17.自分だけの冒険

 一階は喫茶店。二階は鬼灯探偵事務所と、居室がいくつか。その居室のひとつで、早坂あかりは壁に吊るした浴衣を前に腕組みしていた。

「うん。これ。これにしよう」

「では日干しにしましょう」配管から軟体動物のように生えていた炎が言った。

 あかりが浴衣を持ち上げると、炎、フレイマーがとぐろを巻いてその浴衣を包む。時間にしてわずか数秒。炎がまた天井からの配管に引っ込む。あかりは浴衣に顔を寄せて香りを吸い込んだ。

「太陽の匂い」

「わたくしにはこんな生き方もあったのですね……」

 フレイマーは感無量といった様子で様々な正多面体の形を行き来している。

 日暮れからのお祭りに繰り出すのに、いつもの簡着物では味気ない。新九郎に相談すると、箪笥の中にあるのを好きに着ていいよ、と言われた。以前にも似たようなことは言われていたが、どうしても気が引けてしまっていた。あかりが使っている部屋は、元々新九郎の亡妻である栗山依子の書斎という話だった。しかしそれにしては寝台が大きいので、きっと、夫婦の寝室だったのだ。

 箪笥を開ければ、女物の洋服、簡着物、和服。樟脳の匂いがしたが、ひとつも虫に食われていなかった。以前は新九郎自ら手を入れていたらしい。だが、今は見かねた大熊雪枝がその役目を買って出ているという。

 その中にはよそゆきの浴衣もある。最近では、脱ぎ着に便利な簡着物の方が一般的になりつつあるが、ハレの時にはやはり和服がいい。

 綿麻素材の、紅白の市松文様。白い部分には縞模様。帯は同じ素材の黒いものを選ぶ。南天を象った金属の帯留め飾りもあったので着けることにする。浴衣の柄は少し季節を先取りするのが粋だと聞く。しかし、少しとはどれくらいなのだろう。ううむ、と首を捻って、伸びた髪が肩に触れた。

 鏡台の前に座る。少しくらい髪が伸びて、特級異星言語翻訳師の証たるヘドロン飾りを提げていても、鏡に写るのは相変わらずの、仙台青葉の伊達娘。お転婆ばかりしていて、時々神童と言われることもあった、首の据わらない小娘だった頃の自分と、何も変わっていない。

 でも、きっと中身は変わっている。

 だったら、外見を中身に合わせてやる。

 あかりは鏡台の引き出しを開く。色々出てくる。化粧下地。口紅。目元を飾る奇々怪々な粉の数々。別の引き出しを開く。瓶入りの香水。練り香水。筆や綿の類。小箱に入った小町紅。

「……わかるか!」

 でも口に紅だけは差してみたい。少しだけ、うっすらと、その冒険に誰も気づかないくらいに。

 もう一段引き出しを開く。髪留めやあまり気取らない装身具がずらりと並ぶ。その中のひとつに目が止まり、拾い上げる。

 撥条のようなものがないのに、ある一点を押せば留めるとき、開くときに変形する金属の髪留め。同じ素材の飾りは、たくさんの花弁を持つ見知らぬ花の形をしている。

「これって……」

 ウラメヤ横丁を訪れたときに、新九郎が贈ってくれて、あかりが突き返してしまったものと同じだった。

 だが、これは花開いている。

 一〇年かけて少しずつ開くのだ、と新九郎は言っていた。

 そして、これは今は亡き、栗山依子の持ち物だ。一〇年前に贈られたということだ。

 もしや。

 もしや、目についたものを適当に買ったものではなく、彼はあの場にこの髪飾りを売る出店が立つことを知っていたのではないか。

 贈ったのは、花が開くところを隣で見守りたいという意味なのではないか。

 一〇年後も一緒にいたいという意味なのではないか。

 彼は、本当に大切な人にはこれを贈ることにしているのではないか。

 やけに暑い。耐えかねて衿を摘んで胸元に風を送る。

「ま、まっさかー! まさか! ないない!」

「どうされました、早坂さま。おや、少し部屋を冷やした方が?」

「なんでもない!」

「そうですか。わたくしは空調も満足にできない落ちこぼれの火……」

 あかりは息を整える。

 謝らなくては。

 伊瀬新九郎の考えはともかく、彼は適当にあの蕾の髪飾りを贈ったわけではない。あの時大声で詰ったことを、結局今まで謝るどころか、あたかも何もなかったかのように振る舞っている。彼にしてみれば、小娘の癇癪が収まったくらいの小さな事件なのかもしれない。でも、あかりにとっては違った。

