12.奇跡の一族
早坂あかりの来訪から一夜明けた〈純喫茶・熊猫〉は、開店早々例を見ないほどの大繁盛に見舞われた。
客は老若男女人外問わず。大わらわの店主夫妻を見かね、フリルの前掛けを着けて給仕に立ったあかりに、人々は口々に言った。
「あんたがあの早坂あかりちゃんかい」
「史上最年少」
「ありがたやありがたや、言葉遣い師さまをまたここに遣わしてくれるとは」
「ジュグデパガンダンゴバゲゼダグバダダ、ガシガドグ」
「ちょっとあんた、ここでは地球の言葉で話しな」
「壊れた機械とも話せるとはおでれえた」
「うちのラヂオもどうにかならんかねえ」
「そうだよ、新九郎さんは。まぁた朝から吉原通いか?」
「レッドスターの連中、いい気味だねえ!」
「鬼灯探偵事務所、再開するんだろう?」
「うちの可愛いメルルードがちょうどいなくなっちまって……」
「王子といったか、やはり封建制は悪だ。労働者による革命を!」
「ジガギヅシビズドンゾゾギダ」
「地球の言葉って言ってんだろ、そんなだから殺人鬼と勘違いされんだよ」
「それにしても憲兵の情けないこと」
「ファレ星人の野郎が家賃を払わなくて困ってるんだ。あいつら感謝の心が貨幣より尊いと思ってんだよ」
「そんなことより今度うちの店に来ておくれよ。これ割引券ね」
ものの三〇分ほどですっかり消耗して目を回したあかり。
休憩しておいで、と苦笑いする雪枝に甘えて二階に上がると、事務所の扉が開いていた。
恐る恐る、足音を殺して中へ入る。
詰襟に和服の、探偵が寝ていた。書斎机の向こうでひとり掛けのソファに器用に身体を収め、顔に帽子を載せている。帽子を入れていた包み紙は、煙草の吸殻が詰まった灰皿と一緒に応接机の上に放り出されていた。
更に恐る恐る近づくと、書斎机の上に、開封された手紙が置かれていた。そして昨日は気づかなかった、写真立てがあった。
覗き込むと、そこには寄り添う伊瀬新九郎と、雑誌の切り抜きで見た栗山依子の姿。まだ若い頃の写真のようだった。そしてもうひとり、見知らぬ若者の姿があった。
友達なのだろうか。機会があったら訊いてみようと思うも、そんなことより一階の騒ぎに知らぬ存ぜぬを決めこみ朝から昼寝する男への苛立ちが勝った。
「ちょっと、先生! いつまで寝てるんですか! 包みも投げんで」
「む……」と帽子の下から声がした。
あくまで居眠りを決め込むつもりのようだった。
どうしたものかと見下ろしていると、新九郎の胸元に、昨日はなかった徽章が着けられていることにあかりは気づいた。親指ほどの、流星を象ったものだ。
どうも、子供じみたところがある男。呆れつつあかりは言った。
「下にお客さんがたくさんいらしてます。みんな、鬼灯探偵事務所は再開したのかって大騒ぎで」
「再開した覚えはないが……」新九郎は身動ぎする。「いずれにせよ、午前中と日曜日は仕事をしない主義なんだ。それにそもそも僕は働きたくない」
「そんなこと言ってないで」あかりは帽子を取り上げ、扉の横の外套掛け目掛けて投げた。帽子は見事な軌跡を描き、外套掛けの天辺に収まった。「いいお天気ですよ。ほら」
窓際の書斎机に燦々と降り注ぐ日差し。新九郎は袖で顔を覆う。「〈闢光〉が動くと、これだから……」
すると天井から降りた配管から炎が吹き出し、人間の顔らしい形を作り、言葉を発した。
「仰る通りです、新九郎さま。この街には曇天がよく似合う。ああ、太陽の友よ、なぜこうもわたくしを咎めるのですか。この地球のぬるま湯に慣らされ、茶を温めるばかりのわたくしを……」
「うわ、また出た」
「おお、これは早坂さま。自己紹介が遅れましたな。どうぞわたくしめのことはフレイマーとお呼びください。あるいは腰抜けとも、落伍者とも、ゴミともクズともなんとでも……」
「そんな、昨夜はとても暖かくて快適でした。ありがとうございます」
あかりが頭を下げると、炎の形が歪んだ。「ありがとう、ですと……おお! おお! 生きててよかった!」
「フレイマーさん……?」
「わたくしはここにいてもよいのですね。おお、今日は人生最良の日……」
新九郎が渋々といった様子で身を起こす。「彼は感情の浮き沈みが激しいんだ。迂闊に褒めないでくれ。こうなると温めた珈琲が熱湯になってしまう」
「はあ」
「人生最良の日!」
そう叫ぶと、フレイマーは配管の中に姿を消した。
ぼさぼさの頭を搔きつつ、まだ目の開ききらない新九郎が言った。「ところで早坂くん。今は何時だい」
