18.少年に他意はなし

 何が変わった、わけではない。

 東京市長との会談後記者会見で地球への超光速通信網敷設を発表したグモ星人の通訳を務めたあかりは、テレビに写り新聞にも名と顔が載った。これで少しは郷里の父母を見返せただろう、さあ電話でも手紙でもどんと来いと構えてみても、〈純喫茶・熊猫〉の電話を鳴らすのは、しょうもない依頼未満の相談事ばかりだった。

 それでも、道を歩けば声をかけられることもある。正体不明の老婆に仏か何かのように拝まれることも。

 特級異星言語翻訳師。

 言葉遣い師。

 誰もが振り返るトーキョー・モダンガール。

 目指していたもの、憧れていたものに近づいたような、中身は変わっていないのに間違って近づいてしまったような。

 そう、中身を変えなければならない。

 そのためには、形から入らなければならない。

 どこかへ訪問するらしき新九郎から「手土産を見繕ってきてくれ」と頼まれ、駄賃を渡され訪れた百貨店で、あかりがまず向かったのは化粧品売場だった。

 しかし、この夏イチオシのモダンな新色と言われても、よくわからない。大体夏はまだ先である。

 そもそも使い方がよくわからない色のついた粉や液体を眺めていると、間違った場所に足を踏み入れてしまったようで、居心地が悪い。

 大人しくお饅頭でも買っていこうと、立ち去りかけた時だった。

「あれえ、あかりちゃん?」と声をかけられた。

 振り返れば、上背のある長い黒髪の女が立っていた。ショウウインドウの中から飛び出してきたような洋装にサングラス。短いスカートから惜しげもなく白い脚を晒している。絵に描いたように、ものすごく出るところが出て、引っ込んでいるところが引っ込んでいる。まるで自信が服を着て歩いているかのようだ。

 モダンで素敵な謎のお姉さん。

 しかしよくよく記憶を辿ってみると、そのきゃらきゃらした声と、適当に西方の強勢を真似たような言葉に、聞き覚えがあることに気づいた。

「揚羽さん?」

「あったりー」謎のお姉さんこと〈紅山楼〉の稼ぎ頭、揚羽はサングラスを外した。「どうしたの、こんなところで。……あ、もしかして、お洒落に目覚めるお年頃?」

「いえ、そういうわけでは」

「うむ。よろしい」あかりの頭をわしわしと撫でる揚羽。「こういうのは、ごまかさなきゃいけなくなってからでええの。あかりちゃんは素材がええんやからさあ」

 素材のよさなら完全敗北な気がしてならないあかりだったが、抗弁しようとは思わなかった。くらくらする、恋に落ちてしまいそうな、甘い匂いがした。彼女になら、花の方から蜜を抱えて寄ってくるに違いない。

 そうだ、と聞いた話を思い出してあかりは言った。「腕。もういいんですか?」

「ご覧の通り」両手をひらひらと振る揚羽。「そう! 新さんったら結局お見舞いに来てくれんかったんよ。うちせっかく綺麗な下着着て待っとったんに。ひっどい人」

 下着はともかく、伊瀬新九郎、意外と不誠実な男である。

 部屋の片付けは適当でも、女性、特に自分に気がある相手にはまめだと思いこんでいたあかりにとって、これは青天の霹靂であった。

 とはいえ、関わっていた事件が事件である。

「あれでも街で噂の蒸奇探偵ですし。わたしから言っておきます」

「蒸奇探偵だからよお。うち自信なくすわあ」

「だから?」

 そうそう、と頬を膨らませる揚羽。

 級友、田村景と話していたときのことを思い出した。あのときも、蒸奇探偵、という言い回しが、今ひとつ噛み合わなかったのだ。

 級友相手では、訊くのも気後れする。みんなが知っていて自分だけ知らないというのは、モダンガールの沽券にかかわる。だが、赤提灯の向こうの世界で生き、誰よりも多くを知っているだろう揚羽にならば、負けを認めて訊いてもいい気がした。

