挿話 第4.4話 二ッ森凍の新車購入

「この度は、本当に世話になりました」

 伊瀬新九郎は帽子を取り、深々と頭を下げた。

 かつては江戸の市民の胃袋を満たす田畑が広がり、そして今は続々と住宅が建設される、帝都東京の最前線。多摩川の支流のほとりで、木立に囲まれてひっそりと佇むその洋風建築を、新九郎はひとり訪れていた。

 以前にも通された客間で、低い洋風のテーブルを挟んで眼前には虎が一匹。否、虎のごとく眼光鋭い堂々たる髭面の和装の男、土方三十郎である。

「構わん。だが、二度と私の手を煩わせるな」

「承知しております。月より遠くから降ってきた災いならば、僕の領分です。軍の手を借りざるを得なかったのは、偏に僕の失態です」

「違う」土方は葉巻の煙を漂わせる。「私はもう歳だ。身体に堪える。君の言い様を借りるなら、私は働きたくない」

 怪訝な顔になる新九郎。

 ややあってから、恐る恐る訊いた。

「冗談、でしょうか」

「そのつもりだ」

「これは、これは……」

 笑っていいのか、悪いのか。新九郎は苦笑いとも愛想笑いともつかぬ、妙な笑顔になる。一方の虎は、餌が不満だったかのように唸っている。

「頭を下げるために来たのか、伊瀬新九郎くん」

 深呼吸をひとつ挟み、新九郎は懐に手を入れた。「いえ。礼をもうひとつと、お返しするものがあります」

 テーブルの上に置く。

 鍍金の剥げた葉巻入れだった。

「これは僕には渋すぎました」

 言い、反応を窺う。

 土方は顎髭を撫で、その手で葉巻入れを新九郎の方へと押して返した。

「なら、君の好きな味を詰め込むといい」

「僕の好きな味、ですか」

「私や幻の阿呆は、存分に渋い時代を味わった。これからは、君の味にしろ」

「では、頂戴します」新九郎は葉巻入れを再び懐へ収めた。「……聞きそびれていましたが、師匠とはどういったご関係なのでしょう」

「腐れ縁だ。ちょうど、君と法月八雲くんのような。幻は正体不明で、私は軍人の家系だった」

「それが僕を後押ししてくれた理由ですか」

「君が、煙草の味を選ぶことのできる世代だからだ」

「Don't trust over thirty、ともいいます。僕はもう、時代を作る側ではありませんよ」

「年若いといえば、時に……」また煙を漂わせて、土方は言った。「君の助手だという娘はどうした。連れていないのか」

「彼女には、少し仕事を任せていまして。お陰様で楽できています」


 世の中の大半の争いは、言葉が行き違うことによる。

 より正確を期するなら、人間同士の争いの大半は、言葉の行き違いということにして解決される。

 誤解がありました。最初からそう言ってくれれば。わかってくれると思っていましたよ。そんな言葉の裏には人と人の力関係があり、誰かが不利を被るからこそ争いになるにもかかわらず、その争いはなかったことにされる。円満に解決したという形式を取り、弱い者が不利を被る。

 しかし、宇宙人が絡むと、大体本当に言葉の行き違いなのだ。

「つまり、あなたが食べてしまったから、燃料の規格が変わってしまった、ということです」と早坂あかりは言った。

「そうよそうよ。このクルマはハイオク仕様だから、レギュラーで給油するとエンジンがイカれちまう。だから納車前にも散々言ったのに……」

 三〇台ほどの中古車が屋外に並ぶ、郊外の自動車販売店。あかりの隣で困り顔をするのは、四〇絡みのよく日に焼けた男だ。腰からは七つ道具とばかりに工具を提げ、白いツナギ服のあちらこちらが機械油で汚れている。彼は上野から路面電車を終点まで行ったところに中古自動車販売店を構えており、名前は樋口という。自動車という高額商品を取引することと、天樹到来以降は人間以外の客も相手にしなければならない都合上何かと揉め事も多く、彼が経営する自動車販売店・ヒグチオートは鬼灯探偵事務所とは懇意の関係だった。

 対するは、歩く肉の塊である。

 偽装皮膜を解くと、随分と丸っこい涙滴型の身体の表面に蛸の吸盤のようなものが並んだ、見たことのない外人の姿があった。涙滴の先端にある顔のあたりは、鼠に似ている。しかしこれでは、人間とあまりにも体型が違う。脚が短いのだ。さぞ生活に難儀しているだろう、と思っていると、みるみるうちに足が伸びた。全高であかりと同じくらいになるが、目線の高さはあかりのみぞおちくらいである。

