第9話 リシュアは途方に暮れる
今年最後の見回りを済ませたリシュアは、部下に警備を任せて旧市街に向かった。車を停めて、大きめのカフェに入る。白壁と落ち着きのあるダークブラウンの木材で統一された店内は、観光客らしい人間で混雑していた。
南西部で今まさに内乱が起きているという事を感じさせない盛況ぶり。それは軍が国内のマスコミへ圧力をかけて、情報を操作しているからだと言う者もいる。実際TVでは、内乱の過酷な状況はほとんど取り上げられる事もなく、軍が優勢だという楽観的な情報と、芸能界のゴシップばかりがニュースを賑わせている。
隅の席に座り、こちらを見ている人物がいる。リシュアは軽く手を上げ、その席へと急ぐ。
「待たせたかな。悪い」
「そんなでもないわ」
素っ気なく答えるのはアンビカだ。周囲に知人がいないか、警戒気味にきょろきょろと見渡している。
「で、何の用だ?」
呑気に尋ねたリシュアに、軽く眉根を寄せ小声で告げた。
「バカね。パレードの事に決まってるじゃない。まだ断ってないの?」
リシュアは「ああ」と思い出したように顔を上げ、アンビカの美しい緑の瞳を見つめた。余りにも近い存在すぎた許婚。自分は何故彼女を置きざりにして行ってしまったのか。
「ちょっと、ぼんやりしていないでよ」
鮮やかな赤毛に加え、怒るとほんのり赤くなる頬。幼馴染だからこそ彼女の魅力に気付けなかった。
「あー、すまない。……断りたいんだがなあ。というかこれからダメ元で話してこようと思ってる」
「ダメ元って何よ。そんな弱腰だから断れないんじゃない」
アンビカの鼻息は荒いが、リシュアは肩をすくめて受け流す。
「こっちにも複雑な事情があるんだよ」
「何よその複雑な事情って」
彼女は食いついてくるが、まさかパレードがカトラシャ寺院にまでやってくる事を話すわけにはいかない。
「今は言えない。だが俺を信じてくれ」
言いながら彼はアンビカの反応を予想していた。ふらりといなくなって婚約を破談にし、更に敵側についた彼を一体誰が信じようか。
「分かったわ」
「だよな。信じられない気持ちは分か……え? 今なんて?」
目を丸くしたリシュアを睨みつけるアンビカ。その表情は苦々しい。
「分かったって言ったのよ。何か文句でもある?」
アンビカ自身、ここで父達の計画を話す訳にはいかない。もしそんなことになれば計画は失敗し、関わった者達は命を落とすだろう。自分も今は何も言わずにリシュアに信じてもらいたい。
「いや、お前が良いって言うなら……」
「お互い複雑な事情があるみたいね。でも、ダメ元なんて言わないで真剣に交渉して頂戴。分かった? 絶対にパレードに関わらないで」
何故アンビカがこんなにパレードの件にこだわるのか、彼には今一つ分からない。ただあちらにも『複雑な事情』があって、そのために自分が担当だと都合が悪いのだと受け取った。
日ごろ素っ気無いアンビカが自分の身を案じているなどと思いもしないようだ。
二人ともが考え込み、暫く沈黙が続いた。テーブルに置かれた紅茶が冷めていく。
「そういえば以前言ってたお見合いの相手ってもしかしてあの……」
話題を変えようと口をついて出た言葉にアンビカの表情が揺らぐ。
「あのレストランの。そう、彼よ」
悪い? と凄むような眼差しに一瞬怯むリシュア。
「えーと……良かったじゃないか。腹の出た爺さんじゃなくて。アウシュ銀行の相談役なんて、若いのに大したもんだよな」
「え……どうして知ってるのよ」
リシュアがぽろりと口にした言葉に、アンビカは動揺する。それを察してリシュアは慌てて言葉を継いだ。
「いや、たまたまだよ。友達の捜査を手伝ってた時に一度会ってるんだ。被害者の関係者ってことでな」
「なんだ……びっくりしたじゃない」
「ちなみに俺があの店で一緒だったのはただの友人だからな」
「わざわざ言う事ないわよ。別に興味ないし」
ぷい、と顔を背けたアンビカの表情は言葉に反しているようだったが、リシュアがそれに気付いた様子はなかった。
「それじゃ、ちゃんと断ってくるのよ。分かったわね」
