5.焔と氷

 番台で新九郎が電話を使う間にぽつねんと待っていると、先程案内に立ってくれた紗知という少女があかりに近づいてきて言った。

「あの……翻訳師さまというのは、本当なのですか?」

「さまだなんて、そんな」思わず赤面して応じる。故郷で資格を取った時も、帝都へ降り立ってから今までも、こうも素直な尊敬の目を向けられたのは初めてだった。「紗知さん、でしたよね。えっと……」

「紅緒さまのお遣いと、姉さん方についてお勉強させていただいてます」

 また深々と折り目正しいお辞儀。あかりもお辞儀を返す。「早坂あかり。この通り、異星言語翻訳師で……」あかりは胸元からヘドロン飾りを見せて、すぐに収める。「鬼灯探偵事務所で働かせてもらうつもりで、今朝上京してきたんですけど……」

「依子さんが亡くなられてから、界隈の異人さん、みんなお困りで……」

「亡くなった? 依子さんって、栗山くりやま依子よりこさん?」

「ええ。三年前です。ご存じないのですか?」

 初耳だった。

 栗山依子。かつて鬼灯探偵事務所に勤めていた異星言語翻訳師。きっと伊瀬新九郎の同僚。看板を降ろしたという話と、そして今の伊瀬新九郎の謎めいた稼業と、何か関係があるのだろうか。そう思いを巡らせると、いやに柔らかいものが後頭部に触れた。

「なぬ!?」

「新さんってば罪なお人ねえ。せーっかくこんな可愛い翻訳師さんが来てくれたってのに、なーんにも話してないんだから」

 頭上から、婀娜っぽいきゃらきゃらした声。当たっているのは、豊満な乳房だ。振りほどけば、そこには背を覆うほどの長い黒髪を下ろした女がいた。たわわな胸元を大きく開いた黒い着物には、揚羽蝶の羽の模様。組紐の髪飾りは、やはり蝶を象っていた。

 遊女だ。本物を見るのは初めてだった。

 だが聞いていたのとは少し違う。髪も結っていないし、白粉もつけていない。それはそれとして胸の谷間に目を釘付けにされていると、その女は「いやん」と声を上げて手で胸を隠した。

揚羽あげはどすー。よろしゅうお頼み申すどすー」

 紗知が据わった声で言った。「姐さん、その変な京言葉、やめてください。わたしの教育に悪いです」

「えー、うちは進歩的な遊女やし?」顎先に人差し指を当てて得意気な揚羽。「でねー、あかりちゃん。気になると思うけど、新さんのこと、あんまり詮索せんといたってな?」

「詮索って、わたし、そんなつもりは……」

「栗山は仕事で使うてた旧姓。本名は伊瀬依子」揚羽はあかりに顔を寄せた。「新さんはね、仕事の相棒でもあった奥さんを亡くしとんのよ」

「そんなこと……」

 聞いていない。

 超電装同士の戦いから救ってくれた名前も知らない少年は、もういないと言っていた。

 純喫茶・熊猫の夫妻は、求人票と記事に添えられた栗山依子の写真を見ても、何も言わなかった。

「当時はそれはそれは塞いでおられました」と紗知。「でも姐さん方ったらみんな、『伊瀬の旦那を落とすなら今だ』って息巻いて」

「ここだけの話、新さん結構いいところの出だから。いい男だしね」

 冗談が頭に入ってこなかった。「じゃあ、鬼灯探偵事務所が開店休業なのって……」

「翻訳師なしじゃ、異星人専門の看板ははねえ」揚羽の手があかりの頭を撫でる。「あの仏頂面も、本心ではあかりちゃんが来てくれて大喜びしとるはずやわ」

「……帰れって言われました」

「えー、なんでえ」

 そこへ新九郎が戻ってくる。「揚羽さん、あまり彼女に余計なことを吹き込まないで」

「新さんがいけずなさるからやわ」

 眉ひとつ動かさずに新九郎は応じた。「紅緒さんによろしく。……早坂くん、行くよ」

 表では白塗りの車が待っていた。車輪の代わりに多重の筒のようなものが取りついている。隙間から微かに翡翠色の光の粒が散る。新九郎に倣い、あかりも後部座席に乗り込んだ。

 運転手は、先程紅山楼の表で仁王立ちしていた黒洋装の男だった。彼は何も言わずに車を発進させた。

「揚羽というのはね」と新九郎は言った。「あの見世で一番見込まれた遊女に名乗らせる名前なんだ」

「なんとか太夫、ではないのですか?」

 いつの時代だい、と新九郎は笑う。「紅緒さんから数えて三代前から始まった習慣らしい。二階の擬宝珠を見ただろう? あれをつけるのと一緒にね」

「……ってことは揚羽さん、売れっ子なんですか?」

「そういうこと。古式は適当に取り入れるくらいが、いい塩梅なのかもしれないね。何事も」

 あかりは遠ざかる吉原を振り返る。「……なんか、想像もしなかった世界です」

「君は帝都東京と聞いて、何を思い描いてきた?」

 急な問い。それで、伊瀬新九郎の訊きたい本題なのだとわかった。「えっと……お洒落なプロムナードとか」

「他には?」

「流行りの美味しい甘味とか」

「他には」

 姉のことをふと思い出した。「お芝居とか、活動寫眞とか」

「なるほど」

「あ、もちろんですけど、宇宙っぽい何かとか。降りていぎなり地球人でない人ばーりで、ここが帝都なんだって肌身に染みたっていうか」

「僕の……僕と依子さんの仕事はね、そういうこの街の表の顔から、一番遠いところにあった。だから今のうちに、色々見ておいて欲しかった。心変わりするなら早い方がいいから」