 吸盤、のように見えるのは生体ではなく、彼らにとっての外出着なのだという。生体のように作られた人工呼吸器である。彼らの星にも吸盤のようなものを持つ捕食者がおり、その強大さから神の使いと考えられている。そこで、その神の使いに似たものを身に纏うことが、彼らにとっての正装になる。鳥の羽や象の牙を装身具とする人間と似たような感覚なのだろう。伸びた脚は、彼らにとって敬意の印なのだとか。

 そんな星で道具を使う二足歩行の種として進化した彼らは、油脂を主食としていた。

 その歩く蛸氏が不満気に――不満とわかるのはあかりだけである――言葉を発すると、もうひとりの立会人である、真っ赤な短髪の女が応じた。

「オクタン価ってのがあんだよ。原動機のノッキングの起こしにくさを示す数値で、炭素の数が同じなら構造がややこしいものほど高い」二ッ森焔はそこで一度言葉を切りあかりを見た。「この人、炭素とかはわかるんだよな」

「ええ。わたしたちと同じ炭素系の生命体です」

「んじゃあよかった。で、あんた方は、この翻訳師の大先生が言うには、高オクタン価の炭化水素を吸引して体内の代謝に用いている。俺らが呼吸するように、オクタン価の高い成分をガソリンから吸い取っちまうってこった。するとハイオクを給油してもレギュラーより酷い燃料になっちまって、ノッキングを起こしてやがて故障する。ある意味、あんた方の生体の仕組みを鉄の塊で真似たのが、俺らの使う原動機ってことかもな。どっかに行動用の燃料は持ってるんだろ? そっちからのみ吸うってことはできねえのか? ……って、伝えてくれ」

 あかりが蛸氏に翻訳して伝えると、「それは非常に難しい」という答えだった。彼らには食事という観念がなく、高オクタン価炭化水素の吸引は無意識に行う。周囲にあればあっただけ吸収してしまうのだ。そしてガソリンを使わない蒸奇の浮遊車は高価で、手に入れられるのは成功者だけだ。そして彼はこれから成功者になろうとする者だった。金に余裕はなく、話を整理すると、彼の要求は車両代金の返金だった。

「ディーゼルってわけにもいかねえよな」と腕を組む焔。「ガソリンでさえ蒸奇に置き換えようとしてるから、もうディーゼル乗用車なんか売ってねえし。自前で整備できるならともかく、厳しいぜえ。……いや、もしかして、この人が乗ってれば軽油がひとりでに高級軽油的なやつになんのか?」

 焔を呼んだのは他でもないあかりだった。翻訳はできても燃料や機構のことはわからず、知っていそうな人、と考え、エフ・アンド・エフ警備保障に電話をかけたのだ。すると、ちょうど同じくヒグチオートに用事があったという焔はふたつ返事で駆けつけてくれた。

 そして焔がいるということは、もうひとりもいる。

「樋口さん、そんなことより例のあれはどこですの?」

 背中を覆う長い銀髪を振り乱し、右へ左へ目線を巡らす、水兵服に羽織の女。二ッ森凍である。

 そしてなぜか、刀は背負い、代わりにスケートボードを手にしていた。まるで最近米国かぶれしてきたという山手線の西半分の若者である。

「あのな、今取り込み中だからな。後にしろ」と焔。

「一分一秒たりとも後回しになどできませんわ。お姉さまの後ろなど二度と乗りたくありませんの」

「だからってスケボーはねえだろ……」

「わたくしだって不本意ですわ。車さえあれば……」

「うるせーなあ。V型二気筒じゃねえ乗り物なんかどうでもいいだろ」

「揺れるのがお好きなら毎晩お姉さまをカクテルシェーカーに詰め込んで差し上げますわ」

「エンジンは揺れるほど生命力が強いんだよ」

 たまらずあかりは口を挟んだ。「あのー、凍さん、お車は?」

「壊れましたの」

「また壊したんですか」

「今回は壊されたんだよ、な」眉を上げてにやりと笑う焔。「この前レッドスターの連中とやりあったんだけどさ。その時連中の飛行円盤を撃ち落としたら、そのままふわふわーっとこいつの車に真っ逆さま。反重力でひん曲がって即廃車でさ。いやー、笑った笑った」

