9.髪が伸びたね
戦勝記念公園の階段を一段登り、二段登り、三段降りる。続いて五段登り、八段登り、一三段降りる。最後に二三段登り、二礼、二拍手、一礼。大提督・土方三十郎像の目をじっと三秒見つめる。
ウラメヤ横丁には今日も独特の湿気を伴った臭気が漂っている。虫とも、羽の生えた蜥蜴ともつかぬ生き物が群れをなして電線を埋め、果ての見通せない建造物を見上げれば、竜のようなものが靄の中を蠢いている。気味の悪いものが並ぶ露店。帝都広しといえども偽装皮膜を使わない異星人が多数派になるような地区はここだけであり、人間がほとんどいない地区もここだけである。
惚れ薬がもたらした一連の騒動から一夜。
調査に珍しく積極的な伊瀬新九郎。なぜかとあかりが問うても、曖昧にはぐらかすばかり。〈紅山楼〉で何があったか直球で訊いてみると、貝になって狸寝入りを決め込んでしまった。それならそれで考えがある。沙知に訊いてしまえばいいのだ。男たちはいつでも、女たちの情報網を甘く見ている。
さておき、どちらかというと画廊〈十夢捜家〉の方を優先したかったが、残念ながら定休日。変に刺激して黒幕に逃げられては困るという新九郎の判断でそちらは明日以降に回すことにして、二ッ森凍の服から切り取った樹液サンプルの分析が今日の仕事となった。そこで早坂あかりと伊瀬新九郎はウラメヤ横丁を訪れたのである。
「あの先生、わたし、ここあんまり好きじゃないんですけど……」
「案ずるな、僕もだ」
「それ全然安心できないんですけど」
「確かに」火の消えた煙草を咥えたまま、新九郎は長身が嘘のようにあやかしどもの百鬼夜行を巧みにすり抜けていく。
不平を言っても、なら事務所で待っているかい、とは彼は言わない。話してわからない相手ばかりの横丁で、特級異星言語翻訳師などお荷物でしかないというのに。
前回ここに連れてこられたときは、〈倶楽部 キリヱル〉の並み居るやくざ者たちを相手にはったりのダシに使われた。特級異星言語翻訳師という肩書が大事であり、言ってしまえば誰でもよかった。
思い出すとなんだか腹が立ってくる。そして不安にも襲われる。もし、ここに連れてきた理由を訊いて、『リンガフランカーだから』と答えられたらと思うと、怖い。そしてその怖さは、彼に、当然隣にいるものとして扱われたいという、期待の裏返しでもある。
彼に、技術や能力ではなく、人間として気に入られたいと思っている?
そう考えると急に気恥ずかしくなって、あかりは赤面する。振り向かないでと願いながら、広い背中に追いすがる。
すると、新九郎が急に立ち止まった。
「危ない。通り過ぎるところだった」
「あれ? ここって……」
どこも似たような路地だが、見覚えがあった。露店と露店の隙間に、薄暗い照明が灯されたタイル張りの、ビルの反対側まで通じている廊下が口を開けている。
大股で進む新九郎。ここも狭い店舗が軒を連ねている。商品は壁に張りついているだけ。店主が座るだけの間しかない。どれも禍々しい形の機械部品だ。それも、何かを動かすのではなく、何かを切ったり潰したりする類の。
そしてある店舗の前で新九郎は足を止めた。
「やあ。ご無沙汰してます」
「おお、あんたですかい、新さん。と、お嬢さん」
白と緑色の間のような肌をした、六本の腕のうち三本が機械の店主がゴーグルを上げた。現れたのは昆虫のような複眼。喉元には、非合法な仕事に手を染めていることの証明である高価な翻訳機。ウラメヤを根城にする脱法義肢装具士のショグだった。
壁面に並ぶ、筋電甲の高出力化のためのオルゴン伝送管や仕込み武器用の部品一式。蟹の鋏のようなものや何を発射するのか定かでない銃のような物騒なものが並ぶ。すべて正規品ではない。
「例のロバなんとかの身体の具合はいかがです?」
「それがね。申し訳ないのですが、動きを気味悪がられてしまった。今は壁に磔の刑です」
「そうですか。我々の愛玩動物用の部品なんですがね……。動きも含めて、本質的な親しみを覚えるように設計されとるんですわ」
「動物に部品とは、これまた……」
「わたしたちだって服を着るし、猫ちゃんに首輪を着けてあげるじゃないですか」
「ふむ」新九郎は目を瞬かせる。「そういう考え方もありか」
「可愛がってやってくだせえな。猫ちゃんみたいに」ショグの喉元からの音声があかりの方を指向する。
「むしろ猫に可愛がられているというか……」
「それで、おふたりさん。今日はどういったご用向きで?」
「これです」勘定台の上に、新九郎は懐から取り出した壜を置く。
「ほうほう。こいつは……」機械の腕の先で挟んで取り上げ、もう一本の機械の腕の先端をレンズに変えて、しげしげと観察しつつショグは言った。「女物の衣類の切れ端。女学生の服に使う生地だ。新さん、随分と発展家でいらっしゃる」
