2.伊達娘と貧乏探偵
帝都東京、上野は入谷の三丁目。
東は墨田、西は上野のお山までの地域は、先の戦争での空襲被害がとりわけ激しかった地域だ。遠く独逸から降り注ぐ遊星爆弾は、東京の人口密集地を焼け野原にした。その後広島は呉から出港した空中戦艦が単艦で第三帝国を討つに至るが、しかしこれらは全て異星人らの代理戦争だったことが、現代では明らかになっている。このような事態を憂い、天樹はこの地球へと降り立ったのだ。そして同時に、人々は、かつて自分たちが悪魔や妖怪、幽霊、物の怪と呼んだものたちの正体を知った。
超電装同士の戦いにより破壊された市街は見る間に、ひとりでに修復されていく。天樹とともにもたらされた異星由来の技術のひとつだ。都市そのものの構造を建物ひとつ、瓦ひとつに至るまで記録し、符号化命令により予め決められた形状へと自己伸長する異星砂礫により元通りに戻るのだ。
やっとの思いで建物を降り、上野駅前に戻った時には、原型を留めないほどに破壊されていたはずの駅舎入口は元通りになっていた。ただし、後から付け足された看板や什器、案内板の類は壊れたままだ。
地図を片手に、碁盤の目状に整備された街路をひた歩く。これも全て、戦争で一度焼けたためだ。建物の建材はみな新しい。それでも住み着く人々は老獪だ。人間、人間、異星人。まだ陽の高い街だが、どこからともなく炊事の芳しい匂いが漂ってくる。埃っぽい道の両側には民家のみならず料理屋や雑貨の店が並ぶ。墨田方面からは、早出の仕事を終えたと思しき労働者たちが、疲れた顔の中にも誇りを滲ませて歩いてくる。
雑誌記事に添えられていた地図を頼りに進むこと四半刻。道に迷ったことに気づいて交番に駆け込んでからものの数分。
早坂あかりは、肩で息をしながら目的地にたどり着いた。
その名のごとく鬼灯の実を象った、緑青色のブリキ細工が添えられた袖看板に、『鬼灯探偵事務所』の文字が辛うじて読み取れる。何年も掃除されていないかのように煤けていた。
雑誌記事によれば、鬼灯探偵事務所は、帝都で唯一『異星人専門』を掲げている。つまりこの街では決して仕事が絶えないということ。それにしては違和感のある寂れ方だった。
開店休業状態だよ、という皮肉屋な少年の言葉を思い出した。
「名を名乗れっての、失礼なやつめ」
呟き、一緒に思い出してしまった胸の高鳴りを追い払う。
事務所は二階のようだが、直接入れる外階段は見当たらなかった。一階は〈純喫茶・熊猫〉という名の喫茶店。白黒の猫のような珍妙な熊を象った立て看板に、本日の珈琲云々と書かれている。財布の中身を確かめてから、あかりは意を決して洋風の戸を押した。
「いらっしゃい」
その声の第一印象は、軽い、のひと言だった。
カウンターの内側で会釈してみせる、ロイド眼鏡に金髪の男。歳のほどは、三〇前後だろうか。別に西洋人というわけではなく、染髪のようだった。低めにかけた眼鏡の隙間から、値踏みするような目線があかりを刺した。糊の効いたシャツに黒の前掛け。ほっそりした文字で店名が染め抜かれている。傍らに置かれた灰皿から煙が立ち上っていた。
決して閑散としてはいないが、混雑には程遠い、二〇席ほどのこじんまりとした店内。客は人間と、どこの星出身とも知れない宇宙人が半々くらい。人間に見える数名も、ともすれば
観察半分、怯え半分でその場に立ち尽くしていると、今度は女給らしき女性に声をかけられる。ロイド眼鏡の男よりも、見た目には少し若い。
「取って食いやしないよ。地球の珈琲は、お星様の向こうでも結構評判なのさ」砕けた言葉。服装も、カウンターの男と大差ない。こざっぱりした短い髪型と、少し浅黒い肌色のせいか、まるで給仕の男装をしているように見えた。「そいであんた、ひとりかい?」
「いえ、あの……こちらに、探偵事務所があると聞いて参りました」
おや、とその女は首を竦める。「それは残念。鬼灯探偵事務所なら、今は休業中だよ。ご依頼なら、二丁目の角を曲がったところに警察署があるから、そっちへ行くこったね」