「わたし、心変わりなんて、しません」

 そうか、と新九郎は頷く。「この一件が済んだら、そちらも案内するよ」

「そちら?」

「お洒落なプロムナード。流行りの甘味。お芝居。活動寫眞」

「いいんですか!?」

 新九郎は仰け反って応じた。「も、もちろん。僕は今ひとつ苦手だから、雪枝さんか……歳の近い方がいいなら、紗知くんに頼もうか。……早坂くん、近い」

 我知らず身を乗り出して詰め寄っていた。「ご、ごめんなさい、先生」

 車はまた、碁盤の目の市街をひた走っていた。右手を見上げれば環状鉄道の高架が見える。うぐいす色の山手線だ。つい最近、読み方が「やまて」から「やまのて」に変更統一されたばかり。見えたのは、夏場は冷房の入る最新車両だった。

 一方の地上には路面電車が走る。だがこれらは最近敷設された地下鉄に旅客の多くを取られ、赤字状態が続いている。遠からず廃止し、バス輸送に置き換えられるともっぱらの噂だ。

 車はまた上野の駅前へと近づいていた。

「正直言ってね、僕は君の技能を当てにしたいと思っている」新九郎は襟を正す。「細かいことは追って話すが、僕は今、地球侵略を企む異星人らを探し、追い詰め、討つ仕事をしている。だがその多くは、元を探れば些細な誤解や、悪意ある極小数ないし個人に行き当たる。そして僕も、僕の仲間の多くも、ふたつある解決策の一方しか取ることができない」

「一方?」

「戦うこと。そしてもう一方は、対話だ。そして言葉遣い師なくして対話はない。僕の雇用主も、君の参画には賛成するだろう」

「雇用主って……先生のお仕事って、警察みたいなことですよね。誰なんですか?」

「それはまた追々」そう言うと、新九郎は運転席に声を掛ける。「ここでいい。ご苦労でした」

「またのお越しをお待ちしております、伊瀬の旦那」と運転手が言った。彼が初めて発した言葉だった。

 降りた場所は、駅東の、広場の裏手にある通りだった。ガソリン車が通行できない試験高速道路が頭上を塞ぐ。ただでさえ万年曇りで夕陽も差さない街路には、淀んだ空気が満ちていた。

 見回せば、車やオートバイを扱う小さな店や工場が立ち並んでいる。そのうちの一件の前で、新九郎は足を止めた。

 二階建ての一階は鎧戸の降りた車庫。二階が事務所になっている。左横書きの煤けた看板をあかりは読み上げる。

「エフ・アンド・エフ警備保障……」

「花の帝都の裏の顔のひとつさ」と新九郎は言い、錆だらけの外階段を確かな足取りで登る。「この街で一番強い女たちの、住処だよ」

「一体何者なんですか……」

「変わった事情の持ち主でね。ふたりとも幼い頃に、異星人に拉致されて生体兵器にされた。改造人間だ。おかげで生きているだけで星団憲章違反になってしまった苦労人さ」

「だ、大丈夫なんですか」

「奉仕精神に溢れる善人たちだ」と新九郎は即答する。

 だが彼の手が戸を叩こうとした時、扉の中から怒鳴り声が聞こえた。続いて爆発音。隙間から漏れる空気は焦げ臭い。

「……少し気性は荒いが」新九郎は嘆息しつつ、扉を開けた。

 あかりの頭上を火の玉が掠めた。

「俺のもん勝手に掻っ攫うたあいい度胸じゃねえか。どお落とし前つけてくれんだ?」

「そんなに攫われたくないなら名前でも書いておけばよくてよ。沸点が低いのね、お姉さまは」

「んだと脳味噌凍ってんのか」

「お姉さまこそ脳細胞が熱死しているのではなくて?」

 言い争う女がふたり。

 ひとりは真っ赤な短髪。市松模様の襦袢が襟元から覗く橙色の着物だが、よく見れば和服らしく見えるよう飾り加工を施したスカートだ。そして鋲打ちの光る黒革の上着を肩から羽織っている。炎のような橙と、消し炭のような黒。裾には深く切れ込みが入り、薔薇の刺繍の入った長靴下に包まれた脚を惜しげもなく晒す。舌打ちをひとつ。これも燃え盛る炎のような橙色の瞳は、映るもの全てを燃やし尽くすような敵意に満ちていた。

 その右手には巨大な銃のようなものが握られている。拳ほども大きな銃口から立ち上る煙。銃身から銃把へと這う銅色の配管はあろうことか、女の右手に突き刺さっていた。それも二本。親指が撃鉄代わりのような歯車を回し、不穏な金属音が鳴った。

