14.襲撃

 明くる日の朝、鬼灯探偵事務所にライターを開く小気味いい金属音が響いた。その音の主は、もちろん私立探偵、伊瀬新九郎。書斎机を挟んで差し向かうのは、早坂かをりだった。

 いつもならば、客は応接椅子に座らせ自分も向かいに座るのが新九郎の習慣である。だが今日は、かをりを立たせ、自分は窓辺の書斎机で煙草を吹かしている。それは彼女がもはや客人でも依頼人でもないからだった。

 そのかをりは、滞在中では初めての和服姿。モダンガアルの影はなかった。

「ご滞在は今日までの予定でしたね、かをりさん」

「ええ。あかりには? 姿が見えないようですが……」

「話しましたよ」目一杯煙を吸い込み、吐き、新九郎は続けた。「回りくどいのはやめだ。結論から入りましょう。僕は、彼女をご実家に帰すつもりはない。彼女も帰るつもりはない。これで終わりです」

「ですが、それでは……」

「ええ。彼女の身には、これからも、これまでと同等かそれ以上の危険が降りかかることでしょう。ご実家の諍いは気の毒だが、ご長兄の性根を叩き直すかあなたのご主人に心変わりを促すか、どちらも難しいなら小作に土地を分けてやるのもいいでしょう」

「そんな勝手な!」

「かをりさん。あなただって、腹の底では妹に勝手をさせてやりたいと思っているはずだ。何を気色ばむことがありますか」

「ですが守り切る自信がないからと、だからあの子の安全を一番に……」

 遮って新九郎は言った。「事件屋稼業の探偵に必要なものはね、他人を巻き込む能力なんですよ。土台自分ひとりでできることは少ない。たとえば僕は……」窓辺に立て掛けた刀を横目で見て、新九郎は続ける。「こんなものを持ってはいますが、腕っぷしを使うことは基本、仲間に任せています。情報屋にも頼っていますし、時には警察とも手を組んでいる。物品が必要になれば蛙にまで頼っています。彼女はね、僕よりも仲間作りが上手いですよ。誰もが彼女に構うし、彼女に力を貸したがる。人徳でしょうね」

「なら放っておけばいいと? 私は姉です。放っておくことなんてできません」

「彼女が窮地に陥れば、必ずどこからか助けが駆けつけます。あなたが、内心では彼女を応援したいのに連れ帰ろうとするのは……」煙を吹いて新九郎は告げる。「心の天秤の一方に、嫉妬が載っているのかな」

「私だって、あの子がここにいられるなら!」書斎机に詰め寄って、しかし急に熱を冷ましてかをりは言った。「……そうですか。よく、わかりました。あなたは、あの子の一番大切な部分を理解されてません」

「まあ、見ていてください。彼女は今、岩城彌彦という男の住居を探っています。きっと無事に帰ってきて、この街で生きる資質と能力をあなたに示すでしょう」

「あの子ひとりで?」

「僕はちと忙しくてね。それに、彼女はひとりではありません。この街の至るところに潜む電脳遊人も、かつては侵略者だった魔水銀も、そのへんの火や犬も、彼女の……」そこまで言って、新九郎は眉を寄せた。

 何かがいる。

 何かが潜んでいる。

 それを察知することができたのは、若き日に常人離れした破戒僧・葉隠幻之丞に鍛えられたからであり、警察に身を置いていた日々の賜物であり、星鋳物と共に数々の修羅場を潜り抜けてきたからだった。赤々と燃える煙草を指先に挟んだまま、窓辺の刀との距離を目で測る。

 果たして、慌ただしい足音がして、事務所の扉が開いた。姿を見せたのはロイド眼鏡の染髪男。息せき切った〈純喫茶・熊猫〉店主、大熊武志だった。

「おい新九郎! やべえぞ、下に……」

「上にもいるな」

 窓の向こうを影が奔った。

 下がれ、とかをりに怒鳴り、手を伸ばして刀を掴む。同時に、逆さ三ツ鱗の窓が粉々に砕け散った。そして外から飛び込んでくる、機械の脚を持つ者。すわ〈下天会〉の全電甲フルシェルドか――身に染みついた内目の前の敵を切り捨てるのに最も適した型を繰り出そうとした時、新九郎は目を丸くする。

