9.赤の涙
はらはらと舞う氷の粒が吹き散らかされ、伊瀬新九郎の帽子が頭を離れて舞い上がる。受けたままの姿勢で静止する新九郎と、両腕の刀を振り抜いたまま静止する〈赤のソードマン〉。剣風と爆音が背後から断続的に轟く中、両者の刀の振動が次第に発散する。
新九郎の着物の胸元が裂け、煙草の箱と調査のための写真が落ちる。そして吹き飛んでいた帽子が氷の上にふわりと落ちた頃、新九郎が口を開いた。
「なるほど。君はもう、命ではないというわけだ」
虚を突く一閃で鋼鉄の脳天を一撃。よろめく〈赤のソードマン〉を睨み据え、新九郎は刀を構え直す。
「なぜだ。なぜ倒れない、伊瀬新九郎」
「蒸奇殺法というのはね、早い話が
「なぜ倒れないと訊いている!」
息を吹きかけ、帽子を被る。「君がもはや知的生命体ではないからさ。ゆえに、同じ型を写し取ったところで、ただ刀を振り回しているにすぎない。僕と葉隠幻之丞の型は、体格差と時間差はあれど四次元的に相似だ。君の鬼ノ爪もね。だが、もはや知的生命体ではないものがいくら証明しようと無意味だ。その銀ピカの頭の中でいかに上手に人の脳が維持されていたとしても、今の君は、人体型の機械を操ることができ、違和感のない会話が行えるだけの、知的ではない存在ということだ。いや、しかし、その境界線はどこにあるのだろうね。僕は哲学は専門ではなくてね……どうした、君」
〈赤のソードマン〉が硬直していた。
両腕の刀を構えたまま頭部は俯き、赤い発光機が足元を照らしている。
何か仕掛けてくるか――刀に手をかけたまま、新九郎は後方の姉妹に向け叫んだ。
「怒られない程度はやめだ。責任は僕が負う。……全力で行け!」
宇宙超鋼の鋼線を編み、先端に鉛の分銅を仕込んだ鞭は、刃であり大鎚である。鋭く振れば軌跡にあるものは切断され、叩きつければ岩をも砕く。切ると叩くを制御するのは遣い手の加減ひとつ。しかしその遣い手はこの世に存在しない。機械の身体を動かすための制御装置と化した人間の脳に、理想的な鞭遣いの動きを書き込み、脳そのものが電文を実行するための傀儡に堕しているのである。
その〈白のウィップマン〉が、二ッ森焔の脳天に狙いを定め、渾身の力で振るった鞭の先端が、炎に包まれ溶解した。
「
左腕をだらりと垂らし、柳の枝が風に揺れるように立ち上がる二ッ森焔。湧き上がる炎が旋風となり、右手の銃――立ち塞がるものを灰燼に帰す豪熱の霊銃・
そして引き金を引くと、光は八筋の光条となって放たれ、即座に反転して焔の背後へと殺到した。
氷の壁を貫く。その先で、まさに八本の短刀を一斉に投擲せんとしていた〈緑のダガーマン〉がいた。
光に触れるやいなや溶解。短刀は灼熱となって飛び散る。そして光は、緑の発光機を持つ短刀の主を貫いた。両肩、両膝、両腰、そして鳩尾と喉仏。固体が突如として液体と化し、鋼の身体は八つの断片となって辺り一面に散らばった。
耳を劈く爆音と目も眩む閃光。それらが収まると、焔は鮮やかな朱色を引いた唇を銃口に寄せ、立ち上る煙をひと吹き。そして足元に転がり、まだ緑の光を明滅させる〈緑のダガーマン〉の頭部へ銃口を向け、火球を放った。
火柱をかき分け、痛む腕と足を庇いながらも焔は進む。武器を構えながらも怯えに支配された〈白のウィップマン〉が、一歩、また一歩と後退する。
一方――左の脇腹を抑えつつ立ち上がる二ッ森凍もまた、伊瀬新九郎の号令を聞いた。
破れた羽織を撫で、右手の鞘に刀を納める。対するは、立ち塞がるものすべてを串刺しにせんと構える〈青のランスマン〉と、その背後で邪魔するものすべて叩き斬ろうと巨大な鉞を肩に担いだ〈黄のアックスマン〉。冷気を破る鉄の行進が、居合に構えた凍に迫った。
