14.影の軍団

 朝の鐘の音に、早坂あかりは目を覚ました。

 目の前に無精髭を生やした男の顔があった。悲鳴を上げそうになって堪え、昨夜の経緯と今の夢を、あかりは順々に思い出した。

 伊瀬新九郎は、至って気持ちよさそうに眠っていた。しかし身長が高すぎて、寝台が窮屈そうだ。日本人離れしているのは身長だけではない。彫りが深く目鼻立ちがはっきりした顔立ちは、若い頃はさぞ女性に持て囃されただろう。黙って寝ていればいい男だ。それと、仕事がもう少しまともなら。

 先に起きられてよかった。電想機を外して起き上がり、あかりは寝乱れた寝間着浴衣の胸元をきつく閉じる。それから手を伸ばして、探偵の伸び放題の髪を撫でた。

「お疲れ様です、先生」


 その日の昼。学友共々給食のカレーライスに舌鼓を打っていたあかりの元に、奇妙な訪問者が現れた。警備員や教職員の静止も物ともせず、歩いて、時に自在に空間を飛び越えてあかりの隣に姿を表したその男は、頭部が銀時計だった。

「お昼時に失礼」

「あ、どうも。クロックマンさん」銀のスプーンを片手にしたまま頭を下げるあかり。

「さんは結構だ。早坂さん」

「じゃあわたしもさんは結構です」

「ではあかりくん。少しよろしいか?」

 えーっと、と応じて、辺りを見回す。

 騒がしかった食堂が静まり返り、すべての目線が銀時計の男と、彼と親しげに話すあかりへと向けられていた。通俗小説にあまりにもよくある状況で、あかりは乾いた笑みになってしまった。もっとも、小説では、田舎育ちの地味な少女を迎えに現れるのは決まって財閥の御曹司であり、空間を飛び越えもしなければ頭が時計でもない。小奇麗な洋装であるところだけは共通している。

「あかりくん」

「はい。すみません」あかりはスプーンを置いた。「ちょっと出ましょうか」

「それでは失礼して」

 あかりの腕を掴むクロックマン。ざわめきが食堂に広がり、箒や箸など各々の得物を構えた教師たちや警備員が一歩前に踏み出る。

「歩いて出ます。歩いて出ましょう」

「歩行か。歩行は好きだ。この星の重力は歩行に程よい」

「普段はどうしてるんですか?」

「時行だ」

「なんですかそれ」

「人間には伝わりにくい。君になら伝わるかもしれないが、今はその時刻ではない」

 すたすたと歩いていくクロックマンは、教師らを意にも介さない。代わりにあかりが「お仕事の関係者なんです、天樹の方なんです」と何度も頭を下げつつ、食堂を後にする。

 敷地の外まで出て、クロックマンは満足気に足を止めた。

「うむ。いい歩行だ」

「それで、ご用件は……」

「探偵が目を覚まさないのでな。代わりに君のところに来た」

「目を覚まさないって」あかりは思わず目を見開く。「まさか」

「いやいや、雲由来の昏睡ではない。事務所に行ったが、邪険に追い払われた。『今日は午後まで寝る気分なんだ』と言っていた。全く、自覚が足りない。由々しき事態だ」

「まあ……いいんじゃないですか。たまには寝かせてあげても。最近寝不足だったみたいですし。それに……」

「それに?」

 寝台の問題だ。

 普段彼が寝起きしているのは、事務所と衝立で仕切った小さな空間に置いた簡易寝台である。大男には狭すぎる。かつて夫婦の寝室だった居心地のいい部屋を使わせてもらっているのは、あかりの我儘である。たまの熟睡くらいは大目に見ても罰は当たるまい。

「いえ、いいんです。先生へのお言伝でしたら、わたしが承ります」

「昨夜も〈闢光〉が動いた。そしてかの雲が、昨日比で一三〇パーセントまで巨大化している」

 嘘、と応じて頭上を見上げる。

 変わらずに漂っている紫の雲。確かに、言われてみれば少し大きくなっている気がする。だが足元の市民は、気にも留めていない。車も路面電車も普通に走り、学校はいつも通りに授業を行っている。

