6.カエルとザリガニ
すっかり日が暮れても帝都の灯火が絶えることはない。
山手線の高架下。戦後のヤミ市に端を発する商店街であるアメヤ横丁は人間と人間ではないものたちでごった返していた。並ぶ立ち呑み屋や、今日の最後の追い込みとばかりに叩き売りに打って出る生鮮食品店。とりあえず宇宙ならばなんでもいいとばかりの適当な土産物を並べた店の軒先で、腕が四本ある緑色の肌の店主が暇そうに目線を泳がせている。
だが地上は、まだ人間向けの店舗が大半である。
一度地下に潜れば、街は全く別の顔を見せる。商業ビルの薄暗い階段を慣れた様子で降りる新九郎についていくと、そこには異世界が広がっていた。
一見すると、地上の魚屋や青果店とよく似ている。だが売られているものは虫のような何か、蛸のような何か、鋳塊にしか見えない何か、脚の生えた岩石にしか見えない何か。地球の重力と大気で生存している以上地球の生物に何か通じる部分があるに違いないが、それにしても生理的な嫌悪感を覚えずにはいられない。
四方八方から地球人類とは明らかに発声機構や可聴域の異なる言語が聞こえる。それでも耳を澄ませ、オルゴンの導きに感覚を委ねれば、意外と普通のことを言っていることに驚きを禁じ得なかった。
「三個買ったら一個おまけ」
「今朝仕入れたばかりの新鮮な」
「いい出汁が出る」
「ボッってんじゃねえ、地球慣れしてないと思ってナメやがって」
「冷蔵庫があれば三日くらい保つ」
「砂糖と醤油で煮ると美味いよ」
ぜったい嘘だ、と心中呟きつつ、息を止めて市場を足早に抜ける。腐臭とスパイスが入り混じって呼吸できるようになったような空気のせいで息苦しかった。
すると飲食街が姿を現す。半ば屋台のような店の軒先では、普通の鶏肉と不可解な宇宙グソクムシが並んで炭火で焼かれている。驚くべきことに、人間と宇宙人が並んでそれに舌鼓を打っていた。宇宙人が焼酎を飲み、人間が粘っこい紫色の液体を飲む。
「あれ、脱法だからね」と新九郎が耳打ちする。「法的な名目は調査。他星系の食物を原住知的生物へ商用に提供することは星団憲章で禁じられてる」
「じゃあ食べません」
「早坂くんは、食べた方がいいかもしれないよ。オルゴンが美味の感覚まで伝えるとは思えない」
「大丈夫です。わたし、特級なので」
そうかい、とあまり関心なさそうに応じ、新九郎は一軒の店の前で立ち止まった。
薄暗い地下。角灯の暖色光にレンガ張りの外観が浮かび上がる。青色のネオン管で店名が描かれていた。
『BAR シルビヰ』とある。
重い木製のドアを押せば軽やかに呼び鈴が鳴る。子鬼のような背が低く頭の大きい異星人の店員が、銀河標準語A種で「いらっしゃいませ」と言った。
新九郎が同じく銀河標準語で応じる。A種は、三種ある銀河標準語のうち唯一人間にも発音でき、英文字での記述が可能で、ほぼすべての音が人間の可聴域に収まっている言語だ。だが、新九郎の言葉はあかりの耳にはひどく拙いものに聞こえた。
呼び出した男がもう着いているかを尋ねているようだった。子鬼は頷き、奥まったカウンター席を示した。
向かうと、直立二足歩行する着物姿の等身大カエルがいた。
「やあ、
「おお、伊瀬の旦那。これはこれはこちらこそご無沙汰してます、はい」井ノ内、と呼ばれたカエルは手拭いで汗を顔の拭いた。「お連れ様とは珍しい。そちらが噂の、言葉遣い師……」
「単刀直入にお伺いします」慇懃な態度を崩さず、新九郎は写真を机に置いた。そして声色を変えた。「〈犯罪王子アントワーヌ〉こと安藤和夫にこれを売ったのは、あんただな」
「はて」また汗を拭く井ノ内。「なんのことだか、さっぱり……」
「なら質問を変えましょう」新九郎は写真を指先で叩く。「この安藤が顔に装着している機械の用途を、ご存知ですか?」
「さあ、見たことも聞いたこともない……」井ノ内の目が泳ぐ。
「そうですか。この街一番の調達屋、金を積まれれば相手にかかわらず、どんなものでも調達して売るあなたでもわからない。これは少し不自然だ。都合が悪いことでも?」
「いえいえ、何も、都合が悪いことなど何も。おお、そうだそうだ、思い出しましたよ旦那」グラスを煽る井ノ内。中身は黄色に発光する怪しげな液体だった。「これは確か……『電想機』という装置です。エゼイド星の技術が使われているもので、装着者の意識を別の世界へ潜り込ませる」
「耳慣れない星人ですね。潜り込ませる?」
「ええ。聞いた話ですが、」そのひと言に井ノ内はやけに強勢を置いた。「仮想現実、というそうです。原理的には、大型超電装の操縦に使われる、脳の動きを抽出して機械の動作に反映させる機構とよく似ていますが、用途は全く違います。エゼイド星人は、電子生命体なんです。電子基板の上に走る電気信号こそが、彼らの本体で、そこには彼らだけの世界がある。そして彼らが、私らのような物質生命と接触・交流・対話するために作った道具が、電想機です。気取った連中は、ブヰアゝル、などと呼んでおりますな、はい」