「いや、そういう用途ではありませんよ。ある意味そういうものですが……」
「というと、例の紅白草関連ですかね」
「さすが、話が早い。まさかあなたのお知り合いが関係しているとか?」
「だとしても素直には申しませんて」笑い声を真似たのか、ショグは勢いよく息を吐くような音を鳴らす。
「どちらでもいいさ。こいつに染み込んだものの分析を頼みたいんだ」
「ほほう。そちらのご依頼は久々ですな、新さん」ショグは機械の腕で追い払うような仕草をする。そして生身の外骨格で覆われた方の腕で壁のダイヤルを捻った。
新九郎が一歩下がる。その新九郎に襟を掴んで引かれたあかりも一歩後退。
「な、な、なじょすっど」
「髪が伸びたね」
「伸ばしてるんです!」手櫛で髪を整える。襟に汗じみができていないか気になって仕方ない。
「そうなの?」能天気に応じる新九郎。
すると、ショグの店のあらゆる壁が音を立てて回転する。まるで忍者屋敷だ。機械部品は隠れ、代わりに次々と薬品壜や怪しげな硝子器具が姿を表す。
「少しお時間頂戴します。そのへんで休んででくだせえ」
「無茶を仰る。我々人間にとって、ここほど気が休まらない場所はありませんよ」
「なら市でもご覧になったらいかがでしょ。外で使うための……人間のふりをするためのシロモノの行商がちょうど来てますぜ。家具、雑貨、衣類、宝飾品……髪留めの類も」
「行ってみるかい?」
「そうですね。時間があるなら」
「素直じゃないねえ。まあ、僕も少し話しておきたいことがあるから」
「話?」
「それはおいおい」と新九郎ははぐらかした。
呼吸器まで装着している異星人は意外と少数派だ。裏を返せば、地球に似た環境でなければ生物は発生せず、知的生命体も生まれないということになる。金属生命体や機械生命体の類もいるにはいるが、発祥を辿ると自然発生ではなく、すでに絶滅した知的生物種が人工的に作ったものが独自進化したものであったり、身体の形を変えたものであることが多い。
しかし変わり種もいるにはいる。露天の店主に向けて新九郎が手を差し出すと、その店主の、断続的に蛍光を放つ触手が巻きつく。
「化学物質を送り込んで感情を惹起させることで、意志を伝達するのさ。……あー、うむ。ご来店ありがとうという気持ちはわかった、わかったから、これはどこの通貨で幾らなんだ……」
「だから売れてないんでしょうか」
「たぶんね……」新九郎は苦笑いになる。「通訳してくれ」
「えっと……」まず銀河標準語A種で話しかけてみる。
人間の形をした烏賊のようなその生き物はからは、戸惑いのような感情だけが返ってくる。だがやがて、聞き取りにくい音声のようなものがつぶらな瞳の下あたりから聞こえてくる。これなら通常の翻訳で意思疎通ができそうだ。
数分ほどもやり取りしてから、あかりは新九郎の方を向き直った。
「どれでも一点一〇〇〇円、二点で一五〇〇円だそうです」
「煙草が五箱買える……」
「五日でなくなる分じゃないですか」
「この手の女物は価値と価格の相関関係が……」新九郎は並んだ工芸品の中から髪留めをひとつ手に取った。「おっ、これ、いいね」
「なんですそれ。蕾?」
あかりは背伸びをして新九郎の手元を見る。
蕾、のような飾りがついた金属の髪留めだ。表面は艶の落ちた銀色。髪留めのわりに、撥条のようなものが見当たらないのが珍しい。
「飾りの部分の金属が長い時間をかけて少しずつ変形するんだよ。一〇年くらい経つと、この蕾から花が咲く。で、本体の方は……」蕾を捻ると緩く湾曲した一対の金属板が開いて髪を挟めるようになる。「こんなふうに、留めるとき、解くときの形を記憶してる。すごいだろう?」
「へえ……」と感心し、数秒遅れて気づいた。「どうせ超電装の技術だから詳しいんでしょう」
「勘がいいね。悪いか」
「別に……」
「しかしね、この蕾の部分、こんな形状記憶合金は地球にはないよ。この薄さでも一〇年使える強度だ」
「ふーん。そうですねえ。それはすごいですねえ」
「なんだ。渋い反応だな」
あかりは深々とため息をついた。「欲しいって言わせたいんですか、わたしに」
「わかる? その通り。君には色々大変な仕事をさせてばかりだし、大変なこともあったし」新九郎は早くも財布を取り出す。「少しは気晴らしになればと思ってね。お節介だったかな」
「いえ。その……嬉しいです」
二ッ森凍のことを言っているのだとわかった。しかし当の被害者が泣いたり叫んだりしないから、彼自身、どうすればいいのかわからないのだろう。