「あの、揚羽さん。その蒸奇探偵って……どういう意味なんですか?」

 首を傾げる揚羽。

 ややあってから、「もしかして」と彼女は手を打った。

「新さん、もしかしてそれも黙っとるん?」

「いや、なんか正義の味方っぽい意味だとは、みなさん教えてくれたんですけど……」

「実はね」揚羽は声を潜める。「あかりちゃん、『蒸奇』って最初にどこから見つかったか、知っとう?」

「蒸奇って……あの翠の光のことですか?」

「そうそう。蒸奇機関を発明したヴィルヘルム・ライヒって人、墺太利オーストリーのお医者なんだけどね、その人、あの妙な力を、男の人のから最初に見つけたんよ」

「例のアレ?」

「そうそう。大事なところをいい子いい子してあげると、男の人が気持ちよくなって出てくる、アレ」

「例のアレ」

「そうそう」

「アレ、ですか」

「うんうん。つまり転じて、蒸奇とは、蒸奇探偵とは……」

 顔に血が昇った。

 道理で、田村景があんな態度になるわけである。蒸奇探偵蒸奇探偵と繰り返し、きゃあきゃあと叫んでいた姿が脳裏に蘇る。

 もう七分通り悟ったあかりに、揚羽はたっぷり勿体つけてから耳打ちした。

「花街狂いの……、って意味よ」

 つまり、そういうことである。

 あたり構わずあかりは叫んだ。

「あンの、耳年増!」


 何が変わったわけではないが、上女こと上野中央女学校の教室の居心地は、幾分上向いたような気がする。テレビと新聞、グモ星人と天樹の威光の賜物か、もうあかりに聞こえよがしに陰口を叩く生徒はいなくなっていた。

 しかし翌日のあかりは、昨日よりも数倍、気後れを強めていた。

 きっと教室の全員が知っているのだ。蒸奇探偵という言葉のもうひとつの意味を。

 これは勘違いされかねない。いくらあの男が花街狂いのすけべ探偵と知られていようとも、あくまで仕事上の関係である。ビジネスである。壁一枚隔てて同居していようとも、確かに壁一枚隔てているのである。少し疑問符はつくが、頼もしい炎の護衛もいる。

