10.何よりも大切な願いのために
「……花粉?」
「の、ようなものですね」ショグは刃物のように尖った機械の指先で硝子壜を弾いた。「よくできてますよ。生物の粘膜に吸着して、結構な長時間に渡って特定の化学物質を放出し続けるものです。人間に有効な薬ですと……少し専門的な話になりますが、よろしいですかね」
頭上で牙の生えた提灯のようなものがふわふわと漂っていて落ち着かない。
「聞かせてくれ」新九郎は腕組みで応じる。
「興奮側の、交感神経系に作用します。しかしこの交感神経系もややこしい仕組みをしておりましてね。興奮に作用すると言われておりますが、さらに加速と制動の系統に大別されます。この紅白草樹液は、制動側の受容体に作用し、遮断します。現象としては……少し下品な話になりますが、よろしいですかね」
「続けてくれ」
「性的興奮を惹起するものがないのに勃起する。普段は興奮を覚えない相手に興奮する。しかしそれは、制動が壊れているからです。つまり、内心では興奮しているが理性で抑えている相手に、手を出してしまう可能性がありますね。ここで流通しているものにも似たような薬はありますが、こいつは作用が劇的です。粘膜に吸着する担体のおかげで、じっくり効きますからねえ。たとえば夜の生活がご無沙汰になったご夫婦や、あと一歩でセックスに踏み出せない若いアベックには効果抜群でしょう。……どうしました、妙な顔をして。それは妙な顔ですよねえ。人間の顔のことはよくわからんのですが」
「すると効く仕組みとしては、鼻の粘膜か?」
「よくおわかりで。おそらくその経路でしょう。うっかり吸引したら、鼻腔をとにかく洗浄することです」
「僕はなんのために喉を……」
「どうしました?」
「いえ、こっちの話です」新九郎は咳払いする。「花粉のようなものとすると、受粉して種を作るためでしょうか?」
「いえ、それは違うでしょう。単に化学物質を放出するだけです。中に細胞のような組織はなく、分子を格納するとても細かい網目のようなものがあるだけですね」
「じゃあ周囲の生物を発情させるだけ? 一体どういう目的だ?」
「さあてねえ。わかりかねますわ。ナッソーってトカゲの化け物がこの草を見ると一直線に突っ込んでくるんでしょう。案外と、この物質は花の蜜で、ナッソーがミツバチなのかもしれませんぜ」
「噂は何か聞きませんか。種子か苗の取引があったとか、この植物の発祥星についての話とか」
「さあてねえ……」
新九郎は財布から紙幣を出して勘定台に置いた。「すみませんね。忘れていました」
「何ひとつ聞きませんね」機械の腕から機械の触手が生物のように滑らかに伸び、紙幣を先端に吸着して引っ込む。「聞かないというのが、妙ですね。知的生命体との関わりがなかったのかもしれません」
「すると厄介だな。あの時計を問い質しても何も出てこない……」
「ところで先生。お連れのお嬢さんは」
「ちょっとね。気持ちを察しそこねた」
*
ウラメヤ横丁を訪ねた翌日。
ろくに口を聞いてくれない助手に手を焼いた伊瀬新九郎だったが、言葉少ないながらも調査には協力してくれそうな彼女に安堵していた。しかし、いざ彼女を伴って銀座の画廊〈十夢捜家〉へと向かい、隣の骨董店の軒先で待っていた人の姿に唖然とする。
「ご無沙汰しております、伊瀬のおじさま」
袖口や襟周りにレースがあしらわれた空色の着物に革の肩掛け鞄とリボン飾りのついた靴を合わせる。髪は左右に分けて三つ編みにし、白いベレー帽が乗っている。雑誌の中から飛び出してきたような少女趣味に身を包んだ北條撫子は、はにかみ混じりに帽子を取って頭を下げた。
「撫子くん……?」
「わたしが呼びました。何かご不満でも」目線を合わせずにあかりが言った。
「わたくしもご一緒できて嬉しゅうございます。旦那さまのお仕事は存じておきたいですもの」
新九郎はううむと唸り、眉間に指を当てて言った。「言っておくけど、これで結構危険な仕事だ。どんな凶悪な異星人や怪物が出てくるかわからない。僕か早坂くんが逃げろと言ったら、すぐに安全なところに下がりなさい。いいね?」
「はい!」
見上げてくるきらきらした瞳。思わず目を背ける。
