第9話 ダブルブッキング
それから3日が過ぎた。
約束の日まであと2日だ。アンビカは自室のクローゼットを開けて何を着ていこうかなどと考えながら午後を過ごしていた。
ふいにノックの音がした。笑顔のマニが入ってくる。
「お嬢様。旦那様がお呼びですよ」
父は今日は夜から出張で出かけるはずだった。不思議そうな顔のアンビカをマニはその大きな体で先導するようにリビングに向かった。
リビングにはドリアスタ侯爵と執事のルーティスが座って待っていた。
「お呼びですか、お父様」
お辞儀をして入室し、向かい合わせに座る。ルーティスは侯爵の傍らに控えて、嬉しそうに笑みを湛えている。
「嫌ね、ルーティス。何よ、そんなににやにやしちゃって」
苦笑するアンビカに無表情のまま侯爵は切り出した。
「先日の夕食会だが、もう一度お会いしてもらえるようにルーティスが交渉をしてきた。水曜日は予定がなかったはずだな。6時半に約束をとってある。今回は体調を万全にして臨むようにな」
アンビカは目を大きく見開いたまま固まった。水曜日。あの青年との約束の日だ。
無言のアンビカに侯爵はもう一度声を掛けた。
「正直に言って、先方はかなり渋っていたようだ。それでも了解を得たのだから、くれぐれも失礼のないようにな」
アンビカは唇を噛んで黙っていた。何かうまい言い訳はないだろうか。じっと考えていると、侯爵が人払いをかけた。ルーティスとマニが出て行った後に、彼はじっとアンビカを覗き込むようにして短く尋ねた。
「……やはり、あの男でなくてはいかんのか?」
驚いて、アンビカは顔を上げた。父の深緑色の瞳は心配そうに、そして悲しげに揺れていた。やはり父はあの時自分とリシュアの姿を見ていたのだ。このような父の目を見るのは初めてのことだった。アンビカは衝撃を受けて言葉を失う。
「……あ、あの……」
自分はこんなにも父を心配させていたのか。大好きな父を失望させているのか。そう思うと、アンビカの胸に後悔の念が一気に押し寄せてきた。父の心配や憂いを考えれば、自分の悩みなどは自分勝手な我侭だと思えた。
「……いいえ。いいえお父様。私、お会いします。申し訳ありませんでした」
静かに項垂れてアンビカは父に詫びた。その言葉を聞いた侯爵は安堵の息を漏らしたが、その表情は寂しそうなままだった。父も娘に無理を課していることを良く分かってはいるのだ。侯爵は愛しい娘の頭にその大きな手をそっと載せ、優しく撫でてから席を立った。
***
翌日、空いた時間にあの映画館の前で暫く待っていたが、勿論あの青年の姿はなかった。当日約束をふいにすることが分かっていて、連絡もできない。せめて行けないことを知らせたかった。
結局その日は会うことができず、アンビカはただ帰るしかなかった。
その翌日もやはりアンビカは映画館の前にいた。チケット売り場の太った女性に青年のことを聞いても彼女は知らないという。もう夕暮れも近い。これ以上は待てなかった。
アンビカは自分の名刺の裏に何か書いて、その女性に託した。
「明日、さっき言ったその青年が人を待って立ってると思うの。これ、渡してくれない?」
名刺の裏には謝罪の言葉と、また機会を改めて会いたいというメッセージを書き綴っておいた。
不思議そうな顔はしたが、女性は快く受け取ってチケット売り場の内側の壁に貼り付けてくれた。少しほっとして、ふと街並みに目をやる。こうしている時にもあの青年はこの街のどこかにいるのだろうか。
そう思ったとき、アンビカは受付の女性に声を掛けていた。
「ね、ごめんなさい。さっきの名刺……返して」
女性は再び不思議そうな顔をして、一度は壁に貼ったカードをアンビカに手渡した。
アンビカはそれをびりびりと千切って、チケット売り場のゴミ箱に投げ入れた。
「これを渡す代わりに、こう伝えて。……やっぱり縁がなかったみたい、ってね」
そうして早足で映画館を後にした。
「馬鹿ね……私。何を期待しているのかしら」
腹立たしげにアンビカはそう小さく呟いた。自分はあの青年のことを確実に意識し始めている。どこからともなく現れて、自分の悩みを取り去ってくれそうな目をして微笑む青年。
しかし一方で自分はリシュアとの付き合いも続いている。そしてまた今度は、父の命令とはいえ将来夫になるかもしれない相手と会う約束もしているのだ。
そんな都合のいい選択をする自分に、嫌気が差していた。いい加減に目を覚まして、現実と向き合うべき時なのだと自分に言い聞かせた。
夕暮れの中、アンビカはバス乗り場に立って、俯いたまま足元に舞ってきた落ち葉をそっと足で踏んだ。
かさりと乾いた音がして、黄色い落ち葉は粉々になり風に飛ばされていった。
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