18.金魚が好きなあの子
上野からはアメヤ横丁を抜けた少し先。御徒町の、学校に隣接した小さな公園の隅に、これまた小さな神社がある。界隈の住民には八幡さまと呼ばれており、小さいながらも祠があり、鳥居があり、庭園がある。
元はと言えば、この地域はその名の通り馬に乗せてもらえない下級武士たちの住居が密集していた地域だ。しかし現在は住宅街。瞬時建築によらない古い家屋が今も数多く残っている。戦中、第三帝国の放った彗星爆弾による苛烈な空襲に晒されても生き延びたのは、関東大震災後の復興に際し火除けのための広い土地をいくつも確保していたからだと言われている。神社のある公園も、その隣の学校も、多くの家屋と人命を戦火から守った陰の英雄である。
そして〈5号怪獣事件〉の際にも、この公園は同じ役割を果たし、暗闇から這い出したような巨大怪獣と戦う星鋳物〈仰光〉に声援を送る多くの市民がここに集った。何を隠そう、当時一四歳だった伊瀬新九郎もそのひとりである。
「確かに人死には出ました。戦争から復興したばかりだった街も滅茶苦茶になった。でも、希望はありました。師匠の〈仰光〉は、本当にその名のごとく、僕らが仰ぎ見る希望の光でした。人の形をしたものには、そういう不思議な力があるんです。まさに八幡神ですね。骨組みに使われている〈奇跡の一族〉の遺体のせいかもしれませんが」
「それであんたも、いつかああなりたいと思ったわけですか」
「そうかもしれません」片手の煙草から灰がぼとりと落ちた。「あなたがいなくなって、すぐでしたから。僕には希望が必要だった」
祭囃子が鳴り響く公園。並ぶ出店からは暖色の照明の光と、蒸奇発電機のごうんごうんという駆動音。石造りの鳥居の横に、白と暗い緑の縦縞模様の浴衣にいつもの帽子を被った伊瀬新九郎が立つ。その隣には、新九郎の着物を「昆布みたいですねえ」と笑った紅緒の姿がある。今日は彼女にしてはものすごく地味で簡素な、黒字に金で幾何学文様が描かれた浴衣姿だった。それでも革の小さな鞄を斜めがけにしているのが彼女らしい。
「別にこの星の平和を守るなら、ただの探偵でもよかったんです。ですが、あの時〈奇跡の一族〉が示した可能性の枝のうち、僕と最も調和していたのは、特定侵略行為等監視取締官としての道でした。少なからず、ここで見上げた師匠の星鋳物の影響だろうと思います」
「人間、こうだからこう、なんて簡単に説明できやしませんよ」
「仰る通りです」新九郎は煙草を捨てた。「本題は」
「ちょうど、あの子くらいの歳だったんですねえ」と紅緒ははぐらかす。
彼女の目線の先には、女学校の友達と一緒に出店の射的に興じる早坂あかりの姿がある。まとめ上げた髪を、蕾の飾りがついた銀色の髪飾りで留めている。その後ろには二ッ森姉妹。妹の方があかりのために何かいかさまをしようとしたらしく、姉に拳で殴られている。
「紅緒さん。僕もあなたに、伝えなきゃらなないことがあります」
「ああ、そういうのはいいんです。はっきりさせたいってのは、業務連絡みたいなもんです」
「情報料の滞納でもありましたか。払いはちゃんと……」
「できたような気がするんですよ」
「なんの話です?」
「いえね、先日のことで」紅緒は横目でちらりと新九郎を見上げた。「あんたにしちゃ、随分と向こう見ずで無鉄砲な夜でした。そういうところに卒がないのが、あんたの苛つくところだったんですけどねえ」
「え、まさか」新九郎は頭の中に暦を思い浮かべる。「……早すぎやしませんか」
「ま、女の勘ってやつです」紅緒は自分の下腹部を撫でる。「父なし子ってのは寂しいもんです。ですからあんたが、あの長屋の葉隠幻之丞になってあげてください」
