2.招かれざる客

 明る日の午前。早坂あかりは怒り心頭に達していた。

「いつになったら帰ってくるんですか、うちの先生は!」

「昔のご依頼人の結婚式だっけ? どうせ浮かれて無理して呑んで、〈シルビヰ〉の床でひっくり返ってんだろ」

 そう応じたのは、〈純喫茶・熊猫〉の主の妻、大熊雪枝である。

 まだ午前中だが、店内は賑わっている。それもそのはず、配管に寄生した活力生命体・フレイマーのおかげで、この店は真夏の熱気が嘘のように涼しい。それが珈琲以上に評判となり、朝が早くこの時間にはもうひと仕事終えている市場の人々がこぞって訪れるのだ。もちろん、その中には地下で星外品の珍妙な食材や香辛料を取り扱う外人たちも多い。

 しかし、今日の相場や数千光年先の諍いを肴に大いに賑やかな彼らが遠巻きにし、話しかけようとしない客が、ひとりだけいた。

 窓際の席に朝からひとり。もう珈琲は三杯目だ。黒い洋装はシャツまで暗い灰色で、年の頃は四〇を少し過ぎたくらいか。髪には白髪の房が混じっている。時折、席を立っては店の電話を借りる。話す相手は仕事の部下のようだったが、言葉は穏やかなのにいやに冷たい声音だった。相手を人間ではなく機械か何かのように思っているかのような。

 その男から最初に注文を取ったのは、学校が夏季休暇になり、制服の色違いのような女学生らしい簡着物の和風装に白い洋風の前掛けをつけて給仕に立っていたあかりだった。他の客は、あかりを見れば何事か世間話を仕掛けてくる。しかしその男は、あかりを前にしても表情すら変えなかった。一瞬、首から提げた、特級異星言語翻訳師リンガフランカーの証たるヘドロン飾りに目を留めたような気がしたが、それも怪しい。

 そして最初の一杯を運んでいった時、その男はこう言った。

「伊瀬新九郎はいるか」

「……ご依頼ですか? 今は不在ですが、すぐに戻ると思いますので、よろしければ二階でお待ちくだされば」とあかりが応じると、

「違う」と冷たく言い放つ。そして「ここで待つ」と告げたきり、黙る。

 そして時間だけが過ぎる。

「いっそ追い出しちまおうか」と雪枝が物騒なことを呟く。「ずっと座ってられたんじゃ迷惑だ。新九郎のやつも、いつ戻るかわからんし……」

「でも、ちゃんと注文はしてくださってます」

「だよねえ」手元では食器を洗いつつ、雪枝はカウンターでじっとサイフォンを眺めている店主に言った。「ちょっとあんた。知らんぷりしてないで、なんとかしとくれよ」

「いやあ、俺はよしといた方がいいと思うぜえ、雪枝さん」その大熊武志は、ロイド眼鏡を上げ下げしながら落ちる珈琲の雫を観察している。彼がそうするのは、他の難題から目を背ける時と決まっている。「ありゃ北條のお人だ。好きにさせときな」

「北條って……北條財閥のですか?」

「背広の襟。三ツ鱗の紋を着けてたろ」

 正三角形を三個積み上げて正三角形を作ったような三ツ鱗は、この国の政財界に絶大な影響力を持つ巨大企業体である、北條財閥の紋章だ。幸か不幸か、あかりはその当主の孫娘と女学校を通じて親交がある。気取らない性格だが育ちの良さが溢れ出してしまっている彼女のような人のために、最近では天然ボケという言葉があるらしい。

 しかし、その北條財閥の人間が、一体伊瀬新九郎になんの用があるのか。よもや天然ボケではあるまい。

 そういえば、とあかりは思い出す。

 鬼灯探偵事務所にも、一応紋章のようなものがある。二階の事務所入口に立てかけられている看板には、ちょうど北條の三ツ鱗を天地逆にしたようなものが描かれている。主が操る〈闢光クラウドバスター〉の、鞭のようにしなる光線を発射する額の宝玉にも同じ意匠が隠されている。

「それにしても武志どのはお客様のことをよくご覧になっておられる」

 その声の主は壁に磔の刑に処されている。呂場ろば鳥守とりのかみ理久之進りくのしんである。先日の戦いで首から下を失い、その代わりに蜘蛛のような機械の足を取りつけられた彼だったが、その姿があまりにも不気味で客に不評だった。そして業を煮やした雪枝の手により、哀れにも壁に五寸釘で打ちつけられてしまったのである。

 そして壁に打ちつけられた足の生えた機械の生首の足元では、猫のマサムネが必死に前脚を伸ばしている。お気に入りの玩具だった理久之進が恋しいようだったが、雪枝は旦那にも猫にも甘くなかった。