「あー……ちょっと警察の連中と相談してくる。ふたりとも、ここで待っててくれ」
「承知いたしました」
「はいはい。意気地のない……」
素直な撫子とやはりそっぽを向いているあかり。これでは針の筵だった。
柳並木が風に騒ぐ。新九郎は石畳の路地を渡り、画廊の斜向いにある喫茶店へ足を踏み入れる。
二階の窓際の席に見知った顔を認め、帽子を取った。
「ご足労申し訳ない、財前さん。門倉くんも」
「どういうつもりだ、探偵。現場に小娘をふたりも連れ込んで」
「おいおい駿ちゃん、小娘はねえだろ。ありゃ北條の孫娘だぜ」
「なんと」門倉駿也は窓際に身を寄せる。「なるほど、美しい娘だ」
「なあにが美しい娘だよ。お前さんは何事も堅いんだよ、駿ちゃん」
「門倉です!」
狸と蜥蜴こと、財前剛太郎と門倉駿也。今日はふたりともいつもの仕事着ではなく私服姿である。本来、彼ら東京警視庁はこの件の捜査から外されている。名目上は休暇という扱いであり、何か事が起こっても、偶然に居合わせたという体でまとめる腹づもりだった。
それにしても、ふたり揃って色付き眼鏡姿。見るからに怪しい。
「彼女らについては、端的に言うと、僕の不徳の致すところで……申し訳ない」
門倉が前髪を気障たらしく払う。「娘たちの身の安全は貴様の責任で守れ。今日は拳銃も携帯していないんだ」
「そうするよ……。一応確認ですが」新九郎は門倉の隣に腰を下ろす。「その権田という占い師というか預言者というか、単に浮浪者のような男が、ええと、なんですか。〈愛の伝道師〉に会ったのが、そこの画廊だと」
「ああ。浮ついた男でなあ」財前は無精髭の顎を撫でる。
「身分は?」
「土木工だ。私と財前警部で私的に少し調べた」門倉が手帳を繰りつつ応じる。「職場での評判は悪くない。仕事の方は。飲みの付き合いが悪いという評価が一致していた。過去に何度か詐欺に遭って借金を作っている。信じやすい性質のようだ」
「最近様子が変わったということは?」
「紅白草のことを語るようになったそうだな。しかし前々から、詐欺めいたものに傾倒して職場の人間に勧め目が覚めて反省することを繰り返していたようでな。つまり、いつも通りということだ」
「何か気になるのか、新九郎」財前が口を挟む。
「そんな男が画廊に来ますかね」
「それは俺らも気になってな。〈十夢捜家〉の方を調べた。しかし、若い芸術家の発掘に熱心な、まともな画廊だ。ちゃちな絵にありもしない霊験を騙って法外な高値で売りつけるような画廊じゃねえ」
「権田の方には私の方でここへ来る前に改めて話を聞いた。仕事中で、こちらも正式な捜査ではないからあまり突っ込んだ話はできなかったのだが……画廊を訪れたのは事実のようだ。銀座には、服を買いに来たとか。口説きたい女がいるそうだ」
「……どうも繋がらないな。〈愛の伝道師〉が画廊の関係者か出展している画家としても、権田との接点が今ひとつ弱い」
「画廊内で権田と接触した人物がいなかったか、訊いてみればいい」門倉が権田の写真を一葉、テーブルの上に置いた。「我々にできるのはここまでだ。権限としても、職能としても」
新九郎は写真を受け取る。「万が一の際は力を貸してくれ」
「貴様に手を貸すんじゃない。警察官の職務を果たすだけだ」
「まあまあ。そういきり立ちなさんな」財前が肩を落とす。「毎度のことで悪いが、頼むぜ、新九郎。なんなら例の黒鋼で暴れてくれても構わんぜ」
「相手は草と異星人です。いくらなんでも〈闢光〉を出すことはないでしょう」
そもそも、使わずに済むならそれに越したことはないのである。
しかし、席を立ってしまった。もう時間稼ぎはできない。
階下へ降りるだけで気が重い。店外へ出た途端に騒ぎ立ててくる蝉の声に、喧しいと怒鳴りたくなる。すると、何かに躓いた。
「や、これは失礼……」
幌を被って日差しを避けた似顔絵師だった。界隈に多い得体の知れない露天商のひとりだ。人間かどうかは半々だろう。
「お描きしましょうか。お時間取らせませんよ」とその男が言った。
「魅力的なお申し出だが、妙な草を根絶やしにするのに忙しくてね。またの機会にさせてもらうよ」
通りの向こうから飛ばされる助手の睨みには勝てない新九郎だった。
