13.報酬

 新九郎の行きつけだという欧風咖哩屋で食事を済ませてから鬼灯探偵事務所へ戻ると、〈純喫茶・熊猫〉の混雑は落ち着いていた。

 窓縁の新九郎は、書斎机から封筒を取り出してあかりに渡した。

「何かと入り用だろう。学校は週明けからだ。支度に使うといい」

 開けば中には、決して少なくない額の紙幣。

「そんな……いただけません」

「気にするな。〈奇跡の一族〉め、金払いはいい。おかげさまで僕も、こう見えて懐は温かい」

「貧乏探偵じゃなかったんですね……」

「失礼な」そう応じた新九郎の表情は、言葉と裏腹に棘はなかった。

 仕事の報酬。

 そう考えるとなんだか気恥ずかしい。封筒をひとつ受け取ったというだけなのに、この街に受け入れられたような気がしたのだ。

 口実が欲しかった。仕事を褒められる以外の、お金を受け取る、口実。

 それで、上野駅で列車を降りた直後の出来事を思い出した。

「慰謝料、だと思っておきます」

「慰謝料? なんのだい」

「わたし、死にかけたんですよ。駅前での〈闢光〉と、あの変な腕の青い超電装の喧嘩で」

「あの時。榊の超電装」新九郎は目を丸くする。「君、あそこにいたのか」

「そうですよ。もう少し足元に気をつけてください」

 すまなかった、とだけ応じて、新九郎は何事か考え込む。その心中は不思議と、読み通すことができなかった。

 巨大な黒鋼の超電装を操り、悪と戦う正義の味方。〈奇跡の一族〉の負託を受けた、特定侵略行為等監視取締官。スターダスター。

 どんな二つ名も肩書も、今ひとつ、目の前のぼんやりした男には馴染まなかった。

「それはさておき……午後に仕立て屋を呼んだ。制服の寸法を測ってもらうといい。まあ」あかりの頭頂部から足元まで、無遠慮な視線が往復した。「既製で間に合うだろう」

「……先生、今どこ見ました」

「別に、どこも」

「へえ、そうですか」

「何に怒っているんだ君は」

「別に怒ってません」

 すると、険悪さを察したように、開けたままの事務所の扉を叩く者があった。大熊武志だった。

「迎えが来てるぜ、新九郎。それと」ロイド眼鏡越しの目がいたずらっぽく笑う。「あかりちゃんも下においで。お客様からお土産」

「先生、わたしも行かなくていいんですか?」

「ああ。ちょっと私的な用事でね。帽子を取ってくれるかい」

 ええ、と応じかけ、窓の向こうを見る。

 覚えのある白塗りの車と、覚えのある寡黙な運転手がいた。

「……自分で取ってください」

「仕事だから」

「今私的な用事って言いましたよね」

「まあまあ、帽子な、帽子」武志が外套掛けから帽子を取り、新九郎目掛けて放った。

 それを掴み、被る新九郎。

 そのまま出ていくかに見えて、戸のところで新九郎は振り返った。「早坂くん」

「なんですか。お迎え来てるんでしょう」

「靴を買うといい」帽子越しの目線が、あかりの足元に向いていた。「昨日、大変だったろう」

 あかりは目を瞬かさせた。硬い舗装を草履で歩き回ったためか、足のあちこちが擦れて痛いのは本当だった。

「……ありがとうございます」

「じゃあ行ってくる。日暮れ前には戻る」

「あいよ、失せろ失せろ」武志は汚いものを払うような手つきで言い、それから片手に持っていた包みを掲げて見せた。「あかりちゃん、甘いものは好き?」

「好き、ですけど」

「じゃあよかった。いただき物だけど、みはしの葛餅。食べるだろ?」

 思わず満面の笑みで「はい!」と応じるあかり。

 だが、気を取り直す。

 その前にすることがある。

 新九郎を乗せた車が遠ざかるのを確かめてから、あかりは階段を降りた。

 そして、〈純喫茶・熊猫〉のカウンター横。

 伝票を小脇にした大熊雪枝が近づいてきて言った。

「ひと思いにやっちまいな」

「いいんでしょうか」

「なあに。外堀を埋めちまえば、埋められたなりになんとかするのが男ってもんだよ」

「じゃあ遠慮なく」

 あかりは『休業中』と朱書された投げ込み広告の裏紙に手を伸ばし、ひと息に引き剥がした。

 そして店内へ向き直って言った。

「鬼灯探偵事務所、営業再開です!」



 一昼夜を待たずして、早くも帝都の空には雲が差す。都市を走るオルゴンの浮遊車に、品川・川崎の工業地帯からもうもうと立ち上る光。地球の科学力では本来存在し得なかったはずの、だが既に人々の生活に根づいてしまった多くの物。それらが死せる力の骸となって、街を太陽の光から覆い隠す。

 帝都東京に晴天なし。

 されど輝きを照らす者あり。

 その使命を帯びたひとりである男、伊瀬新九郎の姿は、上野千束、吉原仲之町の遊郭〈紅山楼〉の奥座敷にあった。

「白川の娘の件、ありがとうございました」

「いいってことです。困った時はお互い様ですから」

 頭を下げる新九郎と、文机の紅緒。今日の〈紅山楼〉は月に二度ある休みの一日であり、いつものような客引きや小間使い、遊女たちの姿はなかった。残っているのは住み込みの数名と、主である紅緒だけだ。

