4.蚊帳の外
北へ南へ。東へ西へ。新九郎は〈カンバー信販〉の行方不明になった債務者の一覧表を手に帝都を駆けずり回る。時に怒鳴られ時に泣かれ、人間の負の感情を次々とぶつけられる。まったく人の不幸にはそれぞれの形がある。ある者は事業の失敗、ある者は友人の借金の肩代わり、ある者は浪費でまたある者は病の治療費のため。事情を聞くにつけ彼らの憂鬱が心の中に降り積もるようだった。
常にない多忙が心地よかった。考えるべき大きな課題から目を背けることができるからだ。
家族ごと雲隠れした男。家族に勘当された女。主をなくした部屋。そして死体。単なる〈カンバー信販〉の取り立て役組員の怠慢の尻拭いが半数以上だった。
だが、明らかにそうでない場合もある。
「宇川恵介。周辺住民への聞き込みによれば、この男は数年前まで特に金に困っている様子はなかったようだ。それが急に自宅周辺に借金取りがうろつくようになる。商売をしていたわけでも、金遣いの荒い肉親がいたわけでも、女郎屋やキャバレーに通い詰めていたわけでもない。普通の清廉な勤め人だ。それが、ある時から急に、アパートの隣近所に妙なビラを撒くようになった。昨年末のことだ。〈カンバー信販〉からの多額の借り入れと時期は一致している」
「〈下天会〉への入信か」と応じたのは、警視庁異星犯罪対策課の若手刑事、陰で蜥蜴と渾名される門倉駿也である。「しかし探偵、なぜ貴様が行方不明者の調査などしている」
「色々とわけありでね」煙草片手に新九郎は応じる。あからさまに嫌そうな顔の門倉を眺めるのが楽しい。
有楽町。小綺麗な地下飲食街の、警察関係者の御用達となっている〈喫茶 ロイヤル〉である。多くの刑事たちは、ここで外部の情報提供者や記者たちと接触する。目的は様々である。捜査の手掛かりを得ることもあれば、袖の下を受け取ってスクープを流してやることもある。ないしは、並ぶ店のうち新聞社の御用達になっている店で接待を受けるのだ。新九郎の場合は、天樹と警察の橋渡しが必要となれば、ここに財前と門倉を呼び出すのが常だった。
「今日は、財前さんは?」
「別件でな。上に呼ばれている」壁や調度に染みついた煙草の匂いに顔をしかめつつ、門倉は手帳を開いた。「私たちもそのリストを元に調べた。たとえば、この男。渡部康徳。役員を勤めていた会社の金を使い込み、穴埋めで借金を作ったようだ。その使い込んだという金の行き先を、縁を切ったという息子が怪しい宗教団体と証言した。〈下天会〉だ。他の行方不明者も、似たりよったりの不幸だな」
「不幸という結果が同じなだけさ」新九郎は苦すぎる珈琲をひと口。「しかし、〈カンバー信販〉だけでこれだ。僕の方と合わせて……」
「……一二人。全員に〈下天会〉との何らかの関係がある。令状を取るには十分だ」
「金貸しだけとも限らないぞ。女郎屋の女が消えているという情報もある。そもそも金貸しは〈カンバー信販〉だけじゃない」
「それが、妙な話なのだが……」門倉は声を潜める。「暴対の連中に話を聞いた。〈神林組〉系の金融業者以外で、似たような話が一切ないんだ。まるで〈神林組〉が狙い撃ちされているように」
「すると〈下天会〉の裏で糸を引いているのは、〈赤星一家〉で決まりだな。僕が得ている情報とも符合する」新九郎は息をつく。「おめでとう。君らの事件だ、異星犯罪対策課どの」
「我々と、貴様の事件だ、探偵」
「これは失敬」
「信徒名簿が手に入れば話が早いのだがな」
「宗教法人なのだろう? なら東京市ではなく東京府に信徒名簿の提出が事実上義務づけられている。宗教法人法に明文化はされていないが、帝都は何かと怪しい連中が多いからね。府も目を光らせているのさ」
「なら役所に行けば名簿が手に入る。行くぞ、探偵」
早速腰を浮かそうとする門倉に、新九郎は肩を竦める。「嫌だね。役人に頭を下げるなんて御免被る」
「貴様……」
「冗談だよ。どこに信徒がいるかわからんだろう。〈下天会〉にこちらの動きを悟られるのは避けたい」
「……一理ある」座り直す門倉。
「素直なところは君の美点だよ、門倉くん」