じりじりと詰まる間合い。凍が目を閉じ、青い発光機が明滅する。
四方八方から怒号と爆音が反響してもなお、対峙する両者を繋ぐ殺意の糸は解けない。互いに刃を向けている者同士にのみ通じる理解と共感。その危うすぎる均衡がついに崩れる。
雪が降っていた。
だが、その研ぎ澄まされた冷気を感じる器官は、〈青のランスマン〉には備わっていない。代わりに検知されたのは、関節や人工筋肉の動作不良だった。雪の粒は、ただ水蒸気が寄せ集まって氷結したものではなかった。ひと粒が鋼鉄の表皮に落ちると、その一点から放射状の霜が広がり、まるで生物であるかのように機体全体を覆おうとしていた。
〈黄のアックスマン〉が鉞を振り回し、雪の粒を振り払おうとする。そして〈青のランスマン〉は、身体が寒さを感じていた頃を思い出すように身震いし、氷結した地面を蹴って気合声を上げた。
並の人間なら何が起こったのか理解する前に刺し貫かれているほどの突進。突き出された槍の鋒が雪を押し退け、女学生の水兵服を着た女の白い身体を血に染めんとした時だった。
二ッ森凍が瞼を開いた。
抜き打ちの妖刀・
続けざまの斬撃、斬撃、斬撃。殺到する槍の穂先、柄を次々と切断。見る間に鋼の棒きれと化す。そして唖然とする〈青のランスマン〉の腹部に、刃が触れた。
「抜けば玉散る氷の刃、ですわ」
両断。〈青のランスマン〉の上半身が、鮮やかな一直線のひと太刀で下半身を失う。まるで胡瓜か何かを斬ったかのような滑らかな断面が露出し、上半身は顔面から氷の上に墜落した。
雄叫びを上げて鉞を振り上げる〈黄のアックスマン〉。しかしそのあまりにも大振りな刃が凍を捉えることはない。振り下ろされるより、嵐に舞う雪のように凍が懐に飛び込む方が早い。刀の柄で鳩尾の辺りを打つと、二米はある巨体が後方へ吹き飛んで錆びた廃車に激突する。
援護に近づこうとしていた僧兵の両手がひとりでに凍結し、構えていた小銃を取り落とす。凍が血糊を払うように刀を振ると、その表面に構成されていた氷結した水単分子の膜が蒸発した。
まだ刀は納めない。脇腹の痛みを堪えつつ、凍は祭壇の選留主と、その頭上で静止する金色の怪物を見上げた。
伊瀬新九郎は、刀に手をかけたまま、動きを止めた〈赤のソードマン〉へと歩み寄る。
その赤い発光機が照らす先には、つい先刻、新九郎の懐から落ちたものがある。煙草の箱。そして写真。帝都の外れの団地で、息子が行方知れずになった妻から受け取ったものだ。
本来の肉体を脳以外すべて失った鋼の怪物が、震えている。
「まさか」新九郎は間合いの外へと一歩後退する。「大田原宏典くんか、君は」
〈赤のソードマン〉の耳を劈く叫びが轟いた。
電子化しきれない声はもはや声ですらない。ただの音だった。局を合わせ損なったラジオか、調整を間違えた町内放送のような。不明瞭な、まるで脳と声帯の接続に異常が発生したかのような音は、しかし新九郎には悲鳴のように聞こえた。
助手がいれば、と思う。彼女なら、電甲戦隊全員の本名を聞き取ることもできたかもしれない。そして〈赤のソードマン〉が何を伝えたいのかも、理解してやれたかもしれない。だが、伊瀬新九郎にできることは、舌先三寸の騙し合いと、刀や超電装で暴れることだけだった。
だが、それは努力を惜しむ理由にはならない。
「宏典くん。刀を引いてくれ」と新九郎は言った。「君が元の身体と、元の生活を取り戻すのは難しいだろう。だが、前例がある。帝都は、姿かたちやその正体にかかわらず、望む者が生きる機会を得られる街だ。諦めるのはまだ早い。その腕前なら、いい用心棒になるぞ。上野の警備会社を紹介しよう。夏の涼と冬の暖、それと日々の甘味には事欠かない生活を約束する」