 その紅緒の手には、まだ陽が高いにもかかわらず盃が一献。一方の新九郎の手には、慣れた銘柄の紙巻き煙草。

 盃を空けた紅緒が、艶かしく手招きする。

「ありがたく思っていらっしゃるなら、一杯つきあってくださいな」

「僕は下戸です。ご存知でしょう」

「なら注いでくださいよ」空の盃を返す紅緒。

 致し方なく煙草を揉み消し、新九郎は文机に近づき徳利を取った。あての塩羊羹が乾いていた。

 注ぐなり、潜めた声で紅緒は言った。

「ちいと小耳に挟んだ話なんですがね。先生、あの娘、只者じゃありませんよ」

「早坂くんのことですか」

「ええ。こう言っても先生にはちんぷんかんぷんでしょうし、そりゃあたしも同じなんですが」紅緒は酒で口を湿らせて続ける。「二〇四八ビットのRSA暗号だそうです。あの娘が解いたのは」

「あーる……なんです、それは」

「通信の暗号化技術だそうです。なんでも、航宙戦艦の戦術予測に使われる電子頭脳が数日かけてようやく解けるような代物だそうで。あの娘はそれを、ものの数分で解読してみせた」紅緒は盃を置いた。「ヤミの技術屋、特に兵器商人の類が大騒ぎです。噂によれば、星団評議会の連中の間にも動揺が広がってるとか」

「異星言語翻訳師の中でも特級が使う技能は特別だ。〈奇跡の一族〉にとっても未知の部分があると、聞いたことがあります」新九郎はまた煙草に火を点ける。

「こんな噂もあります。早坂あかりは史上最年少ではない。史上最高の言葉遣い師だ、ってね」

「いいことじゃないですか」

「人の域を超えているという意味ですよ。先生は仕事柄、いろんな異人たちをご覧になってきたでしょう。感じるところも、あったんじゃございません?」

 それは、と応じたまま、新九郎は考え込む。

 

 〈闢光〉には、ヴィルヘルム式・オルゴン・スチーム・エンジンを応用した簡易な未来予測装置が搭載されている。それは戦闘時に操縦師たる新九郎へ直感のような形で敵の存在を伝えるのみならず、安全装置の役割も兼ねている。己自身の行動で知的生命体を殺傷する可能性が高く、かつ、それが自己の保全を脅かさない程度の行動の変更によって回避可能である場合に、全機能を一時凍結する機構。これがラプラス・セーフティである。

 早坂あかりは、榊の青い超電装と〈闢光〉との戦闘に巻き込まれ、死にかけたと証言した。しかし上野駅前での戦闘では〈闢光〉に停止の兆候が見られなかった以上、それは本来、ありえないことなのだ。

 だが、ひとつだけ、例外がある。

 ラプラス・セーフティの発動対象は、より厳密に定義するなら、知性がありかつその知力が〈奇跡の一族〉を下回るものに限られる。星団評議会を率いる彼らより優れた知性体はこの宇宙に存在しない以上、厳密な定義は本来意味を成さない。だが。

 早坂あかりという個体が、例外的に、〈奇跡の一族〉を上回るほどの突出した知性の持ち主であるとすれば。

 ラプラス・セーフティが発動せず、彼女が〈闢光〉の行動に巻き込まれて死にかけたとしても、辻褄が合う。

 まさかね、と新九郎は呟く。

 煙草の灰が随分上がっていた。

「それが事実であるとして」新九郎は煙を吸って、吐いた。「彼女が彼女であることに変わりはないでしょう」

「なら、いいんですけどね」紅緒は一度置いた盃を取り、一気に呷る。

「呑み過ぎですよ。お身体に触ります」

 すると紅緒はゆらりと立ち上がり、机を跨いで新九郎の傍らに腰を下ろした。

「そんな意地悪、言わんといてくださいな」右手に徳利、左手に空の盃。「あたしだってね、誰かに甘えたい時があるんですよ」

 新九郎は煙草の灰を鉄盆に落とした。

 抜き襟の項にうっすらと汗が滲み、甘い香気が立ち上っていた。

 肌蹴た胸元の、鎖骨から乳房のあたりにかけて、桜の花のような薄紅色の斑点が浮かんでいた。体質のためか、紅緒が酒を呑むと必ずこうなる。客を取っていた頃は、その様を雅に感じた男たちに大層悦ばれたという。

 そして彼女が新九郎の前で酒を呑むとは、あるひとつの徴でもあった。

 新九郎はまた煙を吐く。

「紅緒さん。僕はね、彼女に妻の陰を見ているわけじゃありません」

 すると一瞬、紅緒の身体が凍った。

 見上げる眦が新九郎を捉え、刹那、両肩を押されて新九郎は琉球畳の上に仰向けに倒れた。

 盃が落ちる。紅緒の手が新九郎の右腕を這い、絡みついた指が新九郎の手から煙草を奪った。

「ずっと吹かしていれば、逃げられると思いました?」

「紅緒さん」

 馬乗りの紅緒は徳利に直に口をつけて酒を含む。そして徳利も放り出し、身動き取れない新九郎に口づけた。

 焼けるような辛口の酒が口移しで流し込まれる。絡み合う唇と唇。舌と舌。指と指。その姿は男と女。

 落ちた煙草に徳利から流れた酒が触れ、じゅうと音を鳴らした。

 身体を離し、紅緒は言った。

「白川の娘の件ですが、気が変わりました」

「お金の話なら、都合は……」

「お金は結構です。代わりに身体で払ってくださいな、先生」

 泡沫の桜が舞った。


――――――――


 いつの日か、この星が直面する数々の課題を打倒した暁には、我々地球人類も、銀河文明の末席に列さるることを願うものである。我々の希望、我々の決意、そして我々の友好を、広大で驚異に満ちた宇宙へ向け、ここに示す。

 ――第39代アメリカ合衆国大統領 ジミー・カーター



第1話『仙台青葉の伊達娘』 おわり


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