「組織から逃げた分際で先輩風を吹かすな。忌々しい」
「おお、こわ」新九郎は先輩風の代わりに煙草を吹かす。「僕なら許可も令状も必要ないし、多少強引な捜査手法でも違法性を問われない。〈下天会〉への一番槍は僕に任せてくれないか?」
「勝手にしろ」鼻を鳴らす門倉。
これでいい。
門倉らの勇敢さを足手まといとは思わないし、助けられた例は枚挙に暇がない。彼らがいなければ挫けなかった悪もあり、守れなかった人もいる。
だが、〈下天会〉の危険性は底が知れない。下手に警察を巻き込めば、大きな犠牲を払うことになりかねない。
最小かつ最強の武力をもって最速で制圧すべき相手なのだ。
「何かあればすぐに連絡しろ」と門倉は言った。「貴様を好きにさせるなと、財前さんに言われている」
「君は優しいな」
「意味不明だ。……なんだ、何を見ている」
「いやあ、別に」新九郎はにんまり笑って言った。「君をずっと後輩に持つ人生も悪くなかったかもしれない、と思ったのさ」
*
帝国劇場で『マイ・フェア・レディ』の初演を観たかをりは、「やっぱりお芝居はいいなあ」と背伸びしながら言った。ワンピースの背筋が伸びて、強調された腰の曲線に、あかりは見惚れる。実家のあたりではまだ着ているだけで奇異の目を向けられるだろう洋装は、姉の身体にこの上なく馴染んでいるように見える。あかりよりも一回り高い背丈に、ばっさりと短い髪。家から開放された女性の理想形を体現するかのようで、この姿が束の間の休息に過ぎないことに、思い至らずにはいられない。
皇居外苑のお堀と今日もぐるぐる周りながら客を運ぶ山手線が、等しく平日午後の薄日を浴びている。有楽町は近代的なビルが並ぶ街だが、かつてはここにも第三帝国が放った彗星爆弾が降り注いだ。市街への無差別爆撃が行われる少し前の、先触れのような攻撃だったのだという。爆弾のひとつは、空襲警報を聞いて市民が避難していた駅を直撃し、一〇〇人以上が犠牲になった。
それでも、傷の痛みを上手に忘れられるのが、東京という街だ。
「今日は帝劇、明日は三越ってね。花の帝都だねえ」
「わたし、帝劇来たの初めて。三越はこの間……」
思い出すのは全力疾走の記憶。つい先日の蝕物怪獣ダイナッソー事件の折に、北條撫子とふたり、戦闘の余波を逃れて三越の前を駆け抜けた。そして今は、姉と並んで平和な街をそぞろ歩いている。
「もったいねぁー。毎日だって来でえのに」
「三越は今改装中だよ。周りの施設も。瞬時建築じゃないところはこの間の騒ぎで結構壊れたから」と、仕事の話を思わず続けそうになり、軌道修正する。「先生があんまりこういうの趣味じゃないみたいで。結構いいお値段するから、友達を誘うってわけにも……逆にお金持ちすぎる友達は全部お支払いしますわ~、とか言いそうだし」
「例の財閥のご令嬢の子?」
「そうそう。いやー、すっごい浮世離れした子でさ、挨拶が『ごきげんよう』なんだよ? 信じられる?」
「……んでも」かをりは、頭一つ上からあかりを見下ろして言った。「あんだはすっかり標準語上手になったね」
「姉さまは」あかりは、姉の視線を逃れて目を町並みへ向けた。「郷里の言葉に戻っちゃった。郷里に帰ってきたばかりのころは、ずっと東京の言葉だったのに。家の人に顰蹙を買っても曲げない、あの姉さまの言葉に、わたしは憧れてた」
「暮らしっていうのが、あっからねえ。環境によって人は変わっから。変わっでかなきゃ生きらんね」
「でも先生と話すときは標準語だったよね、姉さまも」
「相手によって使い分けられる自分を持つのが、大人ってものなのですよ、あかりさん」すっかり標準語の強勢になってかをりは応じた。
「誰にも、何にも惑わされない自分を持つことじゃなくて?」
「あなたはもう、花売り娘のイライザじゃないのね」
「わかんない」あかりはぼんやりと雑踏に目を泳がせる。「先生、たぶんわたしのこと犬か猫みたいに思ってるし。遠巻きにして、引っ掻かれないかな、って恐る恐る確認しながら撫でてくるみたいな」
