第16話 経典

「それでは続きを」

「はい」


 返事をする司祭の顔は暗く蒼ざめている。侯爵の手元には、大きく分厚い経典。革の表紙に金で装飾が施されている古い本だ。その内容はざっくりと言ってしまえば、『ルナスの民は選ばれた民族であり、それを統べるルナスの皇帝は神の遣いである』というものだ。

 来たるべき日に、ルナスの民とルナス正教を信仰する者だけが救われる。彼らには異教徒達を統べる役目があり、それに従わない異教徒は滅するべき、という過激な教えでもある。


 それらは本来のルナス正教の教えを歪曲したもので、ルナス正教初期の経典にある本来の教えとは程遠いものだった。ルナス帝国がこの大陸で勢力を広げ始めた頃に、彼らの侵攻を正当化するために作られたと言われている。司祭はこの経典を嫌悪しており、それを無理やりミサで説かされる事を苦痛に感じていた。

 

「今週末のミサではこの部分を取り上げましょう。炎の天女の段です」


 炎の天女の段。それは異教徒の攻撃に対して天女が炎の制裁を加え、ルナスの民に勝利をもたらすという物語だ。この内乱が収束しつつある事に絡めた選択だろう。


「ルナス正教は本来帝国の国教であるべきです。ジュルジール神教やアラム教などは皆邪教。いずれフィルアニカ様が皇帝としてこの国を統べる時、排除されなければなりません」


 ジュルジール神教は多神教だ。今はルナス帝国の一部であり、かつて存在した国、エルベ王国の国教だった。エルベ王国は周囲の国々を制圧する際、彼らの宗教の自由を保障した。そのために信仰心の強い異国の民の反発も、それほど強くはなかったという。


「私は……他の宗教を排除するような事はしたくありません。信仰の自由は守られるべきだと思っております。かつてのエルベ王国のように寛大な対応を──」

「炎の天女の段はそれ程長くないですからな。久々のミサで皆が疲れない為にも丁度宜しいかと」


 侯爵は司祭の言葉が聞こえなかったかのように言葉を継いだ。勇気を振り絞って反論した司祭も、これには黙るしかなかった。うつむき唇を噛んで、息を詰める。


「久々のミサです。皆楽しみに集まるのですから、宜しくお願い致しますぞ」


 侯爵は口の端を上げるが、その目は笑っていない。そのままステッキを手に立ち上がり、ドアへと向かう。司祭は無言でその背を見送り、侯爵は振り返る事もなく立ち去った。

 一人残された司祭はうつろな目でテーブルの上の経典を見下ろしていた。


 炎の天女。異教徒が猛火に焼かれたという伝説。ニュースで聞いたが、グレッカ・ラギスがリシュアに銃撃されて絶命した後、手榴弾の爆発がアドラスの弾薬庫に誘爆した。その炎に巻き込まれて、敵味方合わせて大勢が死亡したという。その場にいたリシュアも同じ結末を迎えたのだろうか。


 経典の革の表紙に、司祭の涙がぱたぱたと落ちる。涙はやがて吸い込まれ、革表紙にいくつもの黒く丸い染みをつけた。

 悔やみ泣いたからといって、リシュアが還る訳でもない。自分には泣く資格さえないのではないかと司祭は考える。


 ソファに座り込み、頭を抱える。脳裏に浮かぶのは、初めて会った時の事。そしてその後何度も冷たい態度を取った事。クラウスと親しくなりリシュアと疎遠になってしまった事。

 どれも非情な態度であった。リシュアは動じない振りをしていたが、その瞳の奥には寂しさが見えていた。


 司祭は全身が凍える思いがした。リシュアの笑顔が思い出せない。思い出してもすぐにあの悲し気な顔、飛び立っていった軍用機の飛行機雲に記憶が塗り替えられてしまうのだった。


 酷い事をした。酷い事ばかりしてきた。その末に彼を死地へと向かわせてしまった。手の震えが止まらない。こんな事になるならば、あの時にもっと……。

 こうして司祭は悔恨の堂々巡りに陥っていった。

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