「あ、だからこの前もバイクでふたり乗りだったんですね……」

「笑い事ではありませんわ!」

「それはともかく……」樋口がおずおずと口を挟んだ。「こっちのお客さん、なんとかしてくれんかねえ」

「すみません。えっと、ガソリンの話でしたよね」あかりは変形し続ける胸元の飾りを掌に乗せ、蛸氏に向き直った。

 もう一度問題点を整理してみる。

 蛸氏には移動手段としての車が必要である。しかしガソリンのうちオクタン価が高い成分は吸収されてしまい、車が故障する。樋口氏は車がハイオク仕様だったため、燃油の問題を事前に説明していた。そしてそもそも、身体の仕組みから、蛸氏は燃油で動く車には乗れない。

 もしも自分がこの星で一般的な車に乗れないと知っていれば、蛸氏はそもそも別の移動手段を検討しただろう。だから返金を要求する。しかし樋口氏にしてみれば、売上をなかったことにされる上に、蛸氏の責任で故障したエンジンまで返されることになる。

 しばし考えてから、あかりは蛸氏に、彼の言葉で言った。

「この星のことを知らなかったのは、あなたの責任です。ですから、修理代は負担してください」

 続けて樋口氏に言った。

「彼のことを知らなかったのは、あなたの責任です。ですから、修理代は彼持ちで、返品は受けつけていただけませんか」

 そしてもう一度蛸氏に向き直り、言語を切り替えて言った。

「お話を伺うに、その通勤距離で車は不要だと思います。別の移動手段を検討されてはいかがでしょうか。そう、たとえば……」

 蛸氏の住居は八百八町内であり、当面の勤務先だという、同じ星出身の知人が経営する倉庫までは電車が通じている。駅から少し離れているのが難点であり、歩くのが遅い彼にはこれが大きな壁となる。

 そこであかりは、凍が抱えていたスケートボードを指差した。

「あれ、とか。電車にも持って乗れます。脚が短いままでも、なかなかの速度で移動できます。どうでしょう?」


「しょうがねえ。勉強代だと思うことにするよ」と樋口。言葉の割には満足気で、あかりは安堵した。

「蛸氏も似たようなことを仰ってました。ですが、車のお値段は少し下がってしまうのでは……」

「中古の査定価格か? そんなん黙っときゃわかんねえさ」帝都の商売人は皆強かである。それより、と続ける。「鬼灯探偵事務所も変わったなあ。伊瀬の先生はだまくらかすのばかり上手だったのに」

「それ、ちょっと気になってたんです。先生、銀河標準語も怪しいですし、どうやって仕事してたのかなって……」

「いやー、それが不思議なもんでね。何も解決してないんだけど、あの人が間に立つとなんとなく解決した気分になって、みんな納得して帰ってくんだよ。ありゃ人たらしの才能だね、才能」

「人たらし……宇宙人たらし?」

「それよ、それ」

「わたくしの車!」凍が金切り声を上げた。

 二ッ森姉妹は、元々納車のためヒグチオートを訪れる予定だった。別の客と樋口が揉め事になり、鬼灯探偵事務所の電話を鳴らすことになったのは、偶然である。あかりは幸運だと思っていた。この時はまだ。

 並ぶ中古車から数台分離れたところに、白いふたり乗りのスポーツカーが停まっていた。

 空を飛びそうだ、と真っ先に思った。

 丸いヘッドランプから後部まで繋がる流麗なライン。さり気なく添えられる鍍金の部品。車というよりも、金持ちの外人が使う飛行車を彷彿とさせる。だが決定的に違うのは、美しいことだ。二〇年後の未来から何かの間違いで持ち込まれたかのような、絵に描いたままの美しさ。これは乗り物であって乗り物でない、と思った。人だけではなく、別の何かも乗せている。たとえば夢。

 涙黒子のような位置に、小洒落たアルファベットのエンブレムがある。

「コスモスポーツ」樋口が鼻を鳴らした。「どうよ。走行距離僅少。状態良好。ちょっとエンジンが特殊だが、お前さん方なら整備できるだろう、必要なら専門技術者を紹介してやる」

