4.真昼に眠る

 〈純喫茶・熊猫〉と鬼灯探偵事務所に訪問者が現れたのは、学校へ向かうあかりが出立してしばらく経ち、室内をうろうろしている道楽探偵を朝の客相手に忙しい大熊夫妻が煩そうに追い払う、いつもの午前一〇時四五分のことだった。

 隙のない英国式の洋装に身を固めた、頭が銀時計の男である。通称クロックマン。そして彼が一〇時四五分に現れるのは、〈闢光〉が稼働した翌日である。

 その銀時計を認めて片眉を上げた伊瀬新九郎はといえば、建物の家主であることを笠に着ていつものように珈琲をせしめ、仕事場のある二階ではなく敢えて一階の客席を占拠。好みの通俗小説を片手に、呑気な午前を過ごしているところだった。

 クロックマンに対して、いち私人としては悪感情を持っているわけではない新九郎。だがクロックマンは、午前中と日曜日は仕事をしないという新九郎の主義を知って尚、午前一〇時四五分に現れる。彼の時間に正確だが融通が利かないところを、新九郎は嫌悪しているのである。

 まして、帝都は平和で〈闢光〉は出動していない。

 だがクロックマンは、「一体何事だい」と問う新九郎に、開口一番、「〈闢光クラウドバスター〉が動いた」と言った。

「昨日の深夜です。量子倉クアンタ・クローク内の〈闢光〉のヴィルヘルム式オルゴン・スチーム・エンジンに火が入りました。しかし、星鋳物の出動を要するような事態をこちらでは確認できておりません。六号監視官が説明を求めています」

 椅子から腰も上げずに新九郎は応じる。「説明?」

「ええ。端的に言いましょう。あなたには、星鋳物の私的濫用の嫌疑がかけられている」

「参ったな。僕はこれでも、帝都東京の平和のために身を粉にして働いてきたつもりなのだが」

「存じています」銀時計の頭部が前へと少し傾く。「しかし、星団評議会も一枚岩ではない。あなた、いえ、地球人類に星鋳物を与えることを、快く思わない派閥もあります」

「僕が気に入らないわけではない。安心したよ」

「就任の経緯もあってのことでしょう、監視官はあなたに肩入れしている。評議会であなたを弁護するための材料が欲しいのです」

「と、言われてもね」新九郎は煙草を一本取り出し、火を点ける。「僕にもさっぱりわからない。どうもこのところ、同じことを言ってばかりだ」

「その言い様。心当たりはおありのようですね」

「ああ。しかし、しかしね」

「また何か隠して、我の筋を通すおつもりですか。信頼の土壌に秘密主義は毒ですよ」

「今回はそういうつもりはない。……掛けたらどうだい?」

「今回は、ね」クロックマンの長針が小刻みに逆行し、文字盤が給仕服で澄ましているルーラ壱式小電装、自称・呂場鳥守理久之進ろばとりのかみりくのしんの方を向く。

「杓子定規はあなたの悪いところだ。そのなりではいい加減に振る舞う方が難しそうだが」

「生まれついてのものですので」白手袋の手が自分のネジを回し、新九郎の向かいに腰を下ろした。「して、あなたの心当たりは?」

「信じてもらえるかどうか」新九郎は煙を吐いて言った。「夢だ」

「夢?」

「ああ。僕は夢の中で、〈闢光〉を動かした」

「それはまた。寝ぼけているのか?」

「至って真面目だ。助手のおかげで目も冴えている。だから、わからんと言ったんだ」

「しかし現実に〈闢光〉は起動しました。蒸奇技官の報告では、左腕部に損傷まである」

「厄介な怪獣でね。どう始末をつけようか、今も考えている」

「あなたは夢の中で怪獣と戦った。その損傷が、現実世界の〈闢光〉に現れた」

「かいつまむと、そうなるね」新九郎は煙草を吹かす。漂う煙が一瞬、目の前の時計男の姿を隠した。「僕としては、監視官への報告は少し待って欲しい」

「なぜです。あなたの言葉を信じるなら、相当の異常事態だ。即報告すべきです。あなた自身の口から」

「しかし彼が僕と直接話せるのは、七日につき三分間だろう」

「事態は終息していないと?」

「紅色怪獣も健在だしね」

「その名。紅色怪獣グリムザン。〈闢光〉の電子運転簿のひとつに記録があった」

「まだ倒してないんだよ。だから少なくとも、もう一度ある。そして」新九郎は煙草を灰皿に押し当てる。「一体だけとは限らない」

「事態は我々が考えていたより深刻なようだ」クロックマンは機械の給仕に片手を挙げる。

「ああ。出動間隔の問題もあるのだろう。今日、寝てみないことにはわからないが……というかあなた、珈琲など飲むのか」

「席を占領しているだけでは申し訳ないのでね。……熊猫ブレンドを、ホットで」

「畏まりまして候」理久之進が一礼してカウンターへと歩いていく。

「そう、出動間隔です、スターダスター」クロックマンは人間の上体と時計の頭をテーブルの上に乗り出す。「連日連夜の出動となると、外装はともかく中のご遺体が崩壊します。星鋳物第三の弱点です」