受難の多い街だ。関東大震災で何もかも崩れ、戦争に焼かれた。そして一五年ほど前には火を吹く大怪獣の襲撃を受けた。一九五九年のことであり、憲兵隊へ最新鋭の超電装が配備されるきっかけとなった。
「お爺さまが仰っていました。あの〈5号怪獣事件〉で、ようやく世間がお爺さまのお考えに追いついたと」
「戦時下でなくとも超電装を大量生産するあの老人の偏執的な考えか。確かに戦後、一時期超電装の時代は終わったと言われていたものが一変したきっかけだったが」
新九郎とあかりと、そして撫子は、画廊の壁に掛けられた一枚の絵を見ていた。
銀座の和光ビルを描いたものだった。ビルの隣には超電装。そして背後の青空には白い雲が描かれており、よく見ると、その雲は〈5号怪獣事件〉の際に現れた怪獣の形をしている。憲兵隊の超電装が闊歩する帝都の日常を切り取った風景画のようでいて、その背後にある潜在的脅威が表現されている。そして超電装の足元にいる人々は、皆一様に下を向いている。脅威を言い訳にした軍備増強への風刺だ。いかにも若手画家らしい。きっと自分よりも年下だろう、と新九郎は思う。三〇の新九郎にしてみれば当時の記憶は鮮烈で、同世代は皆帝都防衛戦力の拡充を支持した。だが今二〇歳なら、考えがリベラルへ寄るに決まっている。彼らは戦後生まれであり、怪獣災害というのは怪獣が歩いていないところなら無傷になるという特徴があるからだ。
煙草を吸おうと懐へ手を伸ばす。すると、横からあかりの平手が伸びてきて叩いた。
「駄目ですよ。煙でせっかくの絵が痛みます」
「確かに」
「あっ、あの方、ここのご主人じゃないですか? 権田の写真貸してください」
あかりは新九郎が取り出しかけた写真を引ったくると金縁丸眼鏡の主人の方へと行ってしまう。
「忙しない……」呟く新九郎。
「きっと、気を遣って下さってるのですわ」半歩後ろで撫子が応じる。
「気を?」
「わたくしと……新九郎さまが、ふたりになれるように」
振り向くと、撫子は慌てて目線をよく磨かれた床へ落とす。
意気地のない。最低。恋ってそんなに切実なんですか。卑怯ですよ。逃げてるだけ。あかりに投げかけられた言葉が、脳裏で次々と反響した。
新九郎は膝をついて帽子を取り、撫子を下から覗き込んだ。
「あのね、撫子くん。僕は、君と結婚することはできない」
撫子の見開かれた目が新九郎を見た。「新九郎さま……?」
「ごめん。毎度毎度、僕は怒りを言い訳に、君や君のお爺さまから逃げてばかりだった。君が諦めてくれることを期待していた。自分ばかりが楽をして、周りが都合よく動くことをただ待つだけで、嫌な役回りを引き受けない卑怯者だった。だから今度ははっきり言う。君と結婚することはできない」
沈黙があった。空調の唸りがやけに大きく聞こえた。
撫子の、長い睫毛が震えた。そして背を向け、言った。
「わけを教えてくださいますか」
「僕には、決して破ることのできない誓いがあるからだ」
「わたくしを愛してなくとも構いません」撫子は振り返る。両手の拳は親指を包むように握られていた。「飾り物の妻でも構いません。新九郎さまが振り向いてくださるまで、わたくしは全身全霊をかけてあなたさまに尽くします。ただ、お側に置いてくだされば」
「北條厳之助は、君と結婚した僕が北條重工の頭となり、僕の天樹への伝手を利用し、超電装を始めとする重工の武器を地球から他星系へ輸出するビジネスを目論んでいる。それはね、僕の妻だった人の最後の願いに反するんだ」
「前の奥様。翻訳師の?」
「そうだ。彼女は、天樹の監視官が乗った船との接触事故で命を落とした。その時、監視官……〈奇跡の一族〉は、この世界から失われようとする彼女の意識に、願いは何かと問うた。彼女は、この星と、この街の平和を願った。彼女のその願いを叶えるために、〈奇跡の一族〉は僕に星鋳物を与えた。だから僕は、今日もこうして怪しい星人を追っている」
「お爺さまのお仕事を手伝うことは、まかりならないのですか?」
「武器を売れば戦いも広まる。地球だけならば、そのような無限の拡大を前提にした巨大消費はいつか不可能になる。だから北條厳之助は、数十年先を見据えて宇宙に目をつけている。そうして力を得た者はやがて、武器を売るために戦いを広めるようになる。世界の平和。僕の信条。依子の願い。それらすべてを守るため、僕は君と結婚することはできない」