「完璧ですわ!」

「そうだろそうだろ。お前さんなら2000GTよりこっちだろ。確かご要望は……」

「白いこと、速いこと、ユニークであること」

「なんてったってロータリーエンジンだ。だからこそのこの低いボンネットよ」

「うふ、うふふ、この世にわたくしより綺麗なものがあるなんて……」

 言うが早いが凍はホイールの中を覗き込み、膝をついて車体下を覗き込み、うっとりした顔で屋根を撫でる。きらきらと輝いて見える、と思ったら本当に水蒸気が凍結していた。

「どう思うよ、あれ」苦笑いする焔。

「それが何であれ、夢中になれるものがあるとは素晴らしいことです」

「達観してんなあ、若いのに」

「受け売りですけどね」

「もしかして、栗山依子さん?」

「当たりです」

 話している間に、凍は日本刀を助手席に放り込んで自身は運転席に座っている。

 そして、凍は常にない満面の笑顔であかりを見た。

「せっかくです。送っていきますわ、あかりちゃん」

「いいんですか? 助かります」

 すると、焔があかりの肩を掴んだ。「やめとけよ。後悔するぜ……」

「後悔?」

「ここだけの話な、せっかくとか言ってるけど、あいつ昨夜から『最初に助手席に乗せるのは絶対あかりちゃんですわ!』って大騒ぎしててな……」

「それは光栄ですけど……」

「やめとけ。絶対やめとけ。あいついいとこ見せたいだけだからな」

「あらお姉さま、嫉妬は見苦しいですわ。助手席に乗せるなら、がさつな鉄砲女より素直で聡明で世間擦れしていなくて可愛らしいお嬢さんの方がいいに決まってますわ」

「俺がいつ乗りたいって言った」

 助手席の扉が開いた。「どうぞ、いらっしゃいな」

「俺は止めたからな」ため息交じりの焔。

 右を見る。左を見る。しばし考える。

 あかりは言った。

「じゃあ、せっかくなので……」


 私鉄から、和服を着ない西洋かぶれした若者の集まる街を抜け、山手線に乗り換える。戦勝以来の国粋的な空気から古典的な風俗を好む東側と、それへの反発から西洋的な文化を積極的に取り入れる西側で、同じ帝都でも雰囲気は異なる。それでも、一番奇天烈なのは、道を歩けば宇宙人に当たる帝都八百八町界隈だ。西洋のもじりで、天樹発祥の星外文化のことを、星耀式、と最近は呼ぶらしい。きっとどこぞの文化人気取りが適当に作った言葉に違いなく、その発祥を突き詰めるほど伊瀬新九郎は文化風俗に熱心な男ではなかった。

 そして上野駅で列車を降り、大通りから鬼灯探偵事務所へと歩き始めた伊瀬新九郎の耳に、甲高い悲鳴と耳慣れない強烈なエンジン音が聞こえた。

 白い車が空いた道をなんの意味もない波状走行で爆走してくる。そして唐突に加速し、特に意味もなく後輪を盛大にスリップさせて五四〇度転回しながら、唖然とする新九郎の真横に運転席側をぴたりとつけて停止した。交通法規は完全に無視である。

「あら先生、奇遇ですわね」

「凍……と、早坂くん?」

「た、助けて、先生……」息も絶え絶えなあかりは震えながら凍の刀を抱き締めている。

「おや。ふたりでドライブかい?」

「ええ」乱れた前髪を軽く払って凍は応じた。「先生は、今お帰りですの?」

「ああ。野暮用の帰りでね。車、乗り換えたのかい?」

「ええ。お気に召します?」

「黒なら欲しいな、僕も」

「何もわかってませんわね」

「これは手厳しい」

「ではまた後ほど、事務所まで参りますわ」

「降ります、ここで降ります、すぐそこなので……」あかりは目の焦点が定まらない。

「ふむ」ふたりを交互に見てから新九郎は言った。「凍、彼女をよろしく」

「かしこまりましてよ」

「そんな! 先生!」

 白い車は急発進。猛烈な速度で交差点に突っ込み、無駄に三回転してから左折する。よく見れば後輪の下にわざとスリップさせるための氷が生じては消えている。高笑いと悲鳴が遠ざかっていく。

「この七〇〇〇回転への滑らかな加速! たまりませんわ!」

「ひいーっ! 誰かーっ!」

 静けさや、街に染み入る排気音。

 新九郎は帽子を深く被り直し、煙草に火を着けた。

 楽しみをふいにされた二ッ森凍の怒りと、助けを求める声を無視された早坂あかりの愚痴と、どちらがましかを伊瀬新九郎は天秤にかけた。そして後者を取った。伊瀬新九郎は、ふたつの選択肢から一方を選ぶことしかできない男なのである。

 しかし、である。

 二ッ森姉妹の、姉妹で完結しているかのような交友関係が広がりつつあるのは、いい傾向である。加えて、二ツ森凍が他人に刀を預けるのは稀だ。だから仕方ない。決して、氷漬けにされるのが怖いわけではない。

 煙を吐き、呟いた。

「悪く思うなよ、早坂くん」

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