「それは知っているが、具体的には何回、何日間、何時間なんだ」

「あなたの知り及ぶところではない」

「僕が世界征服の段取りを立てるからか?」

「規則ですので」クロックマンは椅子に背を預ける。「地球を滅ぼすくらいなら容易ですが」

「つまり連続稼働時間の問題ではなく、短期間での起動と終了を繰り返すと、〈奇跡の一族〉の骸に高負荷がかかるというわけか」新九郎は二本目の煙草に火を点ける。「敵がそれを知っている可能性は?」

「敵、とは?」

「わからん。しかし僕は昨夜夢を見た。そして昨日この街に現れたものといえば」

「紫の毒雲、ですね」

 新九郎は夢を見た。その夢は現実の一部だった。そして現実の一部となるような奇妙な夢を新九郎が見た直前、謎の雲が帝都上空に現れた。無関係だと考える方が馬鹿げている。

 即ち、かの雲は、地球侵略を目的としている可能性がある。

 互いに押し黙っていると、理久之進が銀色の盆を持って現れる。

「熊猫ブレンドでござる」

 クロックマンは、自身の前に置かれようとしたカップを手で遮る。「そちらの先生に」

「飲まないのか」

「この身体のどこから飲むと?」

「確かに」と新九郎。「奢りか。これはありがたい」

「しかし君は、この暑いのに熱い珈琲を飲むのか」

「主義のひとつだよ。珈琲は熱いものに限る」早速口をつける新九郎。「うん。美味い。やはり珈琲はこの店のものに限る。熱く、薫りがよく、キレがよく、何より事務所から近い」

「そういうのは金払ってから言いやがれ」カウンターから色つき丸眼鏡の店主・大熊武志が悪態を投げる。

「……いいでしょう」とクロックマンが言った。「数日はあなたにお任せします。いずれにせよ、これが何らかの地球への攻撃であるとすれば、あなたの裁量内で解決されなければならない」

「僕の弁護とやらは?」

「現状の星鋳物運用を肯定する派閥の方が評議会では多数派です。我が主は不利な立場に追い込まれるかもしれませんが……」

「新九郎どの」理久之進が合成音で口を挟んだ。「何か来ます」

 新九郎はまだ長い煙草の火を消した。「危険か」

「飛行車が一台」

 耳に手を当てている理久之進。配管からそろそろと様子を窺うように炎が一筋現れる。

「武装は?」

「拳銃が一挺。ですが、これは……」

 その時、店の軒先に理久之進の言葉通りに白塗りの飛行車が急停車した。

 クロックマンが腰を浮かしかけるのを、新九郎が制した。知っている車だった。

 果たして車内から現れる黒ずくめの洋装の大男。

 〈紅山楼〉の運転手だ。

 そして後部座席から、こざっぱりしたおかっぱに赤い縮緬の広袖の少女が現れる。これも〈紅山楼〉の禿かむろ、紗知である。

 運転手が店の扉を開けると、その紗知が小走りで新九郎に駆け寄ってくる。

「新九郎さま」両手を揃えて頭を下げる。「急に参りまして、申し訳ございません」

「どうしたんだい。紅緒さん……女将に頼んでいた調査なら、期限は明日と切っていたはずだが」

「その女将です」と紗知。「お目覚めにならないのです」

「目覚めない?」

「はい。昨夜からずっとお休みになったまま、揺すっても叩いてもお目覚めにならないのです」

 新九郎はクロックマンを顔を見合わせる。

「詳しいお話を伺えますか」とクロックマンが言った。


 ひとりだけでも空間を飛び越えたがるクロックマンを車に押し込め、新九郎は紗知とともに〈紅山楼〉へ向かった。

 唐破風の瓦を落とさんばかりに飛び出して出迎えたのは、番頭の粂八老人だった。

「おお、先生。よくいらしてくださいました」

「医者は」

「呼びましたが、わからんの一点張りで」

「聞いたような台詞ですね」とクロックマンが口を挟む。

 帽子を取って暖簾を潜り、不安げな遊女らや男衆に声をかけつつ、奥座敷に上がる。

 車内で紗知が語った通りの状態だった。

 無数の金魚が泳ぐ部屋に布団が敷かれ、吉原の女王が滾々と眠っていた。紅緒さん、と名を呼び、頬を叩いても、目を覚ます気配はない。

 枕元に腰を下ろし、顔にかかった髪を払ってやる。白い顔に、苦しみの色は見えなかった。まるでいい夢でも見ているかのようだった。

 夢。

 新九郎は丸窓から外を窺う。遠くに紫の雲が見える。

「昨夜の様子は?」

「いつも通りでした」と紗知が応じた。声は震えていたが、言葉ははっきりしていた。「お姐さんたちへの気遣いも、法被衆をお叱りになるのも、新九郎さまの愚痴も、いつも通りでした」