「はい? いや、その、僕がその、あれなら、その……身の処しようといいますか、責任といいますか甲斐性といいますか、そもそも、僕にとってあなたは……」
「だァーれがあんたなんかの嫁になってやるもんですか。馬鹿言わんでください」
「……は?」
「いい間抜け面ですこと。一本吸って、気ぃ沈めた方がよろしいんじゃありませんか?」
「そうします」
新九郎は煙草を取り出し、ライターで火を点ける。ひと息吸い込み、煙を吐く。
すると、紅緒も同じように紙巻きの煙草を手にしている。
「火ぃくださいな、先生」
「ええ。どうぞ……」新九郎は咥え煙草で懐に手を入れる。
すると、紅緒の手が伸び、新九郎の衿を引いた。
互いに顔を寄せ、煙草の先と先が触れた。紅緒の顔は、煙草を持つ掌で半ば覆われている。まるで扇で顔を隠すかのよう。新九郎は息を吸い込む。煙が肺に流れ込んでくる。紅緒も同じように吸い込む。煙草の先端が一際明るい橙色に燃え、煙草から煙草に火が移る。灰が落ちる。煙が漂う。そうしてひとつの曖昧さが失われる。客寄せと子供の騒ぐ声。もう二度と、この女と唇を重ねることはないのだと気づく。人は時を遡ることはできない。だが未来を知ることはできる。その代償に、過去が思い出になる。一瞬ごとに、今は失われていくと知る。次に彼女の本当の名を呼ぶのは、何十年後になるだろう。
衿を引く手が離れた。新九郎は煙草から口を離し、短い呼吸を繰り返す。
紅緒は踵を返した。新九郎は追わなかった。だが数歩進んだところで、彼女は振り返った。
「どうしました、先生?」
「いや……少し、煙が目に染みました」
なんですか、と紅緒は笑う。その中に確かに宿る少女の彼女が、新九郎の心臓を鷲掴みにする。
祭囃子が聞こえる。紅緒は言った。
「金魚掬いでもいかがです? あたしは金魚が大好きなんですよ」
*
同刻、〈純喫茶・熊猫〉に嘆きの金属音が響き渡る。
「拙者のことをお忘れではござらぬか! 薄情でござる! 薄情でござる!」
声の主は壁に磔にされた機械の生首。名を、呂場鳥守理久之進という。
その生首の隣で、小さな龍の形をした炎が身動ぎした。
「所詮我々は脇役の身。大人しく引きこもるのが似合いです……」
炎は、名をフレイマーという。
店主も家主も祭りに繰り出してしまい、置いてきぼりを食った彼らは普段のいがみ合いを棚に上げ、がらんとした店内を並んで見渡していた。もちろん、互いに不本意、致し方なくである。
「しかし拙者は、拙者は、刀は置けども心は錦。こう磔にされていては侍の魂が錆びついてしまう」
「ならその頭から出てくればよいではございませんか」
「それはまかりならぬ。もはや侍ではなくなってしまうではないか」
「外へ出たくない気持ち、とてもわかります……おっ?」
龍が鼻先を天へ向けた。
音が尾を引き、炸裂した。色とりどりの光が路地を照らし、窓硝子に乱反射する。
「これは?」円な瞳が明滅する。
「ああ、あなたは知らないか。花火ですよ」
「火!?」生首が異音を鳴らす。さながら夏の怪談の一幕である。
「知能も持たず、誰も焼かず、ただ美しいだけの火です」
「文明開化でござる……」と応じた理久之進の前で、龍だった炎が球体へと形を変える。
そして数秒して、ささやかに、花のように炸裂した。
次から次へと、店内のあちこちに開く小さな花火。どこからともなく声がする。
「こんな感じです」
「……美しさは認める。認めるが、なぜ人類はこのようなものを」
「祈っているのでしょう」花火の中を泳ぐ金魚の姿になったフレイマーは、赤い尾を翻して言った。「この星の人々に、幸多からんことを」
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