4.花街の女王
その運転手は新九郎と馴染みのようだった。頭に白いものが目立つ、楕円の鼈甲眼鏡の男の名前は、
「それで先生、今日はなんだって子連れなんです」
またもそう訊かれ、新九郎は鬱陶しそうに今日限りの見習いを連れているのだと応じる。お仕事体験よりは少し格上になっていた。
稼業の話。やはり原田も、表家業、裏稼業という話を持ち出す。
いやいや、騙されるな、とあかりは自分に言い聞かせる。男前には気をつけろ、と姉も言っていた。それに顔がどうだろうと、人を小娘扱いすることも、一五の娘に構わずどんどん歩いていってしまうことも、そしてこのよくわからない外回りの目的を説明しようともしないところも、何もかもいけ好かない。
「しかしいいんですかい」と運転席の原田が言った。「そんな子供を連れて、よりによって……」
その物言いが癇に障った。あかりは言った。
「どこでも大丈夫です。子供扱いしないでください」
「僕の仕事には欠かせない相手だから。致し方なしさ」と新九郎。「原田さんは、まだ例の娘にご執心ですか?」
「先生と違って、私は通って通って、褒めて褒めて、なけなしの金を積み上げて、やっと名と姿を覚えてもらえるような身ですから。羨ましいお人よ。よりによって、あんな美人な女将とね」
「よしてください。そういう間柄ではありませんよ」
「ま、人間夢を見ているうちが華。私はそう考えていますよ」
皮肉屋に笑い、原田は眼鏡を直しつつハンドルを切る。
上野駅前から走ること四半刻ばかり。空襲で一度焼けた街は、碁盤の目状に区画が整理されている。交差点はどれも直角。細かな路地はごく僅かだ。
だが、原田が車を入れた道は、大通りから斜め。入る路地も、車がすれ違うのもやっとなほど狭い。この区画だけ、まるで人と車の流れを拒んでいるかのようだ。S字に折れ曲がった通りのために、外から内部が見通せないのだ。
そして傾き始めた陽を浴びながらそぞろ歩きする男たちと、そんな男に撓垂れ掛かる華やかな衣装の女たち。柳の並木に極彩色のネオンサイン。怪しげな店舗の入口には、決まって洋装で固めた厳つい男の姿があった。
新九郎は、かつてここにあり、今はないものを懐かしむような目を、窓の外へ向けていた。
「大門はもう二度と建つまい。壁も、堀も、戦後に建て直されることはなかった」
「あの先生、ここって……」
聞いたことがある。花の帝都八百八町の北の果てに、一際大輪の花が咲き乱れる夜の楽園。
上野千束、吉原遊廓だ。
新九郎はあかりの胸元を指差す。「それはしまっておきなさい」
指は特級異星言語翻訳師の証であるヘドロン飾りを指していた。理由を問い返すまでもなかった。
この街の女の、誰もが望んで身体を売っているわけではない。そうせずに済む証を見せびらかすのは、ここの流儀に反しているのだ。
そして車は、ある見世の前で停まった。
「お代は月末、事務所に」と原田に言い伝え、新九郎は円車を降りた。
慌てて後を追うあかり。こんなところにひとりで置き去りにされては敵わない。
石造りの灯籠に擦りそうになりながら、原田の車は遠ざかっていく。
多くが洋風のキャバレー風だが、そこは珍しく鉄板葺の切妻屋根。足元も石畳。朱塗りの格子窓の向こうには、たおやかな手付きで琴を奏でる和装の女たち。だがよく見れば、全部からくり仕掛けだ。電装人形と呼ばれる、人工知能で自律駆動する人型機械である。
その手前には、気安く近づく者を阻むかのように、銅細工の彼岸花が並ぶ。
唐破風の玄関に掛けられた臙脂色の暖簾に、白く染め抜かれた三文字。
「紅山楼……」
どう見ても遊女屋である。それも、数ある中でもかなりの大見世。まだ営業前らしく、玄関の左右に吊り下げられた提灯には火が入っていなかった。
新九郎は、表に控える厳つい男に会釈すると、向こう側が足元しか見えないほど長い暖簾を潜る。あかりも左右を見回してから、できるだけ素早く後を追った。
新九郎は。番頭のような着物に羽織の腰が低い老人と何事か言葉を交わしていた。
その老人は、あかりを認めると声を上げた。
「こちらのお嬢さんが、噂の」
「さすがお耳が早いですね、
粂、と呼ばれた老人は額と膝が触れるほど深々と頭を下げた。「