「一応、みなに訊いておこう。もしかしたら、何か気づいた人がいるかもしれない」

 新九郎は一度階下へ降り、遊女や男衆、厨房の料理人まで捕まえて話を聞いた。

 見世を離れれば隠密衆として活動する者。紅緒に恩義のある板前。以前飼っていた猫を探してやったことがある遊女。新九郎を一〇代の時から知る古株の会計役に、新九郎の母を姉と慕っていた女衒。それぞれに年若いが訳ありの禿たち。みな昨日の内に一度は紅緒と言葉を交わしており、それが紅緒がいかに下の者たちに気を配っているかの証でもあった。しかし、全員が口を揃える。

「いつも通りの女将でした。一体どうしてこんなことに……」

 変わった答えをしたのは、大店〈紅山楼〉に咲き誇る花々の頂点をひらひらと漂う、一番人気の揚羽くらいのものだった。

「すごぉく熱心に金魚さんを眺めてはりましたよ。たぁくさんいるのに、その一匹だけ」

「それはいつ?」

「先生が帰られた、すぐ後でしたねえ」と応じ、「すぐ後どす」と言い直す。

 その一匹には心当たりがあった。かつて、まだ伊瀬新九郎が少年で、紅緒が紅緒と名乗る前のことだ。

 昔のこと。

 思い出すべきではないこと。

 改めて紅緒の枕元に戻った時には、遠くで正午の鐘が鳴っていた。

「先生からご依頼のありました調査については、我々隠密衆の方で進めております」と粂八老人が言った。「期日通り、明日にはご報告できるかと」

「急ぐことはありません。女将の方が先決です」

「そうおっしゃっていただけるとありがたく存じます」ただでさえ腰が曲がって低い頭をさらに下げる粂八老人。「みな動揺しております。これは、宇宙の病か何かではないかと」

「病、ね」新九郎は室内に向き直る。「どう思う、クロックマン」

「私に訊くということは、あなたの中では答えが出ているということだ。違いますか」

「違わない」新九郎は肩を竦める。「あの雲の仕業でしょう」

「同意します。昨日の今日です。無関係とは考えられない。あなたの夢の件もある」

「紅緒さんとは、あれが生き物かもしれないという話をした」新九郎は、眠り続ける紅緒の布団を直して言った。「生き物なら、何かを食っているとも」

「ではあれは生き物で、人の夢を食っているとでも?」

「夢魔や獏の類のように、ね」新九郎は煙草を取り出しかけ、思い留まって懐へ収める。「悪夢を食ってくれる善玉のあやかしならいい。だが、精神活動そのものを食い物にする怪物だとすると、これは厄介だぞ。証拠の集めようがない。〈闢光〉で蹴散らそうにも、出動の根拠はどうする?」

「一応申し上げますが、侵略の確証がない状態で〈闢光〉を動かせば、評議会はあなたへの星鋳物私的濫用の疑いを強めることになります」

「相変わらず杓子定規だな、君は。やる気あるのか」

「そう思うなら今すぐ〈闢光〉をお呼びになるといい」

「加えて今日は意地悪だ」

「意地悪で言っているつもりはありませんよ。事態を収拾していただきたいという思いは、我々もあなたと同じです」

 わかっているよ、と新九郎は応じる。

 予防的な出動は特定侵略行為等監視取締官ではなく、星団評議会直属の平和維持軍の管轄である。新九郎の裏稼業は、身分や活動の自由度と引き換えに実力行使の制約が大きいのである。

 超電装など繰り出さずに済むならそれに越したことはない。

 さてどうするか。

 考え込んでいると、鈴の音が聞こえた。

 仕事に戻っていたはずの紗知だった。

「警察の方から、新九郎さまにお電話です」

 紗知、粂八、クロックマン。三者三様の人々とともに再び階下へ。

 新九郎は、法被の男から黒電話を受け取る。

「よお、伊瀬の。事務所に掛けたんだが、あの怪しい眼鏡にお前さんは〈紅山楼〉だと言われてな」

「財前さん」と新九郎。「火急のことですか」

「ああ。集団昏睡だ」

「集団?」

 電話口の警視庁刑事部異星犯罪対策課長・財前剛太郎は、重苦しいが早口で言った。「おうよ。わかっているだけで三二名。住まいも生業もばらばら。共通点のまるでない男たちが、今朝から昏睡状態に陥り目を覚まさない」

「紅緒さんだけではなかったのか」

「女将? まさか……」

「ええ。こちらでも、女将が同じように目を覚まさない」

「一度話そう。出てこられるか?」

「ええ。すぐに行きます」新九郎は不安げな一同を見回して応じた。「ネタを合わせましょう。どうやらまた、地球の平和が危ういようです」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る