「一〇時四五分ですけど」
「そろそろかな」新九郎は立ち上がり、窓の外へ目を向けた。「ああ、来てる。さすが時間に正確だ」
つられて同じ方を見れば、往来の中心に奇妙な男が立っていた。
英国風の隙のない洋装に白手袋。片手にステッキ。それだけでも少し異様だが、何より異様なのは、その頭部だ。
顔の代わりに、銀時計がついていた。
その銀時計男は、視線に気づいたのか一礼する。
「あれね、〈闢光〉が動くと必ず僕を呼び出しに来るんだよ。はた迷惑な……」
「はた迷惑って」あかりはむっとして応じた。「星鋳物……でしたっけ。あれのおかげで安藤の超電装をやっつけられたんじゃないですか。そんな言い方、蒸奇探偵さんに失礼ですよ。大体昨日、あの後何してたんですか」
「蒸奇探偵さん」
「そうですよ。聞きましたよお、無敵の超電装、星鋳物〈闢光〉で弱きを助け強きをくじく正義の味方。帝都に悪のあるところ、快刀乱麻の蒸奇探偵あり。先生とは大違いですね」
「それ、僕」
「え」
「言ってなかったっけ」
「んだ」
「言わなかった?」
「聞いてないですよお!」
「そうか、すまない。あのクロックマン、〈奇跡の一族〉の遣いなんだ。君も一緒に行こう。帽子を取ってくれるかい」
「聞いてない、聞いてない……」
「早坂くん? 帽子を……」
「自分で取ってください!」
そんな丁々発止を経て表へ出る。まだ頭が混乱しているあかりと、ばつが悪そうな新九郎に、クロックマン、と呼ばれた銀時計頭の男は言った。なんと時計なのに日本語を喋ったのだ。
「六号管理官がお待ちです」
「仕方ない」と応じて新九郎はあかりを見た。「余計なことは言わないようにね。僕に任せて」
「余計なこと?」と問い返しても、新九郎は応じなかった。
代わりにクロックマンが言った。
「それではお二方、跳んでください。時間がありませんので」
仕方ない、とばかりに新九郎は嘆息する。「早坂くん、拍子を合わせて」
「跳ぶ? 跳ぶってなぬっしゃ?」
「いいから。せーの!」
耳元で突然の強風が吹いた。
眼の前に虹色の暗闇が広がり、かと思うと一瞬で、薄暗くいやに広い柱廊の空間に出た。
クロックマンが、何事もなかったかのように歩き出す。
「今回の一件、六号管理官もおふたりの尽力に大いに満足しておられます」
「それは重畳」と新九郎。
「詳細はあなたからの報告書を待つとして」クロックマンは頭頂部の螺子を回した。「しかしいくつか急ぎで訊きたいことがあるそうです。まずはそちらの、早坂あかり嬢の意思確認。そして第二に、特定侵略行為等の有無。星団憲章第九条への違反があったかどうか」
「入星管理局の笊っぷりを問い質す方が先じゃないのか? 星鋳物など、使わずに済むに越したことはない」
「それはあなたの与り知るべきところではない。が、後半は大いに同意いたします」
ふたりの会話はろくに頭に入らず、あかりは恐る恐る周囲を見回した。所々から虹色の光が差すも、壁も天井もなく全貌を見通せない空間に不安が募る。もしも柱が見えなければ、途端に自分を見失ってしまうだろう。
そもそも、空間転移の類だ。時計の頭をしている種族など聞いたことはなく、またステッキを鳴らして歩く銀時計の男に直接問い質す度胸もなかった。あかりは新九郎の袖を引いた。「あの先生。ここ、どこですか」
「天樹の内部だ」事もなげに新九郎は言った。「僕の雇用主は、通称六号管理官という。〈奇跡の一族〉の一員だ。まだ若手だそうだ。それでも人間の寿命の数倍は生きているそうだが」
「精神体なんですよね。どんな時間感覚なんだろう」
「興味があるかもしれないが、直接訊くのは控えてくれ。彼が僕らの次元で活動するための分身は、事故で破損して修復中だ。ゆえに、話せる時間は七日につき三分間に限られる」
「それだけなんですか?」
「大したものだよ。通常、彼らの分身は一年も使えば壊れてしまうところ、三年近く稼働させ続けているんだから」
「こちらです」とクロックマンが言って、足を止めた。
何もない暗闇。そこにクロックマンはステッキを剣のように翳し、先端を回す。すると、空間そのものがかき混ぜられたように歪み、人が通れるほどの穴が開いた。
中に入ると、光に満ちていた。
常に揺れ動く赤い壁面に、万華鏡のように無数の光が反射している。だが眩しさは感じなかった。
そして正面の湾曲した壁に、朧気に人のような形をとった光が現れた。
