそのままドアを閉めようとした。アンビカは慌てて閉まりかけるドアの隙間に向かって声を掛ける。


「ねえ。また……って。お互いに誰かも話していないのに……」


 しかしそのままドアは閉まり、青年の車の後ろには次々とリムジンが停まり始めた。青年は助手席側の窓を少しだけ開けると、にっこりと白い歯を見せた。


「大丈夫。本当に縁があるなら、また会えますよ」


 そうして車はそのまま走り去り、アンビカは一人その後ろを黙って見送った。

 内乱が始まってそろそろ1ヶ月になろうという日のことだった。


***


 その翌日。


「まだお休みになっていないとダメですよ」


 ドアを開けて入ってきたマニは、ベッドから起きて着替えを始めていたアンビカに向かって慌てて声をかけた。


「寝てるのは飽きちゃったわ。もう大丈夫よ」


 抜け出そうとしたのを見つかり、バツが悪そうなアンビカを見て、マニは短くため息をついた。

 彼女はアンビカの乳母だ。浅黒い肌に黒い巻き毛。大きな黒い瞳。たまごのような恰幅のいい体型、と南部の頼りがいのあるお母さんの特徴そのままの姿をしている。


「大丈夫ならば昨日のお相手の方に一緒にお詫びに行きますよ」


 マニはアンビカに顔を寄せて、まるで子供を叱るように軽く睨み付けた。

 これにはアンビカも言い返す言葉が出ずに、ただ恨めしそうに上目遣いのまま黙り込んだ。


「さ、お夕飯まではお休み頂きますからね。先方にはルーティスがお詫びに行っております。ご機嫌を損ねていなければまた次回のお約束も頂けるでしょう」


 渋々とベッドに潜り込んだアンビカだったが、これを聞いて半分隠していた顔をひょっこりと出して情けない声を上げた。


「ええ? いいわよ、もう。縁が無かったと思って諦めてもらいましょうよ」


 昨日の食事会は父親の代理としての挨拶と聞いていたが、実は略式の見合いだったことくらいはアンビカも承知している。だからこそあれだけの手間をかけて病欠の言い訳を作ったのだ。


 一度流れてしまえばもう二度と声はかかるまいと踏んだのは甘かったようだ。アンビカは口を尖らせ、目でマニに抗議した。


「お嬢様。言いたくはありませんが、いつまでもお一人でいらっしゃる訳にはいかないのですよ。早くお父上をご安心させてあげてくださいまし」


 マニは言いづらそうに口に出してアンビカの髪を撫でた。


「分かったわよ。もういい。出てって」


 アンビカは拗ねた子供のようにベッドに頭まで潜り込むと、マニに背を向けた。

 マニはもう慣れたように気にもせず、「はいはい」と返してトレイをサイドテーブルに置いた。


「ホットレモンを置いておきますからね。冷める前にお飲みくださいまし」


 答えはない。マニは苦笑して部屋を出た。


 ドアが閉まるとアンビカはベッドの中からひょっこりと顔を出して、置かれたトレイの方を見た。ガラスでできたマグカップから温かそうな湯気が立ち上っている。

 思わず顔を緩めて、アンビカはカップを手に取った。

 仄かなレモンの香りが鼻腔をくすぐる。ふぅ、と吹いてから口に運ぶと優しい酸味と蜂蜜の甘みが口に広がった。

 すっと肩の力が抜けると同時に、寂しさがこみ上げてくる。半分ほど飲んだ後にトレイにカップを戻し、枕元の電話の受話器をじっと見つめた。


***


 電話のベルが鳴った時、リシュアは丁度寺院から戻って来てシャワーを浴び終わったところだった。


「……はい」


 タオルを巻いたまま少し不機嫌そうに電話に出る。


「どうしたの? 寝起き?」


 電話の相手はアンビカだった。声に元気がないのが少し気になる。


「……いや。どちらかというと寝不足、かな。大丈夫だよ。どうした?」


 リシュアは一転声を和らげてご機嫌を伺う。受話器の向こうで一瞬アンビカの声が黙る。


「寝不足のとこ悪いけど、今夜会えない? 久しぶりに飲みたいのよ」


 言葉は控えめだが、まるで文句でも言うかのような口調だった。リシュアは思わず苦笑した。


「いいよ。いつもの所に迎えに行く。何時に行けば良い?」


 司祭とのことがあってから、今まで付き合いのあった女性達との関係は全て解消した。

 それでもアンビカとの付き合いだけはまだ続いていた。リシュア自身、アンビカと司祭を掛け持ちしているという自覚はない。アンビカは常に彼の許婚であり幼馴染。他の付き合い方を知らないのだ。


 勿論、現在婚約は解消されている。だがそれさえもリシュアのあずかり知らぬ所で決まった話なのだ。兄弟がいつまで経っても兄弟であるかのように、リシュアにとってアンビカはいつまでも変わらぬ身近な存在なのだった。


「9時半にいつもの所に行くわ。遅れないでよ、寒いんだから」


 用件だけ伝えて電話は切れた。リシュアは軽く肩を竦めて受話器を置いた。

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