「ぼくは」雑音の中から微かに言葉が聞こえる。「ただ、つよくなりたいだけなのに」
新九郎は刀から手を離した。「苦境に立つ母を守るため。そうだね?」
「かあさん」
「僕も同じだ。最初に剣を学んだのは、母を守るためだった」
「かあさんは、ぼくのために」
赤い発光機が明滅し、新九郎は直感する。
壁の暦に書き込まれた数字。その意味を、宏典少年は知っていたのだ。自分の手脚のために負った借金と、返済のために母が払っている犠牲のことを、宏典少年は理解していた。だが、年端も行かぬ若者に、その現実は重すぎる。
〈赤のソードマン〉――大田原宏典の成れの果ての額で、折れた刀の固定が外れた。ぎこちなく震えながらモーターが回り、ゆっくりと当初の後ろ向きへと移動していく。
「母上は君の帰りを待っている。さあ……」
「困りますねえ、探偵さん」嗄れ声が割り込んだ。
選留主だった。祭壇を半ば降り、懐に手を入れ、何かを取り出す。巻物を機械で模したような筒の先端に、中空の何かの結晶のようなものが取りつけられている。
「貴様が彼を籠絡したのか」
「金と引き換えに母を抱く男たちを、ひとり残らず斬り捨てられる力こそが、彼の夢。私はそれを叶えたにすぎません」
「ふざけるな。己の手駒が欲しいがために、母を思う子の心を弄んだ。たとえ天樹が許しても、この僕が許さん」
選留主は、ただ口の端で笑う。
集団が俄に動いた。
武装していない数人が選留主に駆け寄り、僧兵たちは武器を置いて、選留主を見上げて跪く。健在の電甲戦隊、〈白のウィップマン〉と〈黄のアックスマン〉も同様だった。
いずれも傷を負った二ッ森姉妹が、それぞれの得物を予断なく構えたまま新九郎の左右に着く。新九郎は、頭部の発光機が消灯したままの〈赤のソードマン〉を警戒しつつも、懐から理久之進の眼球を取り出す。
選留主の傍には男がふたりいた。ひとりは、髭を整え頭頂部の薄れた髪を坊主にした痩せぎすの男。洋装に丸い黒縁眼鏡は研究者然としており、こんな場所より大学の研究室が似合う風体だった。そしてもうひとりは、白髪を七三に分けた太り気味の初老の男。ネクタイを締めた上から工員の作業着を羽織った姿はこんな場所より工場を見回り算盤を弾いている方が似合う。しかし、いずれも選留主に付き従っている。
思い出すのは、ノラの語った三人の博士だった。研究の全貌を誰にも把握させないために三分割した研究者集団の長たち。間違いなく彼らだ。機械の眼球だった物で撮影し、懐に収め、そして気づいた。
閃光をもって人の心を異界へ連れ去る下天の妖術。あるいは魔の祝福。半ば完成していたその研究と、万能の増幅器たる〈アルファ・カプセル〉が組み合わせられた。
選留主が掲げる筒と結晶――あれこそが〈アルファ・カプセル〉。
新九郎の背筋を悪寒が走った。選留主に従うふたりの男が、旋盤作業に使うような眼鏡を装着した。新九郎は流星徽章を叩き、黒縁眼鏡へと変形させる。同時に左右の二ッ森姉妹に叫ぶ。
「ふたりとも目を塞げ!」
焔は元々、戦闘のためにゴーグルを装着している。新九郎は、本来は星鋳物での戦闘補助に用いる眼鏡を掛ける。横目で凍を見る。羽織の袖で視界を覆おうとしている。だが、濃紺に白い南天が染め抜かれた羽織は、激しい戦闘で擦り切れている。
新九郎は祭壇に背を向け、凍を庇う。同時に選留主が高らかに宣言する。
「真界転生」
愛と理を喰らうと誰かが評した閃光が走った。
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