第16話 二人きりの部屋

 いつもは真っ直ぐ部屋の前に行くのだが、なんとなく今日は気が引けていた。

 お茶会の時の失言がその理由だ。何気ない言葉で司祭を傷つけてしまった。もしかすると自分に会うのを嫌がるのではないか。そんな不安が頭を過ぎる。


 少し迷った後、リシュアは司祭の部屋の廊下の手前にある大広間で足を止めた。以前はここで硬く鍵を掛けられていたドア。今は自由に行き来できるようになっている。大広間の隅に司祭の部屋へ通じる内線電話がある。久しぶりにリシュアはそのボタンを押した。


「……はい?」


 予想以上に電話に出るのが早く、リシュアは思わず姿勢を正した。


 「あ、あの、司祭様。カスロサ中尉です」


 堅苦しく名乗ると、受話器の向こうで息を呑むような緊張が感じられた。


「……ああ、はい。どうなさいました?」

「ええと、先程は申し訳ありませんでした。その、失礼をお詫びしたくて……」


 返ってきたのは沈黙だった。リシュアは言葉を続けるべきかどうか迷ったままやはり沈黙を守った。


「どうぞ、お入りください」


 少しの間を置いて司祭が答えた。リシュアは少しほっとして受話器を置いて部屋の前へと歩を進めた。

 

 ノックをすると、すぐにドアが開いた。その瞬間、鼻腔をくすぐる香りが部屋から漏れてきた。


「……何の香りですか?」


 思わず、挨拶の前にそう聞いていた。司祭は微笑んで部屋へとリシュアを招き入れ、テーブルの上を指差した。


「新年のお祝いに焚く御香を選んでいたところです」


 見ればテーブルの上には小さな小包と、白煙を上げる香炉が置いてある。


「特別な時ですから、いつもとは違うものを焚くようにしているのですよ」


 確かにいつもの甘い香りとは違い、どちらかと言えば荘厳なイメージのする香りだった。


「……それで、その。お詫びというのは?」


 司祭は小首を傾げてリシュアを見上げた。


「あの、その。先程は鳥の話を迂闊に申しまして……」

 

 言いにくそうにぼそぼそとそこまで言うと、司祭は急に顔を綻ばせた。


「ああ、そのことでしたか。いいえ、気にしてなどおりませんよ。気遣って下さって有難うございます」


 そう言って司祭はくすりと笑った。


「あの電話で神妙なお声を掛けられましたので、何事かが起きたのかと驚きました」


 屈託のない笑みを見つめ、リシュアは一気に肩の力が抜けたような気がした。吸い寄せられるように近付き、司祭をそっと抱き締めた。


「……中尉さん?」


 少し戸惑うような声が間近で聞こえる。


「すみません。少しこうしていてもいいですか?」


 司祭からは、部屋のものとは違ういつもの甘い香の香りがする。それを思い切り吸い込んで、リシュアは抱き締めた手に力を込めた。


 全ての醜い感情が体から消えていくような気がした。心が穏やかになってくる。

 こうしてみると、先程実家で怒りを振りまいてきたことが、酷く愚かしい行為だったような気がしてくる。抱いていた腕をそっと下ろして司祭の顔を覗き込む。


「司祭様はお強い方ですね」


 両親の死、長年の軟禁、自分を傷つける不用意な言葉。そういう全てを微笑みで拭い去ってしまう。

 それに比べて自分は……。そう思うとリシュアの心は真っ黒な自己嫌悪で埋め尽くされるようだった。


「強くなど……。私はいつも皆に支えてもらっているだけです」


 司祭ははにかむように微笑んで、そっとリシュアの胸に頭を預けた。


「中尉さんにもいつも助けられていますよ。有難うございます」


 リシュアの胸に熱い想いがこみ上げてくる。愛しい人が今自分の目の前にいるという幸せを、改めて噛み締めた。


「私が何か少しでもお役に立っているなら嬉しい限りです」


 それは本心だった。何かしてあげたいとは思っても、司祭に対して出来ることは少ない。それがいつも歯痒く思えるのだ。


 司祭はその言葉に答えるように顔を上げて微笑んだ。リシュアも微笑みを返すと、静かに顔を近づける。司祭が目を閉じた。リシュアは静かに額にキスをした。顔を寄せ軽く触れるだけ。挨拶程度とも言うべき軽いキス。今まで寺院に閉じ込められていて恋愛経験の全くない司祭に対してはそれが精一杯だった。



 ふと、リシュアは思い立って司祭の顔を両手で包んだ。驚いたような司祭が体を急に固くする。リシュアはすぐに止めて手を離した。


「すみません。お嫌でしたか?」


 小さく囁くと、司祭は赤くなって俯いたまま小さく首を横に振った。

 その仕草に安心したように再び頬に触れ、そのまま栗色の髪を指ですいた。司祭は体を固くしたままで、右手でリシュアの腕をぎゅっと掴んでいる。

 そんな様子が実に可愛らしいと思いつつも、リシュア自身も胸が高鳴っているのを感じていた。


「愛していますよ」


 赤くなった耳元にリシュアはそっと囁いた。今までは軽々しく口にしなかった言葉が、今は心の底から何度でも言いたいと思える。


「有難うございます」


 司祭はうつむき小さく返す。同じ言葉が返ってこないことがやや物足りなくもあったが、急ぐことはないと一方で思う。時間ならまだいくらでもある。急ぎすぎて失うことだけは避けたかった。


 リシュアの腕を掴んだまま司祭は動かない。リシュアもまだ司祭を離すつもりはなかった。

 今度は思い切ってその唇にキスをしようと、鼻が触れる距離まで顔を近づけた。



 その時、ジリリ、とどこかで音がした。

 司祭ははっと弾かれたようにリシュアから体を離す。名残惜しい手が司祭のローブの袖に触れて、離れた。

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