「売りました?」
「ええ売りましたよ! こっちは信頼で商売してんです、客を選んだなんて知れたら、この星にいられなくなっちまいますよ」
「おかげで僕の仕事が増える……」
すると、カウンターの向かい側に、これも宇宙人の男が立った。瞳孔のない目。セミとザリガニを足して二で割って直立二足歩行にしたような姿だ。体色は金属光沢のある青。白黒の給仕服だが、袖口が手首を包む萼のような形をしていた。よく見れば五本指の手は人間の形と同じ。恐らく、筋電甲の類。
その男が、大きな部屋で反響したような声で言った。
「シンクロー、You should 注文」そしてあかりの方を見る。「あなた、Sit downよろし」
「マスター、彼女にはあなたの言葉が通じます」新九郎は御品書も見ずに続ける。「バンサ茶を」
マスター、と呼ばれたからには店主なのだろう異星人の男は、一礼すると離れていく。
その姿を見送り、新九郎は言った。「彼ね、地球に来るに当たって言語を高速学習したんだけど、乗ってた円盤の設備が破損したことに気づかなかったらしくてね。目的地の日本語と、地球で一番多くの人に通じる英語を同時に学習したら、混ざってしまったらしい」
「苦労人なんですよお、マスターは」井ノ内が口を挟む。「故郷の都市惑星が気の触れた科学者の実験で吹き飛んでしまって、偶然星外探査中だった彼と仲間だけが助かったんです。でも宇宙を放浪していたらその仲間たちも分裂して、他星への侵略的移住を試みて星団評議会の平和維持軍に攻撃され、この地球に難民として辿り着いたのは彼ひとり。おお、申し遅れました。わたくし
やけに饒舌。話題が逸れるのが嬉しくてたまらないようだった。「どうも、早坂あかりといいます。……井ノ内?」
「そこに気づかれるとはさすがの慧眼。ええ、わたくしかの地球の諺に感銘を受けまして。謙虚な気持ち。どんな時でも自分は井戸の中の蛙、自分が見ている世界は井戸の中で、外には自分の想像も及ばない大きな世界が広がっているのかもしれないという想像力。謙虚さ。そういうものに感銘を受けまして、座右の銘にするに飽き足らず、名にお借りさせていただいた次第です。いやァ、地球人は凄い! ねえ先生! 先生もそう思うでしょう?」
「話を逸らさないでください、井ノ内さん」
「え、まさか。そんなつもりじゃあございません」
「興味深い話ではあります」と新九郎。そうでしょう、と井ノ内が相槌を返すが、新九郎の焦点はもちろん違った。「星団評議会に認知されていない、エゼイド星の技術。安藤は何を企んでいるのか。やつはレッドスター・ファミリーとの会合で、〈奇跡の一族〉が認知していない知的生命体との協力関係を示唆した」一度言葉を切り、腕を組む。「電子の世界に住まう友、とも言っていたな。まさか」
「旦那、何か思い当たる節でも?」
新九郎は間をおいてから言った。「これは異星技術を悪用した地球人の内乱ではなく、異星人による地球侵略である可能性がある」
「そりゃまた、けったいな」
「半分はあなたのせいですよ。まったく、僕は働きたくないんですよ」
「仕事があるってえのは、ありがてえこってす。どんな仕事でも……」
「自分の悪事を棚に上げて、よく言う。僕が警察で、ここがシルビヰでなかったら、あなたは今頃監獄だ」
「そうは言いますがね。旦那……」
そこへマスターが現れ、新九郎の前に青白く濁った液体の入ったグラスを置いた。得体の知れない『バンサ茶』の正体。新九郎は慣れた様子で口をつける。
マスターは続いてあかりの前に瓶入りのラムネを置いた。そして彼の星の言葉で言った。
「お代は結構です、早坂さま」
胸元のヘドロン飾りが熱を帯びた。あかりは応じて言った。「いいんですか?」
「お構いなく。久方ぶりに、私の言葉で話せました。その、礼とお考えください」
もう一度礼を言ってから、ラムネをひと口。故郷で時々、姉が買ってくれたものと同じ味がした。
不毛な言い争いを続ける新九郎と井ノ内。ふたりを尻目に、あかりは嘆息する。
「ふた言目には働きたくない、働きたくないって……どう思います、マスター」
「私には理解しかねる考え方ですが、人間という生き物の中には、勤労に喜びを見出さない個体もいるようですね。私の種族は、同族のために奉仕することを無常の喜びと考えます」
「でも……マスターの同族、もういらっしゃらないんですよね」