「たぶん、あの人は怖いのよ。多感なあなたの人生を変えることが。背中を押したり手を引いたりしたいけど、それはあなたという存在を尊重することと矛盾しないか、あるいは伊瀬新九郎というものの考え方にあなたを一方的に染めることにならないか、恐れているんだと思う。だから、猫のように恐る恐る撫でようとしたり、犬のようについてきたければこいと合図するだけだったりする」
「大人ってそんなもの?」
「あなたのことを誰よりも思ってくれているのは、間違いないわ」
「姉さまよりも?」
そうね、と言い淀んでから、かをりは応じた。「ええ。きっとね」
そうかなあ、とあかりは首を傾げる。
「線を引かれているような気がする」
「線?」
「うん。先生の世界から、わたしが蚊帳の外にされているような。ここ何日か、ひとりで仕事してるみたいだし。ひとりじゃA種の通訳もろくにできないのにさ」
「何か……理由があるんじゃないかしら?」
「先生にとってわたしは、結局気まぐれに芸を覚えさせたハツカネズミか、可愛らしく着飾らせたお人形なのかも。そういう内心を姉さまに見透かされたくなくて、距離を……」
「それは違うわ」かをりは立ち止まって、あかりの真正面に回った。「新九郎さんは、私の世界で一番大切な人を安心して預けられる、立派な方よ」
「姉さまは先生のことを手紙でしか知らないから……」はたと気づき、あかりは顔を上げた。「ふたりで何か話したの?」
「ええ」
「何を?」
「あなたのこれからのこと」
「姉さま、何かわたしに隠してない?」
「何も!」かをりは頭を振る。「お優しい方だから。私が来ている時に仕事させちゃ悪いと思って、助手のあなた抜きで仕事をされてるのよ、きっと」
そうかなあ、とあかりは呟く。
その時だった。
姉の肩越しに、雑踏の中でも一際目立つ、長身に帽子の男の姿が見えた。見紛うはずもない、伊瀬新九郎の横顔だった。
先生、と呼びかけようとした。だが、できなかった。
冷たい顔をしていた。いつも、頑張って作ったかのような不自然なしかめっ面をしている伊瀬新九郎の顔から、表情が消え失せていた。まるで別人を見ているかのようだった。
横顔は後ろ姿になり、雑踏の中に消えていく。子供がいない場所ではこういう顔をするんだ、と思う。
*
夕刻、数箇所の寄り道を経て、伊瀬新九郎は上野駅にほど近い街道筋の工房街に足を踏み入れる。見知った主たちに会釈し、言葉を交わし、息を整え目的地の扉を叩く。
エフ・アンド・エフ警備保障。危険な姉妹喧嘩によって破壊され修繕を繰り返された哀れな隙間風だらけの建物は、今日もどうにか崩れることなく帝都の片隅に佇んでいる。
建付の悪い扉が内側から開き、室内から漂う芳香と共に、真っ赤な短髪の女が顔を見せた。
「おお、どうした伊瀬の」
「悪いね。お茶の時間を邪魔したかい」
「土産は」
「もちろん」
新九郎は手提げの紙袋を差し出す。
ひと目見て、二ッ森焔は口笛を吹いた。「ほほお。あんたが三越の包みを持ってくるたあね。こりゃ大事か?」
部屋の奥で、応接椅子の上に正座して小洒落たティーカップを傾ける二ッ森凍が、目線だけを新九郎に向ける。
「それで、用件は」にやりと笑う焔。
新九郎は、胸元に留めた流星徽章に手を翳した。
すると、固体だったはずの徽章が方解石のように幾何学的に崩れ、破片が掌の中で渦を巻く。そして渦の中心に生じた虹色の影の中から、長物がひと振り、見えない手に押し上げられるように出現した。
刀である。
黒い石目塗の鞘に、実用性のみを考慮した装飾のない無骨な鍔。しかし黒い柄はよく見れば菱巻きの一部を唐組にしている。怪しい曰くには事欠かない、かつて師から譲り受けた伊瀬新九郎の愛刀だった。普段は、師の縁者でもある煙草屋の店主に預けているものを、大事に際し引き取ったのだ。
鞘の先で板張りの浮いた床を叩き、新九郎は言った。
「〈下天会〉の下種野郎どものねぐらに、カチコミだ。君らの力を借してくれ、フレイム・アンド・フロスト」
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