「昨夜、何があった?」とクロックマンは言った。文字盤があかりに近づく。

「また怪獣が出て……今度は小林くんを元にしたみたいでした。でも先生と〈闢光〉が倒しました。それと、わたしがあの雲と少しだけ話しました」

「成功したのか」

「はい。でも、正体は結局よくわからなくて。先生は何か感づいたみたいですけど……」

「ならば、彼に任せよう」

「いいんですか?」

「遺憾ながら、あの男が事を秘密にする時は、往々にして秘密にしておいた方が上手く運ぶ。あれは現金な男だから、自分の手に負えなければすぐに我々に知らせてくる。つまり手は打ってあるか、これから打つのだろう」

「信用あるんですね、意外と」

「サボり癖を君が調教してくれると尚この街のためになる」

「わたしは猫派なんです」

「残念だ」クロックマンは短針を鳴らす。笑っているのか憤っているのかわからなかった。「実は彼から君に、伝言を預かっている」

「伝言?」

「ああ、今日午後、君の授業が終わったら落ち合おうとのことだ。あの男も起きる気はあるらしい」

「場所は?」

「上野公園。ウラメヤ横丁の入口」


 放課後。浅草のいろもの寄席に行こうという田村景の誘いを泣く泣く断り、あかりは上野公園へ向かった。

 最近は権利団体が設立されたこともあって、宇宙人の身体的な特徴を笑いものにするような芸は浅草界隈ではすっかり鳴りを潜めた。代わりにその手は新宿や渋谷の方に流れているのだという。そして天樹のお膝元にして東京演芸の中心である浅草では、市の営業許可を受けた芸人たちが日々芸を競っている。人間と、日本語を達者に操る宇宙人のコンビなどもいるらしい。景はその手にやけに詳しく、今日は彼女が予てより一押しする、地球人の若手芸人と歩くクラゲのコンビが大舞台に立つ注目の興行があったのだという。そのコンビ、驚くことに、ネタを考えているのはクラゲの方なのだ。笑い、という日本語話者でも理解と分析が難しいものを、その歩くクラゲ氏がどのように認識しているのか。異星言語翻訳師の端くれとしては興味を持たずにはいられなかった。

 だが、地球の平和のかかった仕事である。疎かにすれば、その歩くクラゲ氏も二度と舞台に立てなくなるかもしれない。

 公園下の、瞬時建設都市を司る装置の下に、片手のライターを開いては閉じてを繰り返す伊瀬新九郎の姿があった。だが煙草は吸っていない。思えば、駅前広場は禁煙である。

 いつもと少しいでたちが違った。

 ねずみ色の市松文様の着流しに、えんじ色の薄手の襟巻きを流している。頭にはいつものくたびれた帽子。足元もいつもの履き古したブーツだ。

 そして、腰に刀を佩いていた。

 黒い石目塗の鞘。無骨な装飾のない鍔。黒い柄はよく見れば菱巻きの一部が唐組にされている。

 いつもの一〇割増しで時代遅れな風体で、あかりは声を掛けるのをためらった。いかに有象無象の渦巻く帝都といえど、刀を佩いている人間など、警官と軍人を除けばほとんどいない。有り体に言って変人であり、恐らく思いを同じくしているだろう通行人たちは皆新九郎を遠巻きにしている。

 いや、これでも帝都東京の平和を守る快刀乱麻の蒸奇探偵なのです。寝坊助の奇人ですが、これで結構いいところもあるのです。心の中で周囲にそう語りかけながら、あかりは新九郎に近づいていった。

「やあ、早坂くん」新九郎はライターを懐に収めた。「意外と早かったね」

「いや、ちょっと、その、なんなんですか、その、お腰のものは」

「質に預けていたものを引き上げてきた」

「質って」

「さすがに普段は置いてあるだけで物騒だから、紅花姐さんのところに預けているんだ。ほら、例の角の煙草屋の」

「べにばな……ああ、あの、紅緒さんのお母さんの」

 べにばな煙草店。先日、あかりが煙草を買いに行かされ、奇々怪々に遭遇した店だ。いかにも怪しい厚化粧の女主人の顔は、忘れたくても忘れられるものではない。

「聞くところによれば、その昔、天保の頃、印旛沼の干拓工事を行っていた黒田甲斐守の家来が、バカでかい妖怪に遭遇したそうでね。その背丈は実に一丈六尺。底なし沼から現れ、天候を自在に操ったらしい。妖怪というより、怪獣の類だね」