「早坂あかりといいます。伊瀬の先生とは……今日会いました」
「今後ともご贔屓に。どうぞお上がりください」にこりと微笑むと、粂八は新九郎を見る。「しかし先生、今日いらっしゃるとは伺っておりませんが」
「少し急ぐ。夜見世の支度で忙しいところ悪いが、女将は?」
「おりますとも。しばしお待ちを」粂八は格子に囲まれた番台に入ると黒電話を取り上げる。
草履を脱いで上がると、いつの間にか現れていた小間使いのような羽織の男たちが草履を片付ける。少しも気配を感じなかった。粂八も、八〇に届こうかという老人にしては素早い身のこなしだった。
「どうぞお二階へ。
もう一度礼を言うと、新九郎は慣れた様子で歩みを進める。鏡代わりになるほど磨き上げられた板張りの床が一歩ごとに軋んだ。
炊事場から慌ただしい物音がする。この街が最も華やぐ時間も近い。
「本当なら、君のような歳の子が立ち入る場所ではない」今更ながらに新九郎が言った。「粂さんのところで待っていてくれてもいいが、どうする?」
「大丈夫です」とあかりは即答する。
試されている。
そんな気がした。市井の異星言語翻訳師として働くなら、否応なしに、帝都の翳を直視することになる。揉め事の火種は、いつだって陽の当たらない場所に燻っている。
もしかしたら、この男前だがいけ好かない男は、厄介な小娘が泣いて逃げ出すことを期待しているのかもしれない。ならば尚のこと。
二階へ通じるY字型の急な階段。その足元で、着物におかっぱの少女が控えていた。赤い縮緬の広袖。結えない髪。こざっぱりとした装束は、客を取る前の禿と見て取れた。自分より年下のように、あかりの目には映った。
「いらっしゃいませ、新九郎さま」その少女は深々と頭を下げ、雰囲気に呑まれたままのあかりを見る。「早坂あかりさまですね。紗知と申します。以後お見知りおきを」
よろしくお願いします、ととりあえず頭を下げる。彼女のように綺麗なお辞儀をできる気がしなかった。たおやかで美しかった。ここが遊郭であることを忘れてしまうくらいに。
紗知の案内で二階へと進む。すると、吹き抜けの中庭を囲うような回廊が目に飛び込んでくる。並ぶ座敷にまだ客も、遊女の姿もない。それでも、目眩がするような香の匂いが充満していた。欄干の細やかな七宝文様。金属細工の擬宝珠は蝶の幼虫の形をしていた。それが、奥へ進むほどに葉を食み、蛹となり、その背が割れ、成虫の揚羽蝶が姿を見せる。
擬宝珠が彼岸花に留まる揚羽蝶になったところで、更に奥へ通じる廊下になる。余人立入ルベカラズ、と書かれた立て看板と無地の暖簾。「失礼いたします」と紗知は一礼してから暖簾を潜る。
そしていくつかの部屋を通り過ぎ、急な階段を上がった先に、目的地があった。
引き戸越しに紗知が言った。
「女将、新九郎さまとお連れさまがお見えです」
どうぞ、と女の声が返った。
紗知が戸を開き、新九郎、あかりの順に入る。
別世界だった。
琉球畳の室内に所狭しと並ぶ水槽。鉢型、角型、はたまた陶の水瓶や掌に乗るほどの小瓶まで、その全てに、真っ赤な金魚が悠々と泳いでいた。五や一〇ではない。一見では数え切れない。棚に並ぶ帳簿や何かの書付の山の隙間を縫うように置かれている。
丸窓には竹枠格子。障子が閉じられているが、その向こうは大門に通じる仲之町通りだ。文机には書きかけの書類と万年筆。背の高い銅の器に、菖蒲の花が生けられている。赤いものと漆の黒が目立つ部屋で、その青色は異彩を放っていた。
そして、文机の向こうに、丸窓を背にして煙管を蒸かす、女がいた。
この世の酸いも甘いも噛み分けたような物憂げな瞳。襟を大きく抜いて着付けた朱色の着物は総絹で、あかりが着ているような横にファスナーのついた簡着物ではない。羽織った黒地の色打掛には彼岸花。赤い大輪は左肩に近づくにつれ次第に白い小輪へと変化している。
「あら先生」とこの世の終わりのような声で女は言い、煙管の灰を鉄盆に落とした。「今日はどういったご用件で?」
「忙しいところ済まないが、先日依頼した例の都市設計師の行方を知りたい」
「せっかちですねえ。明日の朝には、調査結果をお知らせに上がるつもりでしたのに」