「依頼ではないです。あの、これ」あかりは求人広告の載った雑誌の切り抜きを差し出した。「翻訳師の仕事で、姉がお手紙を出したはずなのですが、こちらで翻訳師を探していると……」
「なんと!」女はあかりの肩を掴んだ。「あんた、異星言語翻訳師」
頷き、胸元の正八面体飾りを示す。「一応、特級です」
「こりゃあ一大事だ」女はカウンターを振り返る。「武志、この子リンガフランカーだって! 鬼灯で働きたいって」
何、と声を上げてロイド眼鏡の男が応じる。「雪枝さん、そのお嬢ちゃん二階に上げて。こうしちゃいらんねえ……おい新九郎! 寝てんのか、この穀潰しめ!」
言うが早いが、男はカウンター横の階段から二階へと上がっていく。よく見れば壁に『鬼灯探偵事務所 コチラ』と矢印が描かれた小さな看板があり、その上から投げ込み広告の裏紙で『休業中』と朱書されている。文字は掠れ、テープが剥がれかけていた。
「よく来てくれたねえ。お名前は?」雪枝、と呼ばれたその女は言うが早いがあかりの鞄を軽々と持ち上げてしまう。
「えっと……早坂あかりといいます。持ちます、自分で持てますから」
「あたしは大熊雪枝。あっちの怪しい眼鏡はうちの旦那の武志。ああ見えて身持ちは固いから、安心なさいな」
姉の教え曰く、男前には気をつけろ。思えば眼鏡の下は結構な男前だった。気をつけたほうがよい。
ふと、店内から向けられる目線に気づいた。
〈純喫茶・熊猫〉に集う正体不明の客たち。その全員が、あかりを見つめていた。
ある者は驚き。ある者は期待。特級の物種で、あかりは大体の宇宙人ならば、人間と同じように表情や目線に浮かぶ感情を読み取れる。そして店内の人間に見える客のうち、八割方が人間ではないことに気づいた。
宇宙人が集う喫茶店。その二階の、かつて宇宙人専門を掲げていた探偵事務所。
結局鞄は奪われたまま、あかりは雪枝について階段を上がった。一歩ごとに足元が軋む。それで異星砂礫ではない建物とわかった。
二階に上がると、擦硝子の嵌った扉が並んだ廊下。その一番奥に、小奇麗な廃材を見繕ったと思しき看板が置かれていた。逆さにした正三角形を三つ繋げたような紋を添えて『鬼灯探偵事務所』と書かれている。やはり擦硝子の嵌った扉は開け放たれ、ロイド眼鏡の武志が声を張っていた。
ごめんください、と声をかけ、雪枝に続いて室内に入る。
染みついた埃の匂いが鼻についた。南向きの窓から差し込む光が、あちこち破れた応接用のソファを照らす。並んで置かれた机の上には、食事の後と思しき使い捨ての紙盆と、澱の残った陶器のカップが転がっていた。
間仕切り代わりの棚には書籍や雑誌が詰め込まれている。あまり流行っていない言論誌、宇宙科学の研究書、粗悪な紙に刷られた通俗小説。基礎編の銀河標準語教本。横板のいくつかは重さに負けて抜けている。棚の向こう側には寝台まである。
そして、元は高価に違いないが、使い込まれてニスが剥げ、彫刻もあちこち傷ついて削れた机の向こうに、男がいた。
窓を背にした書斎机。革張りの一人掛けのソファの上で、器用に仰向けに寝転がり、灰色フェルトの中折れ帽を顔の上に乗せている男。地味な藍色の着物の下に白い立襟シャツ。あちこち擦り切れた馬乗袴はこれも地味なねずみ色。はっきり言って時代遅れの書生姿だった。
書斎机の上には、整理する気があるのかわからない書類資料の類が山を成し、辛うじてタイプライターと灰皿、それに銅製のマグカップが置けるだけの場所が確保されている。カップの中には中身が残っていた。
そして、その書類の山の天辺に、あかりは見知った姉の字を見つけた。
一応開かれた封筒。宛先は『鬼灯探偵事務所 伊瀬新九郎様』。
武志が、書斎机をこつこつと叩いて言った。「おい新九郎、例の手紙の子だよ。狸寝入りもいい加減にしろ」
すると帽子の下から声がする。「僕は忙しい。明日にしてくれ」
「どこが忙しいんだ、どこが」武志はひょいと手を伸ばして帽子を奪い、窓を開いた。吹き込んだ春の風が、季節外れの風鈴を鳴らした。「ほら起きろ。この子だよ。ご覧あれ、碧水色のヘドロン飾り! これぞ特級の証ってもんよ」