「悪いねえ、ロバちゃん」ようやく武志がサイフォンから目を上げる。「おだてられても降ろしてはやれねえ。雪枝さんに頼んでくれ」

 雪枝が鋭い目で壁を睨む。「駄目。首から下が届くまで」

「後生です、奥方……」

「駄目なものは駄目だよ」

彩子さいこさんのところ、結構忙しいみたいだしねえ」と武志。「もうしばらくあかりちゃん頼みだ。新九郎の方が暇な間だけで構わんからさ」

「はい。それはもう。わたしでよければ」

「課題はよろしいのか、早坂どの」とまた壁の生首が言う。

「それはいいの」

「苦手な問題から目を背けるのは感心いたしませぬぞ。拙者は背けることすらできぬ身でござるが……」

「わたしは職業婦人だから。家政の評点がちょっと低いくらい別にいいの」

「学年最低とフレイマーのたわけが嘆いておるのです。あの火め、なぜか自分のせいだと悄気げている」

「いいやつなのさ、フレイマーちゃんは」また珈琲を見つめる武志。「人類は彼の後ろ向きさを見習うべきだね」

「上女は良妻賢母を育てるってのが校風だからねえ」と雪枝。「昔は、大学に行くってだけでも大騒ぎだったんだよ。あたしのことだけど」

「卒業生だったんですか?」

「まあね。まあ巡り巡って今じゃ良妻だし、きっと先生方も今のあたしを見れば鼻が高かろうさ」

「良妻……」何か言いたげな武志はそれだけ呟くと、仕上がった珈琲を手に、給仕のあかりの仕事を奪ってさっさと客席へと向かう。

「そういえば、雪枝さんは、お子さんとかは」

「そのうちね。もうちょっとあれが頼れる男になったら、かな」

「楽しみです」

「あたしの話はいいからさあ」手をひらひらと振る雪枝。「あかりちゃんもさあお年頃なんだから、色恋話のひとつくらいないの? ほらほら、どうせあんだろう?」

「な、ないですよ。そんなの」

「じゃあ、好きな異性のタイプは」

「そうですねえ……」あかりは腕組みになる。三日前に、級友のおケイちゃんこと田村景から借りた軽妙小説の内容を思い出しつつ応じる。「財閥の御曹司とか」

「そりゃまた」

「あ、でも長男は嫌です。長男以外か……落し胤なんてのもいいなあ。やっぱりお金ですよ。お金持ちだけどそれを鼻にかけず、家のしがらみから自由で庶民の感性が理解できる人で……あ、わたしは結婚してもお仕事は続けたいので、家庭を守れって人は駄目ですね。都会育ちで、保守的じゃない人。あとお酒と煙草はほどほどで、賭け事と女郎屋は絶対駄目です」

「わかった、わかったから」苦笑いの雪枝。「それじゃあ、外見とかは……」

「そうですねえ。洋装の似合う背の高い人が好きです。あとあと、テレビとか観てるとわたし、彫りの深い陰影のある顔立ちに弱くって……あ、これ言っちゃ駄目ですよ。絶対黙っててください」

「わかった、わかったから、あんたが自分の考えをしっかり持ってる子だってことはわかったから」

「そんなことないですよお。さすがに御曹司は、ちょーっと、ちょっとだけ、望み過ぎかなあって思いますけど」

「あかりちゃんなら引く手数多……。おっと、家主様、ようやくご帰還みたいだねえ」

 雪枝が顎で示す先。

 黄色い円車が停まっていた。

 のそり、と縦に長過ぎる身体で降りてきたのは、伊瀬新九郎である。そして車内から、黒いレースの手袋に包まれた女の手が、くたびれた帽子を差し出していた。

 新九郎はその帽子を受け取って被り、身を屈めて後部座席を覗き込む。すると、車内からも女の横顔が現れる。ふたりの唇が軽く重なる。もう百万回もそうしたかのように。相手は紅緒だった。

「あー、なるほど」客席から戻った武志が言った。「例の女王サマ相手じゃ、分が悪い」

「どうかと思うけどねえ……」と雪枝。「新九郎の阿呆が、はっきりしないからさあ。それこそいっそ、子供でもできりゃあ……」

「人様のことに滅多なこと言うもんじゃねえ」呟くように武志が応じる。

 扉の呼鈴が鳴る。円車を見送った新九郎が入ってきたところだった。

「やあやあ諸君、恙ないかね?」

「随分ご機嫌だこと」と雪枝。

「客が来てるぜ」と武志。

「客? 人間か? 外人か? 早坂くん、相手の言葉は……」

「いえ、先生。そちらにいらっしゃいます」あかりは掌で客席の男を示した。

 男は立ち上がっていた。

 ほつれた髪を軽く撫でつけ、ネクタイをくいと締める。冷たい目が新九郎を睨む。

 その目線を受け止めたまま、新九郎は言った。

「武志。なぜこんな野郎に敷居を跨がせた」

「……ま、そう言うだろうと思ったけどさ」肩を竦める武志。

「早坂くん、塩を持ってきなさい」

「塩!?」

「ちょいと新九郎、お客様だよ!」

 呆れと驚き半々のあかりと眉を寄せる雪枝を、新九郎は手だけ挙げて制する。目線は男から外さないままだった。

「阿部直秀。いや、今は北條だったか」新九郎は鼻を鳴らす。「出世したと聞いてるよ。重工の頭となれば、北條の顔。あんたのような人が、こんな汚いところに、一体なんの用だ」

「支度をしろ、伊瀬新九郎。父上がお呼びだ」

「あんたの父親じゃないだろう。僕もあのクソ野郎を、父と思ったことはない」

「支度をしろと言った」

「断る。生憎と、昨夜は頑張りすぎてね。腰が痛いんだ」

「断るなら」阿部直秀、あるいは北條直秀という男は口の端だけで笑った。「君はある少女の心を深く傷つけることになる」

 新九郎の拳がカウンターを叩いた。

 落下しそうになったグラスを慌てて武志が抑え、倒れた価格表を前に雪枝がため息をつく。

「あんたの娘のことか」

「ああ。確か……」そこで男はあかりの方を見た。「そのお嬢さんと随分仲良くしてもらっているらしい」

「貴様」

「支度をしろ」

 気色ばむ新九郎を一喝するように、男は紙幣を机に置いた。

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