クロックマンが一礼し、頭の螺子を押した。文字盤の針が動き出す。よく見れば一周六〇秒だった。
新九郎が言った。
「特定侵略行為等監視取締官。スターダスター、伊瀬新九郎。参上した」
「この度は大義だった、新九郎」とその光が言った。「そして早坂あかり。この街と伊瀬新九郎、すなわち私は、地球の平和のために異星言語翻訳師を必要としている。今後もこの東京緩衝区に留まり、市民の平和と安全のために力を尽くして欲しい。構わないか?」
「はい! もちろんです」
「そこの男が、君の上野中央女学校への転入手続きを済ませている。無駄にならず、何よりだ」
「そこの男って」あかりは新九郎を横目で窺う。
黙ったままの新九郎に代わって、光――〈奇跡の一族〉の管理官が言った。
「君の姉上からの手紙を受けて、彼が手筈を整えていたのだ。そのくせ君には『帰れ』と言うとは。人間の考えることは理解不能だ」
「お前たちには一生理解できんさ」と新九郎。
「住まいを用意させよう。公用の住宅カプセルに空きがある。そこを使うといい。追って案内させよう」
「公用住宅……」
「不服か? 鬼灯探偵事務所のひと間の方が好ましいなら、無理強いはしない。君の望むようにするといい。あそこはかつて優秀な異星言語翻訳師が居住していた。何かと好都合だろう」
「それは……」
「栗山依子だ。……そこの男は相変わらず不満そうだが、きっと内心は君が近くにいてくれることを喜ぶだろう。そういう態度を、人間はへそ曲がりと言うそうだな。理解に苦しむ」
「無駄口を叩くな。本題に入れ」
「よかろう」苛立った様子の新九郎に応じ、管理官は言った。「特定侵略行為の有無について訊こう」
「そのような事実は、一切ない」
「これは異なこと。安藤和夫は、この度の事件について、我々の認知しない電脳生命体の関与を証言している」
「それは安藤の妄想だ。お前たちは、もしもそのような電脳生命体が存在し、地球人に危害を加えたとして、その経緯の如何を問わず、彼らに厳罰を科すだろう?」
「当然だ。情状酌量の余地はあるやもしれぬが、星団評議会は侵略行為に厳格だ。事態の規模を鑑みれば、平和維持軍による個体数削減が行われる可能性が高い」
個体数削減。
すなわち、虐殺。
血の気が引いたあかりの頭に、新九郎の手が載った。
大丈夫だから、と言われた気がした。
「もしもの話はよしましょう」新九郎はひとつ息をつく。「あなたは、僕と安藤、どちらを信用する? 自称王子の犯罪活動家と、仮にも流星徽章を受けた者である僕」
「仔細な調査を行えば明確になることだ」
「何も出なければ、あなたの言う調査とやらは、地球人同士の争いへの介入となる。星団憲章違反だ。それに、この宇宙で最も優れた知性を持ち、汎銀河調停機構と星団評議会を率いる〈奇跡の一族〉ともあろうものが、他文明への侵略を試みる愚かで下等な知的生命体ひとつも認知していなかったなどと、認められるかな。穏便に済むとはとても思えないがね」
たっぷり一〇秒ほども、管理官は沈黙した。
たった三分間の中の一〇秒。
「食えん男だ」と光が言った。「いいだろう。君の言葉を信じよう。だが安藤の罪状は幻王星の無限監獄送りには値しない軽度なものになる。再びやつが、この街に暗雲を呼び込むやもしれぬぞ」
「その時はまた払うまで。僕と〈闢光〉がね」
「その言葉を忘れるな、伊瀬新九郎」
赤い壁が割れた。
万華鏡のような光ともども、槌で硝子を叩いたように割れて砕け、元の薄暗い柱廊が姿を表す。
きっかり三分。クロックマンの顔面から、太鼓を叩いたような音が鳴った。
自分の頭頂部を叩いて音を止め、クロックマンは言った。
「星団憲章及び法令を遵守し、人類間の政治的活動に関与せず、強い責任感を持って専心職務の遂行にあたり、違反行為に臨んでは危険を顧みず、時に星鋳物をもって責務の完遂に務め、もって〈奇跡の一族〉の負託に応えること。これが特定侵略行為等監視取締官、すなわち伊瀬新九郎の職務です」
「まあ、そういうこと」新九郎はごつごつして乾いた手を差し出す。「今後ともよろしく、早坂くん」
首を傾げていると、クロックマンが言った。「君の汚い手はお気に召さないそうだよ」
「む……」着物の裾で手を拭う新九郎。
それでやっと、握手を求められていると気づいた。
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