「ええ。ですからこの店は、この街のためにあります」どういうことですか、と促すあかりに応え、マスターは続けた。「この店は、地球人の概念で言うところの、治外法権地帯です。星団評議会も、非公式ではありますが、この店を拠点とする非合法活動を黙認しています。そちらの井ノ内さまのように。代わりに、私は新九郎さまのような方を通じ、星団評議会と天樹の〈奇跡の一族〉へ、この街で行われる非合法活動について情報を横流しする。これをレッドスター・ファミリーのような異星人系犯罪組織も黙認しています。善悪の緩衝となることが、この街での私の役割です」
大きな頭部を揺らして店の奥を示すマスター。応えて盗み見ると、数組の客の姿が目に入る。腕に入れ墨の入った人間たち数人組。分厚い札束を受け渡す、身体の一部を機械化した宇宙人。普通の客と、銀河標準語や地球語を敢えて使わずに話す明らかに気質でない客が半々くらいだった。
治外法権。気質とやくざの緩衝地帯。それがこの店とマスターの役割。
「役割」とあかりは呟く。「わたし、東京へ来れば、わたしの、わたしにしかできない役割が見つかると思ってました」
「もうあなたはその役割を果たしています」
「え?」
あかりは顔を上げ、マスターを見た。そのマスターは、咢のような飾り袖を開閉させる。それで初めて、衣服ではなく身体の一部なのだと気づいた。まるで甲殻類の鋏か何かのようだ。
「こうして私と話すことで、すでに」
「……でも、先生には帰れと言われました」あかりはまた目を机へ落とした。「会うひと会うひと、みんなわたしを『お嬢ちゃん』って呼びます」
「あなたが一五の子供であることは否定できますまい。私がこの星では異邦人であるように」
「それは、そうですけど」
「誰かに認められたければ、まず自分を信じることです」マスターは、ほっほっ、と鳴き声を上げる。笑っているようだった。「信じられないならいいことをお教えしましょう。私が私の言葉でこうして話すのは、三年ぶりです」
「三年」聞いた年数だった。
「最後に私の話し相手になってくださったのは、伊瀬依子さまです。もう亡くなられて……」
「知ってます」横目で新九郎を窺うあかり。彼の語学力なら、何を話しているかわかるまい。「先生の、奥様だった方ですよね。異星言語翻訳師の。……わたしと同じ」
「ええ。その彼が、こうして再び言葉遣い師を伴ってこの店にやってきた。これは帝都八百八町に蒸奇探偵が戻る日も近いかもしれません」
「あの、その『蒸奇探偵』という方、一体どなたなんですか?」
「弱きを助け強きを挫く、悪を許さぬ正義の味方。蒸奇探偵ある限り、悪の栄えた試しなし。地球の平和を守る、頼もしい勇者の通り名です」
「へえ」また新九郎を横目で見るあかり。「そこの先生とは大違いですね。その人だったら、いい年して働きたくないなんて言わないんでしょうね」
「ええ、まったく、その通りで」
「いかがわしいお店に通ったりもしないんでしょうね。男やもめだからって、みっともない」
「ええ、まったく、その通りで」マスターはまた、ほっほっ、と笑った。「きっと彼も、時が満ちれば話してくれることでしょう。蒸奇探偵のことを」
「先生が?」と問い返した時だった。
店内が小刻みに震えた。棚に並んだ酒瓶が音を立て、吊り下げられた照明が揺れる。突き上げるような振動と地鳴り。
なんだ、地震かと言い交わす客が半分、この世の終わりのように騒ぎ始める地震に慣れない客が半分。そして新九郎は、帽子を取って立ち上がる。
「行くよ、早坂くん」
「行くって……なんなんですか、この地震」
マスターが一礼した。「時が満ちたようですね」
地上へ登り、表通りへ出ると、市中は上へ下への大騒ぎだった。車の警笛が四方から鳴り響き、人々は雪崩を打って、駅前から不忍池の方面へと駆けていく。口々に叫んでいる――怪物だ、怪物が出た!
新九郎はそのうちひとりを捕まえ、問い質す。職人風のその男は、明らかに平静を欠いていた。
「知らねえよ! 墨田の向こうからどんどん人が逃げてくるんだ」
「墨田の向こう。何があった? 何が出た?」
「だから知らねえって! 俺は浅草で呑んでて、したら走ってきたやつが、土塊の人形に襲われたって……」
それだけ言うと、男は新九郎の手を振り解いて走り去る。
墨田を渡る都電が、派手な制動音を鳴らしてあかりと新九郎の眼の前で急停止。乗客が次々と降りてくる。走り出す彼らを轢くすれすれの危険運転で滑り込む旧型の円車が一台。窓が開き、知った顔が怒鳴った。
「お待たせしました、先生」五〇絡みの儲からない運転手、鼈甲眼鏡の原田哲正だった。「どちらまで? たとえ火の中水の中、ご指示とあらば安全迅速に突っ走りますぜ」
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