 一方扉に背を向けるもうひとりの女は、骨盤のあたりに届くほど長い銀髪。振り返れば、氷のように冷え切った青い瞳が来訪者を見た。桃色のスカーフの水兵服の上に、百合の花が白く染め抜かれた黒い羽織。濃紺のプリーツスカートは膝上一〇糎ほどの丈だった。足元は足首までの短い靴下に紐なしの学生靴。

 そして左手に提げた、身の丈ほどの日本刀。刀身から柄へと這う銅色の配管はやはり、女の左手にふたつ突き刺さっている。親指が鍔代わりのような歯車を回し、やはり不穏な金属音が鳴った。

 室内には無数の焦げ跡。何もかもが金属製なのはこれを見越してのことなのか。そして焦げ跡と同じくらいの、氷の塊があった。ステンレス製のテーブルの上に霜が走り、東北ではあまり見かけない柑橘が盆の上で凍りついていた。

 新九郎が二度手を叩いた。

「すまない、そこまでにしてくれるか」

「おお、伊瀬の旦那。珍しいじゃねえか」炎の方が銃を下ろした。すると、銅色の配管が女の腕の中へと吸い込まれていく。「今日はどんな用向きだ? 手土産次第じゃ、人でも鋼でも燃してやるぜ」

「急ぎで来たもので、今日はこの通り」両手を挙げる新九郎。「悪いね。今度倍持ってくるよ」

「じゃあ今日は帰んな」

「まあまあ、どうぞお上がりくださいな、先生と可愛いお連れ様」氷の方も刀を鞘に収める。同じくそれが当たり前であるかのように腕の中に吸い込まれている銅管。「冷たいものと温かいもの、どちらがよろしくて?」

「熱湯と氷の二択は勘弁してくれ。すぐに発つ。……仕事の話をしても?」

「その前にそっちのお嬢さんを紹介してくれよ」炎の方は縮こまっているあかりに目を向け、継ぎ接ぎだらけのソファに深く腰を下ろして片膝を上げる。裾を気にする素振りもなかった。「話は聞いてるぜ。特級なんだって?」

 問われ、今日何度目かの自己紹介。炎の方が応じて言った。

二ッ森ふたつもりほむらだ。わけあって手から火が出る。それでこっちが……」

二ッ森ふたつもりこごえですわ」彫像のような微笑みで氷の方が会釈する。胸元のスカーフがふわりと揺れた。「わけあって手から氷が出ますの。不本意ながら、そちらの爆発頭はわたくしの双子の姉です。今後ともご贔屓に」

 炎と氷。焔と凍。装いも化粧もまるで違うが、ふたりは瓜二つの顔をしていた。

「こっちだって不本意だよ」吐き捨てる焔。「それで旦那、急ぎの用ってのは?」

「この街に兵隊を呼び寄せると吹聴するたわけがいてね」新九郎は帽子を取った。「もちろん、阻止するつもりだが、備えは必要だ。だがいけ好かない憲兵や警察の連中に貸しを作りたくはない。そこで君たちの出番だ」

「要は社会奉仕活動だな?」

「その通り。世のため人のために、悪いやつらをぶちのめして欲しい」

「乗ったぜ」焔の指先で巨大な銃がくるりと回った。

「わたくしたち姉妹は公共の福祉のために能力を行使することと引き換えに、自由と生活の保証を政府から受けているの」凍はあかりを見て言い、新九郎へ目線を巡らせて続ける。「わたくしも乗りましたわ。LNLでよろしくて?」

「ああ。いつものようにね」

「あの先生、LNLって……」

 口を挟んだあかりに応じたのは焔だった。

怒られない程度にぶちのめすLegal and Non-Lethal。我らがエフ・アンド・エフ警備保障の信条だ」

 凍が嘆息する。「お姉さまのお気持ちは十分わかりました。それで先生、おところとお時間は?」

「恐らく隅田公園。今夜だ」

「急ですわね。特急料金を頂戴しても?」

「何がいい?」

 凍は目線を少し泳がせてから、破顔して言った。「みはしの葛餅でお願いしますわ」

 すると焔が気色ばむ。「おい凍、それお前さっき食っただろ。俺の分も!」

「頭を使うほど人は黒蜜を必要としますの。お姉さまには関係のない話ですわ」

 銃を構える焔。刀の鯉口を切る凍。あかりの襟を新九郎が引いた。

「逃げるよ、早坂くん。巻き込まれる前に」

「いや、止めましょうよ、止めましょうって」

「いつものことだから。彼女らが食べ物のことで喧嘩するの」

 外階段を降りたところで室内から怒号が聞こえ、凍りついた扉が真っ二つになって吹き飛んだ。続けて通りに面した窓が砕けて火の雨が降る。看板がやけに煤けている理由をあかりは悟った。

「逃げましょう」

「だろう?」帽子を被り直す新九郎。「さて、次は本丸だ」

「本丸?」

 新九郎は深々とため息をついた。

「おそらくこの事態を招いた元凶のひとりに会いに行く。……悪人では、ないのだけどね」

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