「はあ」

「で、その怪獣を斬って捨てたのが、この刀と言われている。まあ僕の師匠が言っていたことだから、眉唾だけどね。僕以上の法螺吹きだ」

「はあ……」

「刀は工芸品であり、美術品でもあり、そして同時に人殺しの道具でもある。、見る者に、それで人を斬ったらどうなるかを想像させる。刀というものには、自然と人ならざる力が宿るものだ。だから銃やナイフよりうってつけなのさ。人ならざるものと戦うときにはね」

「害意を持つ宇宙人ってことですか?」

「確かに人は、古来自分たちの理解の及ばぬものを、超自然的なものと解釈した。その多くは、今では何らかの科学的な現象や、あるいは地球に潜伏していた宇宙の友に過ぎないと考えられている。だがあくまで、多くは、だ」

「まさか。そうでないものがいるとでも言いたいんですか。怪談噺には少し早いですよ」

「未だに超自然的なものと解釈せざるを得ないもの。これは人類の未熟故なのか、あるいは」新九郎は火の点いていない煙草を咥えた。「行こうか」

 先に立って公園へ向かう新九郎。階段を一歩上り、駅前広場の外へ出るや否や、煙草に火を点けた。

 以前に教わった通りの手順で階段を登り、半端なところで二礼二拍手一礼。カエルの石像が今日も虚しく水を吐き続ける噴水を抜け、戦勝記念像の前に立つ。そして土方三十郎提督像の目を見つめ、目を閉じ三秒。

 霧と混沌の裏横丁が目の前にあった。

 以前に訪れた時ほど混雑はしていなかったが、羽の生えた小人や片腕ほどもある棘々したカマキリのようなものが飛び交っている。さらに上空には、透き通る蛇のようなものが空中を泳いでいる。表でも時折見かける移民数の多い種族もいれば、そもそも入星管理局の審査を通過しているのかも怪しい一団もある。目を伏せず、だが誰とも目は合わせず。天辺が霧に隠れて見えない超高層ビルの谷間の横丁を、新九郎の影に隠れるようにして進む。

 その新九郎は、袖に手を入れて猫背気味になり、人混みを流れるようにすり抜けている。いつも無闇矢鱈と堂々としている彼にはあまり似合わない仕草だった。

 あるいは彼でも緊張するようなものが、この先に待ち構えているのか。

 いつぞや違法義肢装具士の店に立ち寄るために入った横道を通り過ぎ、ひと悶着あった〈倶楽部 キリヱル〉の前もやはり通り過ぎる。

 次第次第に、行き交う人が疎らになっていく。

 そして誰もいなくなった。

 辺りは宵闇。目の前には鬱蒼と茂る森と、蝋燭が転々と灯された緩やかな石段。そして、紫色の鳥居が無数に並んでいた。

 奇妙なのは色だけではない。

 すべてが逆さだった。

 笠木と貫が石段に沿ってめり込んでおり、二本の柱はそこから上に伸びている。遠目に見ると、石段の左右に延々と紫色の柱だけが並んでいるように見える。

「踏み越えるんだ。絶対に触らないこと」と新九郎。

「なんなんですか、これ」

「さあねえ。この裏横丁ができた時から、ずっとここにある」言い、新九郎は両手を袖から出して鳥居を踏み越えていく。

 音がしなかった。

 ふたりの声と足音だけが、静まり返った世界に溶けていく。

 周りは森。にもかかわらず一切の音がしない。まるで何もかもが死に絶えてしまったかのように。

 鳥居の中には畏れがある。畏れの中には半分の恐怖と、半分の命がある。

 だがここには、畏れが内包する陰陽の、陰しかない。

 あかりは思わず身震いする。

 特級異星言語翻訳師という肩書も、鍛えた技術もなんの役にも立たない、決して言葉が届かない存在の気配を感じた。

「神社の鳥居は、神々の住まう場所と俗世間を隔てる結界であり、鳥居を潜るという行為は、外界の穢を払う儀式だ。なら踏み越えるとは、何を意味するのだろう。そもそも封じるためのものを逆さにしたら、封じられているはずのものは、どこへ行くのだろう」