それにしても、見た目が綺麗とか可愛いとかではなく、技術の話を始めるのが、なんとも伊瀬新九郎らしいなと思う。価値と価格の相関が取れているということか。結局のところ、大きいおもちゃが好きなのだ。もっと他に言うことがあるだろうに。たとえば、似合ってるね、とか。
それに、曲がりなりにも異性への贈り物であることに無頓着すぎる。倍も年齢が違うのだから、犬猫の機嫌を取るような気持ちなのかもしれないが、それはそれで腹が立つ。
そうこうするうちに紙袋を手渡されてしまう。
どこかの星の祭囃子らしい弦楽器の不協和音が延々と響いている。
新九郎は財布を懐に収めると、煙草を咥える。
「もう少し時間があるね。……少し歩こうか」
煙に巻かれながら、新九郎は表の市から建物の中へと入っていく。
灯された照明が明るい。等身大のカプセルのようなものの中に、着物や洋服の人間が浮かんでいる。本物ではなく、偽装皮膜の販売店だ。一定時間ごとに、服装や髪型が切り替えられている。行き交う人々も、多くは一応人間に見える。つまり外で暮らすつもりがある異星人の路地ということだ。出口にも近く、他よりも少し安全なのだろう。
「この間の話なんだがね」常になく歩調を落とし、新九郎は言った。「惚れ薬の入手を君に依頼した友達。あれは撫子くんだろう」
心臓が跳ねた。「どうして……」
「僕はね、北條の生まれなんだ。撫子くんは僕の腹違いの姉の子。彼女は僕の姪ということになる」
「事務所の二階の看板。天地逆さの三ツ鱗。北條の紋の逆ですよね」
「聞いてたか」
「雪枝さんと武志さんから」
「あのお喋りめ」新九郎は苦笑する。「この間、北條の人間がうちに来ただろう。あれは縁談だ」
「縁談!? 先生、結婚するんですか?」
「断るよ。相手は撫子くんだから」
あかりは足を止めた。「どういうことですか、それ」
新九郎も背を向けたままその場で止まる。「どうもこうもないさ。北條の家には直系の男子がいない。隠し子である僕以外には」
「そうじゃないですよ! だって撫子ちゃん、六つのときから恋い慕ってる年上の男性がいるって、彼が振り向いてくれないからって、わたしに……」
「そうだ。彼女が惚れ薬を使う相手は、おそらく僕だ」新九郎は、自分を落ち着かせるように煙草を吹かす。「近親で結婚を繰り返す異常性。六歳の時から結婚相手を定められているのも異常だ。だが彼女は、本気なんだよ。君は知っているべきだと思った」
「なんでわたしが?」
「考えてもみたまえ。君は、撫子くんより僕の身近にいる。同い年で、ほんの数ヶ月前にこの街にやってきたばかりにもかかわらず。彼女は君に嫉妬しているだろう。それが嫉妬だとわかっているかは怪しいが」
「諦めさせるんですか」
「そのつもりだ」
「紅緒さんがいるからですか? 筋を通すつもりもないくせに」
天井の照明が明滅する。電燈の隙間に挟まった蛾のような虫が羽音を立てる。
「意外だな」靴底に砂を噛み、新九郎が振り返る。「君は反対すると思った。撫子くんは親が決めた縁談で倍も年上の男と結婚させられるんだぞ」
「それは……賛成とか反対とかじゃないですよ。本気なら、可哀想じゃないですか」
「話というのはね。破談を納得するよう、君からも彼女に……」
並んだ偽装皮膜の男女が一斉に地味な和服へと切り替わる。
「嫌です。自分で言ってください。卑怯ですよ。自分が撫子ちゃんの泣き顔を見たくないだけ、撫子ちゃんに向き合いたくないだけじゃないですか。逃げてるだけじゃないですか。最低ですよ。星鋳物を降りたら、ただの男なんですか、先生は」そう捲し立てて、いつの間にか握りしめていた紙袋の硬さに気づいた。「……先生。これをくれたの、どういう意味なんですか。先生からの贈り物を身に着けているわたしを、撫子ちゃんに見せつけるつもりだったんですか」
「違う。断じてそんなことは……」
「嘘」
言うと、ウラメヤに入った時からずっと感じていた胸のつかえのようなものが水を流したように解けた。少しだけ期待した。これは、大切に思われていることの証なのだと。彼自身の思いはともかく、年上の男性から身を飾られるものを贈られたことを、明日から周りにそれとなく自慢しようとさえ思っていた。
でもそれが、体よく撫子を追い払うための口実にすぎないとしたら。大事な友達を傷つけることに知らないうちに加担させられるとしたら。舞い上がってしまった自分があまりにも滑稽で、恥ずかしくて、悔しくて、そして目の前の男が許せない。
何か言って近づいてこようとする新九郎へ、髪留めの入った袋を投げつける。
「最低」
「早坂くん……」
「わたしだって女ですよ!」
裏横丁の出口へ向かって駆け出す。新九郎は追ってこなかった。
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