 金ボタンの軍服を身に纏った、人間の子供だった。早坂あかりとそう歳も変わらない少女だ。

 新九郎は居合の代わりに、右手の煙草を指先で弾いた。

 吸いさしの煙草が回転しながら、その少女の胸元へと飛ぶ。軍服の少女は難なく弾くも、所作が一瞬遅れる。その間に、新九郎は書斎机に片手をついて飛び越える。そして同時に、廊下から迫る軍靴の足音と、刀の鯉口が切られる音を聞いた。

 振り向きざまの抜刀。だが、新九郎が刀を抜き払うよりも迫る男の方が速かった。

 鋼と鋼が火花を散らした。半ば鞘に収まったままの新九郎の刀が、鋭く正確な上段からの打ち込みを受け止めていた。

 整髪料の香りが鼻についた。

「あなたと真剣で立ち会いたくはなかったな、

「それは私も同じだ、伊瀬新九郎くん」

 筋電甲に置き換えた両手を革手袋で隠し、憲兵隊機甲化少年挺身隊を率いる傑物。いつも少し多すぎる整髪料で髪を固めた、鷹の目を持つ男、沖津英生。だがその手に握られているのは、船の模型を詰めた硝子壜ではなく、研ぎ澄まされた刀だった。

 剣を修める者はもはや軍人でも数少ない。ゆえにその腕前は、彼の揺るぎない正義の証だった。

「手向かうな。私とて、君に手傷を負わせたくはない」

「全く同感ですな、大尉どの!」

 刀を押し返し、ようやく鞘を払う。飛びかかってくる筋電甲オートシェルの少女に鞘を投げつけ、沖津の迷いのない袈裟懸けの打ち込みに刀を滑らせる。床の上を前転しながら、新九郎は胸元の流星徽章を叩いた。そして現れた硝子の蒸奇封瓶オルゴノイド・カプセルを床に叩きつけた。

 黒い煙が渦を巻き、一瞬で寄せ集まって刺々しい黒犬のような生物の形を取る。

「怪我はさせるなよ」

 応えて〈黒星号〉が吠え、挺身隊の少女の前に立ち塞がった。

 割れた丸窓がひとりでに寄せ集まり、元の逆さ三ツ鱗に戻る。

 切先と切先が触れる寸前の間合いを保ち、男と男、白刃と白刃が部屋の中で睨み合い、揺れ動く。

「武志、かをりさんを頼む」と新九郎。返事を待たず、正面の沖津に言った。「理由くらいは聞かせて欲しいものですね」

「君には、外患誘致の疑いがかけられている」

「外国勢力との共謀? 僕が?」

「君は手強いからな。捕縛には通常の憲兵ではなく、挺身隊と私が当たることになった」

「庇ってくれたわけですね」

「こんなことでもなければ、君は刀を抜かんだろう」

「公私混同も甚だしい」

「君が言うかね」

「ちなみに」新九郎は一歩下がる。「どの国です。僕が誘致した外患というのは」

 すると、少女の方が叫んだ。「しらを切るな、天樹の狗め!」

 しかし沖津は冷静だった。「英国だ」

「英国?」新九郎は刀を構え直す。「確かに天樹を通じて〈GR〉の連中に協力要請はしたが」

「それだな。数日前に千島で英国の空中要塞による領空侵犯があった。緊急発進し通信を試みた空軍の機体に、彼らは君の名を出して応じたそうだ」

「なるほど」新九郎は刀を逆手に持ち直し、ゆっくり屈んで床の上に置いた。「なら、僕があなた方軍と敵対する理由はない。……戻れ、〈黒星号〉」

 〈黒星号〉は寂しげに鳴き、現れた時と同じくらい唐突に煙に還って新九郎が流星徽章から取り出した瓶のの中へと戻った。

 沖津は刀を納めた。「悪いが拘束させてもらう。手ぶらでは上が収まらんのでな」

「そんなことだろうと思いましたよ」ちらりと挺身隊の少女を見て新九郎は言った。「あなたが本気なら、懐刀の小林くんを連れてくる」

「やつには休みをやった」手錠を片手に、沖津は嘆息する。「君のところの助手とデートだそうだ。賭けてもいいが、小林の勘違いだ」



 いわゆる帝都八百八町の南端、品川は仄かに潮の匂いがする。埋立地が今より広がればこんな空気も様変わりさ、と気取った探偵が言っていたことを、その助手、早坂あかりはふと思い出した。