「駅前の一件はご存知でしょう。今時点でわかっていることだけでいい」
「その前に自己紹介を。そちらのお嬢さんが酸欠の金魚みたいになってますからね」女は煙管を置いて、あかりの方へ向き直った。「紅緒と申します。ここの楼主で、新九郎はんとは懇意にさせてもろとります」
半端な京言葉。取って食いやしませんよ、とばかりの微笑み。この人なりの冗句かもしれないと思いつつも、乗る勇気はなかった。名を名乗ってお辞儀するだけが精一杯だった。
恐ろしいほどに美人だ。
年齢がわからない。仕草一つで空気がびりりと震える気がする。とんぼ玉のついた簪を刺してまとめた黒髪は、そう長くない。少なくとも島田を結える長さではない。つまり客を取っているわけではないということが、あかりを安心させていた。
しかし彼女が新九郎に向ける目線は、仕事相手へのそれではなかった。
艶めいた流し目。思わせぶりに唇を舐める。そもそも、女将がなぜ抜き襟に着付けるのか。ちらちらと覗く白い項は、男の指がそこを撫でることを待ちわびているかのようだった。
すると目線に気づいたのか、目が合ってしまった。自分の全部が見透かされるような眼差しに、思わずあかりは目を伏せた。頬に血が登っているのがわかった。
見かねた様子の新九郎が助け舟を出す。「紅緒さんは仕事柄、八百八町の裏の顔に通じている。僕も今の稼業を始めてからはお世話になっている。いわゆる情報屋だ」
それがすべてではないとは、訊くまでもなかった。だが新九郎の口調には、静かだが有無を言わせぬ圧力があった。
少しずつ、この伊瀬新九郎という男がわかってきたように思えた。
どんな相手にも線を引き、壁を作る。飄々としているようで、その実頑固。譲らないところは絶対に譲らない。その態度は、友人でも今日初めて会った一五の娘に対しても一貫していた。
要は、気難しいのだ。
新九郎は腕組みで言った。「……それで紅緒さん、白川については」
「あたしが調べた限りですが、白川と、彼の背後にいる連中の企みは、失敗続きの様子ですねえ」紅緒は簪を抜く。黒髪が肩に流れる。そして紅緒は、手にしたその簪を、文机の鍵穴に刺して回した。
すると金魚鉢の並ぶ棚を塞ぐように、空中に画面が出現した。すごい、とあかりは声を上げる。光学式投影機は超電装の操縦席など、ごく限られた軍事用途でしか実用化されず、民間にはほとんど出回っていないはずの、異星技術の賜物なのだ。
紅緒は事もなげに、簪のとんぼ玉に触れる。すると、東西は天樹先の亀戸から皇居まで、南北は千住の墨田南岸から品川までの、いわゆる帝都八百八町の詳細な地図が表示された。
「破線で囲った部分が、戦後復興で一斉建造された異星砂礫建築の区域。緑に光らせたところが、制御用の終端装置の位置です。芝公園、上野駅前、築地、錦糸公園、清澄庭園、隅田公園。この内芝公園の終端装置への不正操作で六本木界隈の建物が誤作動し、神林組の幹部会合が行われていた貸金業者事務所が滅茶苦茶になりました。おかげであたしの方にも苦情殺到ですよ。……それはさておき、このうち……今赤に変わったところで、白川とレッドスター・ファミリーの構成員と思しき人物が目撃されています」
「芝だけではなく?」
「ええ。ご覧の通り、隅田公園の一基を除き、全部ですね。ですが直近の、芝の端末の時だけは、もうひとり別の人物が現場に同行していたんです」紅緒がとんぼ玉に触れると、どこで入手したのか警察の身上調書の写しが画面に表示された。「先生もよくご存知でしょう。なにせこの男、他でもない先生が府中の別荘送りにしたんですから」
新九郎が舌打ちする。「例の王子か」
「ええ。自称〈犯罪王子アントワーヌ〉こと、安藤和夫。公判によれば……」
ふたりの口から飛び出した言葉は、カメラを睨む、至って地味な顔にはおよそ似つかわしくなかった。
「やつは異星技術の仲買人だ」と新九郎。「酷い妄想癖があって、自分は王子だから豪奢な生活をしなければならない、そのためならあらゆる手段が正当化されると思い込んでいる。だが有能だ。榊が量子倉を用いて一瞬のうちに例の青い超電装を呼んだのも、安藤の差金というわけか」