「ならわたくしは家を捨てます。北條の名も捨てます!」
「自分が馬鹿を言っていることは、わかるね」
撫子は紅の引かれた唇を噛む。「……わかりません」
「君は、今年で一五の女の子に過ぎない。早坂くんが家を飛び出してこられたのは、他人にない特別な才能に恵まれたからだ。君は環境に恵まれているが、それがなければ、君はとても可愛らしい、ただの女の子だ」
「ですが……」
聡い少女だ。わざわざ簡単な言葉や言い換えを使わなくても、伝えたいことは伝わっている。だが、頭の理解と心の納得は別のところにあると、わからない新九郎ではなかった。紅緒を見送った時の自分もこんな顔をしていたのだろうか、とふと思う。今年で一五。あの時の新九郎と今の撫子は、同い年だった。
「早坂くんに惚れ薬を手に入れるよう依頼したそうだね」
撫子はぴくりと肩を震わせる。「……はい。お願いしました」
「あれは極めて危険な物質だ。もしも星外品と知ってなお私的利用を画策するなら、星団憲章に則り僕は君を捕らえなければならない」
「同じことを、早坂さんから窘められました」
「ほう」
「わたくしが無理にお願いしたのです。早坂さんをお叱りにならないでください」
「そうするよ。……彼女の話も済んだようだ」
主人に話を聞いていたあかりが頻りと頭を下げている。
よいしょ、と呟きつつ新九郎は立ち上がる。歳を取ったな、と心中呟く。一五の夏は、いつの間にか遠い昔の出来事になってしまった。
撫子は下を見たままだった。
「……委細承知いたしました。縁談については、祖父に言って、破談にしてもらいます。ですがひとつ、お願いがあります」
帽子を被り、「なんだい」と新九郎は応じる。
「キスしてください」
「……うむ?」
「それでもう、新九郎さまには二度とお会いしないと誓います」
「いや、君、それは少し極端すぎる」
「わたくしは望みすぎでしょうか。はしたないことを……」
「いやいや、はしたないなんてことは」
「では!」
「いや、しかしね……二度とだなんて、僕はそんなつもりはないよ」
「もうお会いしません。わたくしが辛いのです」
しかし、と応じたまま新九郎は二の句が継げなくなる。
嫌でも紅緒のことを思い出した。彼女が、お隣のさくらちゃんだった最後の夜。祭囃子の聞こえるお社の裏で口づけを交わしたこと。あれは決して忘れず、二度と会わないという約束だった。
見上げる撫子。見下ろす新九郎。見つめあい数秒。
新九郎は首を横に振る。
撫子の目に涙が溜まり、踵を返して走り去った。
新九郎は、我知らず肩に入っていた力を抜いて、深々とため息をついた。
すると、すぐ横で冷たい声がした。
「……してあげればよかったじゃないですか」
「君、いつから」
「権田の目撃情報ですけど」写真を返して寄越しながらあかりは淡々と言った。「駄目ですね。倉橋さん……そちらの画廊のご主人が仰るには、こんな男は見たこともないと。客にはもちろん、ここを訪れた画家さんや彼らの関係者にも、この写真の人はいなかったそうです」
「妙だな。〈愛の伝道師〉どころか、権田もここへ来ていない?」
「そうなりますね」
「嘘をついている、というわけでもないだろうね」
「権田はみんなに知って欲しくてたまらないんですもんね。嘘をつく理由がないです」
「しかし、権田はともかく、伝道師の方の目撃情報がないのは頷けるな」
「どうしてです?」
「目立たないんだろう。街の各地で紅白草を植えても誰にも気取られないのだから」
「言われてみれば……」あかりが神妙な顔で腕を組んだ時。
画廊の扉が勢いよく開き、走っていったはずの撫子が駆け込んでくる。
「新九郎さま、早坂さん! 表へ!」
ふたり顔を見合わせ、頷く。ただならぬ雰囲気に、茶化す言葉は消え失せていた。
倉橋という主人に一礼して表へ出る。
「……なんと」と新九郎は呟いた。
一〇株以上の紅白草が、石畳を割って花開いていた。
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