「俗世よりもこの中の方が穢れている」

「僕もそう考えている。この中にいるのは、人間がその尊厳のすべてをかけて、冒涜しなければならないものなのではないかと」新九郎は歩きながら、煙草に火を点ける。「なら僕らが何を賭しても守らなければならないものとはなんだろう。愛か。意志か。優しさか。それとも……おっと」

 新九郎は足を止めた。あかりも新九郎と同じ段へと登った。

 ふたりの目線の先で、鈴が鳴った。

 赤い首輪の黒猫だった。数段先で、まるでふたりを待っていたかのように、おとなしく四足をついて姿勢を正して座っていた。

「やあ。君も一緒に行ってくれるのかい」と新九郎。

 猫が鳴き、案内するかのように先に立って歩き出す。猫もまた、鳥居を踏まずに器用に飛び越えていく。

「あれ、もしかして、谷中にいた子」

「丸の内にもいた」

「本当に同じ子だったんですか」

「さあ。どうだか」新九郎は肩を竦め、歩みを進める。

 そして息切れするほど登った先に、ごく小さな広場が現れた。

 広場の中心を囲うように花崗岩の磨き上げられた石版が扇形に並んでいる。

 そのひとつに近づく。無数の文字が刻まれている。

 それは、人の名前だった。

 あかりは半ば無意識に、その文字へと手を伸ばす。

 すると、あかりの足元で猫が威嚇の鳴き声を上げた。同時に新九郎が「触るな!」と声を荒げる。

 慌てて手を引き、そのまま数歩下がる。

「同情するな。共感するな。君は僕より感受性が強い。連中に取り込まれるぞ」

「連中?」

「ゼベンン星人に取り憑いた、君が僕の夢の中で対話を試みた相手さ」新九郎はあかりを背中に庇い、刀に手をかけて一歩前へ踏み出す。「ゼベンン星人の本来の目的は本人に訊くとしよう。だが彼は、この街へ来てすぐ、その共感性の高さから彼らに接触してしまった。そして彼らの傀儡となり、平和を謳歌する街と、街の仮初の平和を守る僕を標的とした。その動機は、いわばすべての人間が持つどす黒い感情だ」

「どす黒い感情?」

 周囲の森の影がその濃さを増す。闇がにじり寄ってくる。広場が刻一刻と面積を減らしていく。

 新九郎が刀の鯉口を切った。

「一九四五年五月二五日。二五年前の今日。遠く第三帝国から放たれた彗星爆弾により東京・山の手は火の海となった。多くは軍事施設でもなんでもない住宅街だった。丸の内も焼かれたよ。一連の空襲による死者数はおよそ七五〇〇。その前の三月一〇日の下町大空襲では九万以上が死んだ。点在する小規模な軍需工場を攻撃するという名目で、市街地を焼き払ったのさ。折からの強風で火は避難所まで焼いた。バケツリレーで火を消そうとして逃げ遅れて死んだ者も数多くいた。ここに刻まれているのは、合わせて一〇万を超える死者の名だ」

「慰霊碑ですか。なら、どうして……」

「表に置かないのか。確かに土方提督の勝利は希望だった。だがそれは、凍えないために呷る酒のようなものだった。慰霊碑は作られた。だが建設途中に気が触れる者や、不可解な事故が続発したのさ。そして天樹が降りてくると、慰霊碑は姿を消して、この裏横丁の奥に封印された。死者の怨念とともに。彼らは、残された我々が希望を満ちた生を送ることなど、望んではいない。いや、心の一部では望んでいるのかもしれない。だがその葛藤は、強すぎる怒りや憎しみに飲み込まれ、こうして今も、帝都の底を這う暗雲となっている。だが僕らは、乗り越えなければならない。屍を踏み越えて、眠らない都市を築かなければならない。決して忘れないが、決して囚われてはならない。だから」

 新九郎は刀を居合に抜き、大上段から振り下ろした。

 雲払いの刃が閃き、鋭い剣気が闇を裂いた。

 そして刀を鞘に納め、言った。

「どうか、安らかに眠りたまえ」

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