新九郎、と呼ばれた男は目を閉じたまま応じた。「与太も程々にしろ。まだお天道さまは雲の上だぜ」
「昼から寝てるお前が言うな」
「あの!」あかりは机の向こうの男を覗き込む。「わたし、早坂あかりっていいます! 異星言語翻訳師で……」
「帰りなさい」伊瀬新九郎は、ようやく目を開けて言った。「うちはあやかし専門だ。僕は人間の依頼は請けない」
「依頼じゃありません」
「いずれにせよ、ここは子供の来るところじゃない」
冷たい目をしていた。
驚くでも値踏みするでもない、自分の眼球の前にあるものをただ見ているだけのような。
何か大きな、取り返しのつかないものを、喪った人間の目だった。
でも、とあかりは食い下がる。
「ここ、異星人専門なんですよね。だったら必要ですよね、翻訳師」
「君みたいな子供を働かせたら、僕の手が後ろに回る」
「大丈夫です」あかりは胸を張る。「特級は特別就労が認められていますから。一三から働けるんですよ」
「それは知ってる。君は、いくつ」
「今年もう一五になります」
「まだ一五」
「法律では……」
「ここでは僕が法だ」新九郎は身を起こし、ソファに座り直した。「その扉からこっちに入るなら、僕の法に従ってもらう。そもそも僕は君を雇わない。なぜか」
銅のマグカップを手に取る新九郎。口に運ぶかと思いきや、その右手は、目の高さくらいに持ち上げられる。妙な持ち方だ。まるで中身の冷めた珈琲が危険な薬品か何かのようだった。そしてカップの先には、金属の配管が天井から壁伝いに降りてきていた。
新九郎が左手の指を鳴らす。
すると、配管末端の蝶番が開き、炎が豪と吹き出した。
思わず悲鳴を上げるあかり。だが当の伊瀬新九郎はもちろん、一歩控えていた大熊夫妻も、驚いた様子はなかった。銅のカップからは湯気が立ち上っていた。
「悪いんだけど、僕、働きたくないんだよね」
「……は?」
「今は裏稼業の方で手一杯でね。あやかし相手のよろず揉め事相談に応じている暇がない」
「裏稼業……って今のなぬ!? 火ぃ出たべ火!」
「ああ、これ。この建物、配管に太陽出身の活力生命体を住まわせているんだ。以前、太陽風で飛ばされて迷子になったところを保護してね。地球のぬるま湯が至極快適だそうで、僕としても冷めた珈琲を温めるのに重宝している」
「か、活力生命体……」
「彼はすごいぞ。何せ珈琲は温めてもカップの取っ手は熱くならないんだ」
するとまた蝶番が開き、今度はゆっくりと吹き出した炎が、おぼろげに人間の顔を形作った。
そして言った。
「驚かせて大変申し訳ございません、お嬢さん」
「喋った!?」
「わたくしめの身の上は只今新九郎さまが申された通りでございます。どうぞお笑いください。灼熱の太陽を物ともしないはずのこのわたくしが、今や茶を温めるばかり。ああ太陽の友よ、わたくしめはこの地の真綿で首を絞めるような幸福に飼いならされてしまった。嗚呼……」
何食わぬ顔で珈琲を啜る新九郎。「自己陶酔の気はあるが、害意はないし知能も極めて高い。日本語も堪能だ」
「はあ……」
後ろから武志が口を挟んだ。「香りが飛ぶからやめろって言ってるんだけどな」
「香りが飛んだ珈琲には香りが飛んだ珈琲ならではの味があるのさ。それに、出されたものをどう飲もうと僕の勝手だ」
「好きにしやがれ……」肩を落とす武志。
一応夫を立てたのか黙っていた雪枝が言った。「で、どうすんのさ、新九郎」
「言った通りだ。特級というのは本当のようだが」新九郎はあかりの胸元を一瞥する。「うちで雇うつもりはない」
「じゃあこの子は追い返すっての?」
「さっきも言ったが、僕はなるべく働きたくないんだよ、雪枝さん」
「なんだいそりゃ。快刀乱麻の蒸奇探偵が、情けない」
あの、とあかりは口を挟む。「その『蒸奇探偵』とは」
「かつてそう呼ばれた男がいた。今はいない」伊瀬新九郎は立ち上がった。「ついてきなさい」
「どちらへ?」
「仕事だ。……君に、見学する気があるのなら、一緒に来なさい」
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