 四十七士の墓がある泉岳寺の横を抜け、四〇〇年前は海岸線だった幹線道路を折れて坂道を登る。そのまま進めばかの〈5号怪獣〉の初回上陸地点があるのだという。

「へっくし」と隣を歩く少年がくしゃみをした。

「何、風邪?」

「いいや、誰かが俺の噂してやがる。悪い噂だ。間違いねえ」

 洟を軍服の袖で拭う少年は、機甲化少年挺身隊・二番隊隊長を務める、小林剣一である。毬栗のような頭が、今日はいつにも増して逆立っているように見える。

「そういえば、なんで軍服? 今日、お休みじゃなかったの?」

「お前だって制服だろ、それ」

「それは、その……一応、大学の先生とか訪ねるし、正装の方がいいかなって」

「俺も一応任務だからな。そう、任務だ。俺は隊長に言われたから来た。任務だ」

「沖津大尉は小林には休みをやるって言ってたけど……」

「えっ、つまり、これは任務じゃなくて、じゃあなんだよ。じゃなくて、えっと、で、で、……」

「ありがとうね。お休みなのにわたしの仕事に付き合ってもらって」

「仕事。そ、そうだよな! 仕事!」

「ごめん。迷惑だった?」

「まさか。お前の頼みなら断らない!」

「あー……特級異星言語翻訳師リンガフランカーだと断りづらいとか? ごめんね。そんなつもりじゃなかったんだけど……」

「いや! 市民を守るのは帝国軍人の責務だ! お前も市民だからな!」

「怪しいけどね。実家に帰らされそうだし」

 小林は目を丸くした。「は? なんだよそれ」

「色々複雑なんだよね。わたしの実家」

「田舎で、異星言語翻訳の仕事とか、あんのか?」

「あるわけないじゃん」

「そっか」

 肌寒い風が色づいた落ち葉を運んでくる。隣を歩く小林の足音は、左足が筋電甲なので左右で違う。それが葉を踏んで、さらに音を複雑にしていく。向かう先は、岩城彌彦、という元帝大教授の自宅だ。

 岩城の存在を見出したのは、伊瀬新九郎が〈松濤トゥルーアース会館〉地下で撮影した写真を見た井端彩子である。街工房の肝っ玉娘でありながら帝大の工学部を卒業した才媛としての顔も持つ彼女は、岩城の講義を受けたことがあったのだ。

 しかし、帝大を訪ねると、数年前に退官したとのこと。当時の自宅は荒れ果てており、近所の住民に訊くと「ご苦労の多い先生だったからねえ」と声を小さくしていた。

「本当なのか? 異星人に身柄を狙われてたっての」小林は唇をヘの字にする。

「周りの人は被害妄想って言ってたけどね。奥さんとお子さんも出て行っちゃったみたいだし。それで広いお屋敷を出て、研究室代わりの別宅だった今の家に移り住む、と」

「大学の先生って儲かるのなー。なんでそんなに家持ってんだよ」

「冷え切った家庭だったんだよ、たぶん」

 研究に没頭する男。顧みられない妻と子。広い屋敷にろくに帰らず、大学と自前の研究設備を整えた別宅ばかりを往復する。たぶん、別宅にはそれなりの関係になってしまった女性がいる。

 ううむ、とあかりは腕を組む。正鵠を射ている自信はあったが、下世話な発想が誰の影響なのかがあまりにも明らかなので、納得がいかなかった。

 やがて、坂の中腹に西班牙スペイン様式の白い洋館が現れる。門から緩やかな上り坂の車寄せがあり、玄関への視界を遮るように一本、立派な広葉樹が植えられている。見上げれば、やや赤みのかかった瓦の屋根と、曇天へささやかに伸びる煙突。玄関の左右は太い柱でアーチが形作られ、一対の希臘ギリシア調の飾り柱が正面に並ぶ。一方、雨の多い気候を反映してか、軒は欧州らしからぬ張り出しをしている。