「榊の方も、警察の取り調べに〈王子〉の存在を仄めかしているそうですよ。すわ国際問題、と警察のお歴々は浮足立ってるみたいですねえ」
「……財前さん、妙なところで頭が固いからな」
「芝の端末以外では、被害はごく小規模に留まっています。建物ひとつ潰すような操作に成功したのは芝だけ、その時には安藤が同行していた」紅緒は喋りながらも器用に煙管に刻みを詰め、マッチで火を点ける。「つまり安藤の持つ何かしらの異星技術があって初めて、白川は大規模な操作に成功した、ってことになりますねえ」
新九郎も紙巻き煙草にオイルライターで火を点けた。「具体的に、安藤は何をした? やつは仲買人であっても技術者ではない。何かを買いつけてそのまま使うだけだ」
「そこまではまだ」紅緒は素気なく応じ、煙を吐き出す。「お急ぎならご自身でお願いします、先生」
煙たい部屋。紅緒は障子を開け、懐から写真を取り出して新九郎に渡した。
あかりも横から覗き込む。
眼鏡、というには大きすぎる何かの機械を頭部に装着した、安藤の写真だった。
「なんですか、これ」とあかり。
紅緒は口の端で笑った。「それがわかりゃあ苦労はしないさ、お嬢ちゃん」
しばし写真を睨んでから新九郎は言った。「紅緒さん、安藤の出所はいつですか」
「一週間前ですよ」
「だとすると、自分で買いつけたというより、他の調達屋を使ったと考えるべきでしょう」
「あんたの方が心当たりあるんじゃないですか、先生」
「そうですね」新九郎は写真を懐に収める。「電話を借りられますか」
「もちろん。ですがその前に、少し下世話な続報です。……白川の娘のいる私娼窟について」
「玉ノ井のか?」
「ええ。どうも、あやかしみたいですね」
「客がか、女がか」
「どちらもです。最近あのあたりでは、触手で魔羅を捏ねるのが流行らしいですよ。つまり、碌でもないところです。まあうちだって、碌でもないことは変わりゃしませんがね」
「他星系人との性的接触は禁忌だ。……気は進まないが、僕の管轄だな」
「あんまり過激なのに流行られると、うちも商売上がったりですからね。お願いしますよ」紅緒は皮肉たっぷりに笑う。「それと、お聞かせしたいものがひとつ」
「玉ノ井の話ならもうたくさんだぜ」
「それはあたしもです。……安藤が何を企んでいるのかの、あたしが持つ手がかりですよ」
紅緒は文机の下からテープレコーダーを取り出した。
再生ボタンを押すと、男の話し声が流れ始める。
「これぞ我が華麗なる計画です! 電子の世界に住まう友の力を借り、この帝都のありとあらゆる異星砂礫を自由自在に操るのです。私は金と金目のものがいただければ結構。皆様は七日でこの街の闇を統べる力を得ることでしょう。神が七日で天地を創造したように」
「だが〈奇跡の一族〉とやつらの狗が黙っていないだろう」
「なあに、かの友は星団評議会がまだ認知していない生命体。私の言葉が彼らには世界。天樹に引きこもるばかりの実態なき支配者など、恐るるに足りません。増してあの男など!」
「大した自信だ。しかしその、この街の闇を統べる力とやらは、具体的に何を指す?」
「不死の兵隊ですよ」
「何……?」
「この私、犯罪王子アントワーヌは、あなた方レッドスター・ファミリーに、死せる軍隊を提供する用意がある。さて、あなた方は何と戦いますか? ちんけな神林のやくざ連中か、こちらの顔色を窺うばかりの警察の腰抜けか、それとも力を振りかざす陸軍憲兵隊か。この国の支配者となることも、夢では……」
そこで録音は途絶えた。
紅緒は停止ボタンを押して言った。「安藤の出所日に、レッドスターの連中と安藤の取引現場で録音されたものです。ここで恐らく、その派手な眼鏡が引き渡されたのでしょうて」
「……物騒な話だ。安藤は何事も大袈裟な男だが」
「備えるに越したことはないでしょう? それに……」
「出所日から七日。今日だ」新九郎は煙草を鉄盆で揉み消し、立ち上がった。
「あの先生、今度はどちらへ……」
「予定変更だ。この街で、一番強い女たちに会いに行く」
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