そう言ってアンビカは席を立つ。
リシュアは黙って頷き、店を出ていくアンビカの背を見送った。今回は「話し合い」という事で呼び出されたのだが、結局アンビカからの一方的な話で終わってしまった。
ふう、と思わずため息が漏れる。
「どうした、ため息なんかついて」
突然背後から声を掛けられた。振り返ればそこに立っていたのは彼の親友、オクトだった。
また、アンビカと居たところを見られただろうか。再度の忠告を無視した自分に気を悪くしただろうか。別にやましいところはなかったが、少し気になってオクトの表情を覗き見る。
「いや、ちょっとな……」
咄嗟に歯切れの悪い言葉しか出てこない。オクトは僅かに苦笑いを浮かべた。
「お前らしくないな。細かい事はいちいち気にしないのがモットーだったろう? それとも何か大きな悩みでもあるのか?」
悩みがあるなら聞いてやる、と言うようにぽんと肩に手を置く。どうやらアンビカの姿は見られていなかったようだ。
「ここのところ中将に呼び出される事が多くてな。あの小うるさいジジイの顔を見るだけで一日憂鬱になるよ」
リシュアは肩をすくめて見せる。嘘ではない。彼の悩みの大元は、望みもしない出世の一歩、パレードの事なのだ。アンビカに会って気まずい思いをしているのも全てそのせいだ。
「パレードまで1か月を切ったんだ。残念だがここまで来たらもう腹をくくって従順になるしかないだろう」
親友までもがそんな事を言ってくる。元許嫁は断れと言う。司祭は寺院を出たくないと言う。一体自分はどうすればいいのか。オクトがここに居なければ、唸りながら頭を掻きむしっていることだろう。
「まあ、もう少し考えてみるさ」
いつもの調子ではぐらかし、少し強張った顔を無理やり笑顔に変える。
「ところでお前、どうして旧市街なんかにいるんだ? また何か事件か?」
「ん? ああ、実はそうなんだ。また異能者の犯行らしい事件でな」
オクトが顔を曇らせる。
「一緒に行ってやろうか?」
「それは助かるな。相変わらず旧市街の市民は警察に対して警戒心が強くて」
警察という名であっても、その実態はクーデターで政権を奪った軍の組織だ。当時首都として栄えていた旧市街が急速に生気を失い、誇りや自由を奪われた彼らにとって、20年などという月日はとても贖罪にはほど遠い。
「で、今回はどんな事件なんだ?」
一度は席を立ったテーブルに座り直し、店員にコーヒーのお代わりを注文する。
「火だよ」
リシュアが煙草に火をつけようと取り出したライターを指差す。
「放火魔か?」
気にせず火をつけ大きく吸い込むと、煙を吐き出した。
「そんなもんだ。だがそれだけじゃない。……人体発火だよ」
ぽろり、と煙草を落としかけて慌ててくわえ直す。そしてしばしの沈黙。
「人の体だけ焼け落ちるっていうあれか? あんなの何かのトリックなんだろう?」
苦い顔で問いかけるが、オクトは黙って首を横に振った。
「たまたま防犯カメラに映っていたものもあってな。何の火の気もないところでいきなり人が燃えだして、足だけ残して炭になってしまったんだ」
「脂肪が多い人間の体が
「今回燃えたのはやせ細った老人だ。蝋燭代わりになるような脂肪はついていないだろうな」
こうなるとリシュアも渋々認めざるを得ない。
「……天女のかけら、か」
久々に話題に上った異能者たち。ボディーガードをしていたこともあるカタリナは元気だろうか。
「イリーシャは最近鳴りを潜めているが、関りがないとも言えん。それに逆にその犯人が今度はイリーシャに狙われるという可能性もある」
実に厄介だよ、と友がため息をつく。
「そういえばカタリナはイリーシャのメンバーじゃなかったのか? 何か情報は?」
「彼女はメンバーじゃなかった。ただ勧誘されただけだったらしい。何の情報も得られなかったよ」
彼女は身の安全のために街を出たという。特別な感情を抱いてはいなかったが、別れの言葉を伝えられなかったのは少し残念に思った。
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