蒸奇探偵・闢光

下村智恵理

0.帝都東京 上野不忍通り裏 午後〇時五〇分

 光の差さぬ街角に、蒸奇の唸りが木霊する。翠の光が舞うところ、知ること能わぬ力あり。

 息を切らして走る男、名をさかき貴利たかとし。右腕に龍の入れ墨をした彼は、龍より恐るべき獣がそこに潜んでいるかのような音を聞く。

 ごうん、ごうん。

 ごうん、ごうん。

 正しくはヴィルヘルム式オルゴン・スチーム・エンジンという。閉じ込めた光から天地開闢の力を借り受け、人が解き明かした数多の法則を超える現象を引き起こすその機関から、光が失われることはない。炊事、洗濯、交通、物流、果ては算術、占いの類まで、蒸奇は帝都にくまなく通う。

 そしてもっと恐るべきものの体内にも。

 ごうん、ごうん。

 ごうん、ごうん。

 遠くに聞こえる警邏車の号笛と、警官たちの怒鳴り声。撃ち合いでとうに弾切れになった拳銃をお守り代わりに握り締め、榊は湿った路地を進む。大通りと大通りを繋ぐ抜け道。苔むした煉瓦張りの壁。足元を薄汚れた野良猫が駆け抜けていく。

 日本で最も多数の人間が集うこの街にも、誰の目も届かない場所がある。建物と建物の隙間から、遥か墨田の中洲に聳える巨大な白い塔が垣間見える。その名も天樹。二五年前、終戦直後の東京に降り立った恒星間航行船である。

 世界を二分した大戦がしかし、はるか昔からこの星に潜んでいたあやかし――宇宙人らによる代理戦争だったのだと暴露されたのは、終戦直後のことだ。戦争を機に発達した技術のどれが宇宙由来で、どれが人類本来の科学力が掴み取った成果なのかは、誰の目にもわからない。

 長い横文字のエンジンが唸れば唸るほど、帝都の空は雲に包まれ、晴天から遠ざかっていく。この重く垂れ込めた空気は人が招いたものなのか、それとも異星の者らがもたらしたものなのか。答えを知る者はいない。

 ごうん、ごうん。

 ごうん、ごうん。

 榊は足を止めた。

 正面に人影を認めたのだ。

 煙の向こうに立ちはだかるその男――地味な着物に詰襟シャツ。薄汚れた袴にねずみ色の帽子。逆台形の黒縁眼鏡が、表情を覆い隠している。

「誰だ、てめえ」

「榊貴利だな」と男が言う。「お前には星団憲章第四条、安全保障に関わる特定該当技術の無許可私的利用の嫌疑がかけられている。同行してもらおう」

「死にたくなきゃ失せな、坊っちゃん」榊はその男に銃を向ける。

「子供のぱちんこにも弾はあるものだよ」

 見透かされていた榊。舌打ちして銃を捨てた。

 そして煙の向こうの男を見た。

 噂に聞いたことがあった。

 上野界隈にねぐらを持つ犯罪者の天敵。影あるところに光あるがごとく、榊のような異星技術を扱う不届き者を人知れず捕える謎の男。

 最近は鳴りを潜めているとも聞いたことがあった。だが眼鏡の下には尋常ならざる眼光。

 ごうん、ごうん。

 ごうん、ごうん。

 地の底か、天の彼方から響く音。

 榊は言った。

「さてはてめえが、蒸奇探偵」

「名乗った試しはないのだがね」口元に笑み。しかし険しいままの目つき。「主は誰だ。お前だけなら、僕が出張るまでもない。憲兵隊や警察に任せるさ。だが……」

「俺の主は、俺だ」

 榊の足元に、誰かが捨てた昨日の新聞がまとわりついた。

「結構な信条だ。実態が伴うのなら」

「天樹の狗は引っ込んでな」

「身の程を知れ、小悪党」

「誰が……」榊は新聞を蹴り飛ばし、右腕の入れ墨と、右手中指の派手な指輪を目の前の男に向けた。「この俺にそんな口を聞いたこと、後悔させてやる」

「最後の警告だ。従わないなら実力を行使する」

「こっちの台詞だ!」

 榊は右手の指輪を天に掲げた。

 薄汚れた路地裏に雷光が閃いた。

 榊の背後で光が屈折し、空間が螺子曲がり、開いた穴から後光のように虹色の光が差す。

 そして現れる、巨大な機械の青い腕。

 続いて這い出す手脚を持つ人型の巨大機械――人呼んで超電装スーパーロボット

 翠の蒸奇が絶え間なく吹き出し、榊の姿を多い隠す。超電装の腹中で稼働し続けるヴィルヘルム式・オルゴン・スチーム・エンジン――またの名を蒸奇機関。宇宙文明との接触がなければ人類未可到のままだっただろう技術の結晶が、建物の煉瓦を崩しながら姿を現す。その右腕にも、主の入れ墨と同じ龍の文様が塗装されていた。

量子倉クアンタ・クロークか」と帽子の男。「人の仕事を増やしやがって。僕は、僕の仕事を増やすやつが何より嫌いなんだよ」

「嫌い同士仲良くしようぜ、探偵さんよ」どこからともなく響く榊の声。

「お断りだ」

「じゃあここで死んでもらうぜ。俺らの〈王子〉のために」

「それもお断りだ」

「なら呼べよ、てめえの黒鋼くろがねを」

「そうさせてもらう」男は帽子を取った。「星鋳物第七号〈闢光〉……鎧よ、来たれ!」

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