 授業が終わった放課後の教室。三々五々帰り支度を始める級友たち。きっと彼女たちは全員、誤解したままだ。

 頭を抱えずにはいられない。下手をすれば妾か何かだと思われていても不思議ではないのだ。

「あかりちゃんあかりちゃん」

「なぬっしゃ。おら職業婦人だっちゃ」

「それは知ってる」おケイちゃんこと田村景は、目を三角にしたあかりに狼狽えていた。「あの……今日、これからお暇ですかい?」

「うん。大丈夫だけど」

「よし! じゃあ今日こそうちのお店来てよ。いよいよ来週から甘味営業始めるんだよね」

「……行く!」

 もやもやを晴らすのに一番の薬は甘味である。これはあかりが、帝都最強の女たちことエフ・アンド・エフ警備保障の二ッ森姉妹から、勝手に学んだことだった。

「撫子さまは……」と景。

 その撫子は、悄気げた顔で鞄を手に立ち上がる。「ごめんなさい。今日は家のものが、迎えに……」

「そっか。じゃあうちらふたりで……」

「ですので、囮を立てます」

「囮?」景の眼鏡がきらりと光った。

 すると、撫子に背格好の似た生徒が、撫子と同じリボン、同じブーツ、同じ鞄で横に立った。

 一方の撫子は、手早く髪を引っ詰めて束ねる。

「では参りましょう。……お手数ですが、身代わりの方、よろしくお願いします」

 深々と頭を下げる撫子に、身代わりを買って出た生徒は歯を見せて笑って応じた。「いいってことよ。うちの親父は北條の社員だし。一家でお世話になってるからね」

「父によく言っておきますわ」

「それは……逆にまずいような」

「どうしてですか?」首を傾げる撫子。

 どうにも、ぼんやりした子なのである。

「秘密は守った方がいいってことだよ」景が撫子の肩を叩いた。

「なら仕方ありませんね……」

「よし。じゃあ今日こそ三人で行こう。ほら早く」

 景に急かされ、あかりも立ち上がる。

 そして教室を駆け出そうとして、立ち止まって一度戻る。

 あかりは、まだ名前もうろ覚えな撫子身代わり担当の、見事に蝶に結ばれた飾り帯を見て言った。

「今度、その結び方、教えてけろ!」


 しかし意気込んだ時ほど予期せぬ障害に見舞われるものである。

 首尾よく北條家の運転手をやり過ごし、いざ出立と校門を潜ったあかりら三人の前に、思わぬ待ち人が現われたのである。

 梯子なしでは登れないほど高い塀の上に悠然と腰掛ける、右腕と左脚が筋電甲の少年が、あかりを見下ろして言った。

「よお、伊達娘」

「……小林くん?」

 ひらりと塀から舞い降りた小林剣一は、今日は簡着物の学生姿だった。軍服以外の彼を見たのは初めてだった。こうして見ると、どこにでもいる、少し意地悪そうな普通の男の子である。

 一体なぜ彼がここに。首を傾げるあかりに、小林は言った。

「お前、今から暇か?」

「いや、わたし予定あるんだけど」

「そっか」小林は肩を落とした。「じゃ、いいや」

「え、いいの」

「いや……」小林は目を逸らした。「なんかその、お前、例のロバ何とかで、結構堪えてたみたいだったし」

「……それは、まあ。でも、小林くんに関係ないじゃん」

「ドラゴン競馬!」

「は?」

「いや、お前見たいって言ってただろ」

「言ったっけ」

「言ってただろ!」

 確かに、言ったような気がするが、そんな大声を出されなければならないことなのか。「それで?」

「品川の宇宙ドラゴン競馬、今日最終日なんだよ。俺なら、抜け道とか裏道とか使って会場入れるから」

「ほほう」景が眼鏡に片手を触れて割って入った。「つまり少年は、あくまで気落ちしたあかりちゃんを元気づけるために、誘いに来たというわけだね。あくまであかりちゃんを元気づけるために。誰か知らないけど」

 仰け反り気味になって応じる小林。「お、おう。そうだよ。別に伊達娘のことなんかどうだっていいけど、ちょっと気になったっていうか……それだけだよ」

 今度は撫子がずいと詰め寄る。「それだけ、なのですね」

「おう。それだけだよ。つーかなんだお前ら。俺はそこの伊達娘に……」

「まあまあ。そういうことならうちらも邪魔立てはせんよ」

「ええ。甘味はまたの機会にいたしましょう」

「え。なじょすたふたりとも」

 景と撫子はなぜか満面の笑み。小林はと言えば、上女でも屈指の滅茶苦茶可愛い北條撫子に詰め寄られたためか、顔を赤くしている。

 景があかりの肩を叩いた。

「それにしても、年上の次は年下……蒸奇だねえ、あかりちゃん」

「まあ。いけませんわ田村さん」

「うへへ。うちらお邪魔みたいだし、退散しましょか、撫子さま」

「ええ、そうしましょう田村さん」

「誤解! なんか誤解してる!」

「五階も六階もありますかいってもんよ」

 下町流の捨て台詞を残し、景はぶんぶんと、撫子はひらひらと手を振り、駆け足で立ち去ってしまう。

 後に残されたあかりは、唖然としながら小林と顔を見合わせた。

「おい、なんだあれ」

「友達だけど」

「なんか、すごいな。女子って……」いかなる怪物にも決して怯まない機甲化少年挺身隊二番隊隊長が、乾いた笑みになっていた。

 しかし、である。

 彼なりに気を遣ってくれているなら、無下にするのも申し訳ない。

 それに、言われてみると、宇宙ドラゴンとやらをこの目で見てみたくなってきたのである。姉への手紙に書くことが増えそうである。

 あかりは言った。

「行こっか」

「え?」

「品川」

「いいのか?」

「自分が誘ったんじゃん」今日に限って妙に歯切れが悪い小林に首を捻りつつ、あかりは続けた。「わたし、ドラゴン見たい。今日最終日なんでしょ?」

「そう。最終日だからよ。せっかくだから見とかなきゃな」

 最終日とせっかくにやけに強勢を置きながら、小林少年は頻りに頷いていた。

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