 唇に紅を差した自分を想像する。その冒険に気づいて欲しい人が、ひとりだけいる。

 あかりは、花開いた髪飾りを手に、鏡台から立ち上がる。


「違う。そうじゃなくて、ううむ……悪くないがちょっと違う。いやさっきの方がよかったような……」

 次々と変わる窓の形を前に、伊瀬新九郎は腕組みで眉間に皺を寄せていた。

「構いませんよお。たっぷり悩んでください」と技術者の男が言う。クロックマンの手配で鬼灯探偵事務所を訪れた、異性砂礫の電文技師だ。「何せ変わるのは一瞬です。在庫にある文様ならいくらでも組み合わせられますぜ」

「せっかくなら丸だ。丸窓がいい。しかし……」

「こんなんはいかがでしょ」

 丸窓に金属で笹と月を象った装飾が施される。右端にヒンジがあり、丸窓が丸ごと外へ開く仕掛けだ。

「いや、こうじゃない。こういうんじゃなくて、もう少し幾何学的な……」

「ではこれは」

 今度は水平と垂直の直行する線が組み合わされた。一体のようで、七三分けの観音開きになる。

「ううむ、もうちょっと斜めというか、三角を取り入れたものは……」

「ではこれで」

 富士山と太陽を単純な線で表現したものに切り替わる。太陽のところに取っ手がつけられていて、引っ張ると左上半分が開く。

「惜しい。かなり惜しい。しかし……」

 まだ納得いかない新九郎だったが、ちょうど落ち着けとばかりに事務所の電話が鳴った。技師に詫びて、電話を取る。

 相手は紅緒だった。

「これはこれは、一体どういったご用向きで……」

「そんなに腰が低くちゃ、気味悪いですよ、先生」

 若いがよく心得た技師は部屋の外へと出ていく。新九郎は机の端に腰を預けて言った。「いえ、先日はひどくご迷惑をおかけしましたので。お詫びに伺おうと思っていました」

「いいってことです。揚羽が白状しました」

「揚羽さんが?」

「ええ」ため息にしては鋭い息遣いが挟まる。煙管だ。「あてつけだそうです」

「あてつけ?」

「そう。あんたとあたしが、いつまで経っても恋人とも何ともつかない変な関係だから。あんたの方を誘惑して、揺さぶってやろうと思ったんだそうです」

「確かに、彼女はそんなことを言っていました」

「なんと?」

「はっきりしないのが悪いんよ、と」

「はっきりさせましょうか」

 受話器を持つ手が汗で滑った。「それは……こんな電話で話したくありません」

「逃げ口上がお達者ですこと。今夜、八幡さまのお祭りには?」

「これから支度をするところです」

「では会場でお会いしましょう」

 言うだけ言って、一方的に電話は切れた。

 受話器を置き、煙草に火を点ける。

 非常に覚悟のいる事態になった。ともすれば超電装で命のやり取りをするよりも。

 よりによって紅緒との、これからの話。よりによって祭りの夜。一六年前の別れを思い出さずにはいられない。

 もう考えたくないというところに、折よく技師の男が戻ってくる。どうしてか上機嫌だった。

「いいの思いつきましたよ。ちょいとお待ちください……」男は入力端末に何事か打ち込む。機械言語が並ぶ画面が何を意味するのか、新九郎にはわからない。「よぉし。これでどうでしょう、旦那」

 新九郎は口笛を鳴らした。

 丸窓の中に逆三角形、その中に正三角形。分割された三個の逆三角形がスライドして開く仕掛けになっている。

 逆さ三ツ鱗だった。

「そこの入口の看板にあった紋を真似てみたんです。どうです?」

「百点満点だ」と新九郎は応じた。

 これで毎日逆さになった北條の紋を眺めて、連中の不幸を祈ることができる。

 そしてこれからは、毎朝目を覚ますたびに、自分が何者かを思い出す。同じ逃げるでも、目を背けるのと睨みつけるのは違うのだ。

 意匠はともかく、その裏に込めたものは、誰にも気づかれなくてもいい。自分だけのこだわりであり、些細な冒険である。だが、勘のいい彼女には、気づかれてしまうかもしれない。

「じゃあ私はこれで。お代は天樹の方から頂いてますから……」

「下で珈琲くらい飲んでいってくれ。僕の名を出してくれればいい」

 ご馳走になります、と言い残し、男は道具を手早くまとめて立ち去った。

 すると代わって、勘のいい助手、早坂あかりが顔を覗かせる。

「あの、先生……うわ、窓、窓!」

「悪くないだろう?」我知らず得意満面の新九郎。「どうした。着ていくものは決まったかい?」

「その話と……あと、謝りたいことがあるんです」

 あかりの手の中に、形状記憶が花開いた銀の髪飾り。

 書斎机の上にはくしゃくしゃになった紙袋。逆さ三ツ鱗の窓から、雲をすり抜ける夕日が差し込んでいる。

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