 人影はない。だが門から中を覗き込み、小林が言った。

「人の手が入ってる。住んでるな」

「そうかなあ。岩城って人、松濤の包囲の中にいるんじゃないの?」

「なら落ち葉を掃かねえ」

「……確かに」

「でも車は見当たらないな。歩いてんのか?」

「こんな立派な車寄せがある家なのに?」少し考えてからあかりは続ける。「お手伝いさんが管理だけしてるとか。で、そのお手伝いさんといい仲になっちゃったとかで……」

 小林は引きつった笑みになる。「お前、変な小説の読み過ぎだよ」

「んなっ」

「それかあの探偵に毒されてるよ……」

 そして呆れ顔のまま、小林は無造作に電気式の呼び鈴を押した。

「うわ、ちょっと、なんで押すかな馬鹿」

「馬鹿ってなんだよ、俺は阿呆かもしれねえが馬鹿じゃねえ」

「じゃあ阿呆、こっちは岩城を追ってるの!」

「車がないなら逃げるにしても徒歩だろ。俺なら追いつける」

「この筋電馬鹿!」

「だから馬鹿じゃ……」と小林が応じた時、玄関の扉が開いた。

 あかりは慌てて小林を茂みへと突き飛ばす。

 出てくるなら使用人の女性だろうと踏んでいた。だが、現れたのは、厳ついやくざ者の男だった。それに、防水箱の中に備えられている通話機を使わず、直接人が現れる。

 つまり、この邸宅の設備に慣れていない人なのだ。

 あかりは深呼吸する。

 帝大は外れ。帝大に勤めていた時の自宅も外れ。今度は当たりだ。

 岩城は〈下天会〉に協力している。その〈下天会〉は〈レッドスター・ファミリー〉の支援を受けている。その岩城の自宅に滞在しているやくざ者。間違いなく〈レッドスター・ファミリー〉の手の者だ。

 男が近づいてくる。何も知らない女学生の笑顔を作りながら、あかりは考えろ、と自分に言い聞かせる。

「護衛か、監視だ」とあかりは呟く。「岩城氏はここで、〈下天会〉のための何か大事な仕事をしてる。〈レッドスター・ファミリー〉は、岩城氏の仕事を急かしてる。世間は岩城氏と〈下天会〉の関わりを知らないし、〈下天会〉は先生が顔を見たとしても岩城彌彦を特定するとは考えてない。本人がここにいる。松濤じゃなく。なぜ?」

 横目で茂みを見る。あろうことか、小林の姿が消えている。

 この切羽詰まった時になぜそんな勝手を、と言ってやりたくても本人がいない。やくざ者はもう、門を挟んで目の前だった。

「学生さんか? 岩城先生ならここにはいねえよ」

「あのっ、わたし、上野中央女学校の、は……田村景と申します!」眼鏡の友人に頭の中で詫び、あかりは続けた。「先生の論文を拝読しまして、ご在宅でしたら、ご質問したいことが……」

「だからいねえって言ってんだろ。帰んな、お嬢さん」

「ですがどうしても、わたし、先生の論文に感銘を受けまして、素晴らしい発想に目から鱗が落ちるようで……」

「帰れっつってんだろ! 目ン玉落とされてえか!」動物園の猛獣のように門扉を鳴らして怒鳴る。

 その頭上から木の葉が舞い、影が差した。小林だった。やくざ男が反応する間もなく、木の上から舞い降りた小林の鉄拳が、男の脳天を打った。思わず目を瞑っても、鈍い音が聞こえた。

 何か一語発して男は昏倒。安物の偽装皮膜ばけのかわが雑光を発してただの布切れになった。

「な、な、なんてことを」

「いちいち回りくどいんだよ。下手な嘘吐いたってすぐバレんだろ。同じだよ」絶句するあかりを前に、小林は内側から門の鍵を外した。「行くぜ。岩城がいるなら引っ捕らえる」

「だからってこんな……」

「お前の推測が当たってるなら、包囲されてる松濤は囮でこっちが本命ってことだろ。いや、松濤は時間稼ぎか? ともかく、岩城を捕まえればわかる。急げ」

「急かさないでよ」

「いや急がねえと気づかれて多勢に無勢になんだろ」

「自分のせいじゃん!」

「うっせ。黙ってついてこい」右袖を捲り、顕になった筋電甲を撫でて小林は言った。「機甲化少年挺身隊の実力、見せてやるよ」

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