2.影と光

 なるほど、女たち、だけではない。

 〈神林組〉が躍起になるのも頷ける事態である。神林忍の話によれば、彼らが政府公認状態にある吉原以外の私娼窟に売った女たちのみならず、彼らが仕切る悪徳金融業者の客も消えていた。つまり、金づるが次々と枯れ果てているということだ。老いた組長が、孫であり、次の組を背負って立つ男を、建前上は敵対する新九郎の元へ遣いに出すほどの緊急事態である。そして、〈神林組〉の収入源を断って得するのは、彼らに敵対する組織。そのうち非合法のものといえば、異星人マフィアの〈赤星一家〉である。〈神林組〉の補給線を叩く戦争を仕掛けてきたのだ。

 忍から提供された行方不明者の一覧を手に、新九郎は帝都を西へ東へ歩き回る。新宿の、取り壊しを待つばかりの寂れたビル。荒川沿いのあばら家。芝浜あたりの、かつての埋め立て工事の現場事務所がそのまま住居になったもの。いずれも、生活の痕跡を残したまま、主だけが消えていた。

 そして新九郎は列車に乗って荒川を渡り、東京市の北外れにあたる駅で降りる。

 ここまで来ると、瞬時建築された帝都八百八町からは外れている。戦後の急速な経済成長と住宅事情の逼迫に伴い、農地を潰して真っ直ぐな道路を通し、代わり映えのしない欅並木を植え、住宅公社が定規で切ったような団地を建てた。住民も判で押したように似通っている。父親の勤め先は都内。母親は主婦。いずれも地方出身。夫と妻と、ひとりかふたりの子供から成る家族が地縁や人の縁から切り離され、団地で大きな家族のような何かになっている。彼らにとって、郷里に帰らずに済み、東京に生業と棲家を得られているという成功の証が、この団地だ。彼らはここで暮らし、子を育て、老いていく。もう東京は彼らのものなのだ。

 夕日に照らされる、同じ建物。同じ窓。学生時代に読んだ小説のことを、新九郎はふと思い出す。『幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである』。キリスト教社会主義の首魁のひとりであり、資本家の搾取や私有財産を否定した貴族のボンボンである世界的作家、トルストイの著作にある格言である。しかし、この世のあらゆる光景がありふれたものに見えたなら、それは老いだ。決して若くはないが、まだ老いの世界に足を踏み入れたくはないと、常々考えてしまう年頃の伊瀬新九郎である。

 ゴムのボールを手に駆けていく子供たちをすり抜け、新九郎はその団地のひとつに足を踏み入れ、階段を登る。そして目的の扉に辿り着き、呼び鈴を押した。神林忍から受け取った一覧のひとりである、大田原宏典という男の住居だった。

 鍵が回る。薄く扉が開き、妻らしき女が顔を見せた。熟れすぎた果実のような匂いが香った。

「はい……どちら様でしょう?」

「突然すみません。僕は、伊瀬新九郎という者です。大田原宏典さんのお宅ですよね」

「……帰って下さい」

 にべもなく閉じようとする扉の隙間に爪先を差し入れ、新九郎は続ける。「借金取りじゃありません。私立探偵です。ご主人、行方知れずですよね。さる筋から彼を探すよう依頼を……」

「宏典はうちの子です」

「お子さん……?」

「宏典は」扉が開いた。向こう脛まで隠れる丈のスカートに、糊の効いたブラウスの上からエプロン。パーマをかけた短い髪。化粧はやや濃いが美人だった。模範的な団地の奥さんだった。「宏典はどこにいるんですか。あの子は悪くないんです。あの子は……あの子を返して下さい!」


 大田原幸代、が彼女の名だった。

 取り乱す彼女を落ち着かせると、幸代は頻りに詫びながら上がるように言った。居間に通され、台所に立つ彼女の背中を眺めつつ、部屋の様子に新九郎は目を走らせる。花瓶の花が萎れている。流しには洗われていない食器が積み上がっている。居間の隅には新聞が乱暴に積み上げられている。点けっぱなしのテレビから代わり映えしないニュースが延々と流れている。食卓の上には梨がいくつか籠に収まっていたが、全部色が悪くなっていた。壁には、細かく書き込みがされた月刻みの暦がある。

 壁際の飾り棚に写真がある。どこかの湖で撮られたらしい幸代と、夫らしい眼鏡の男と、息子が並んで写っている一枚。写真館で撮ったらしい家族写真。その他諸々。幼い頃からの息子の写真が一番多かった。

 帽子を取った新九郎の前に湯呑が置かれた。緑が強く、細かい葉が浮いた緑茶だった。急須と自分の湯呑を置き、エプロンを畳みつつ幸代も座った。

「侍の茶だ」と新九郎は言った。「宇治茶より、僕はこちらの方が好きなんです」

「よくおわかりですね。夫の田舎が静岡の方なんです。お義母さまが、気にして送ってくださって……」

「でもあなたは紅茶の方が好き」

 幸代は目を見開く。「どうして……」

「食器棚に応接セットがある。あなたの趣味でしょう。残念ながら、ほとんど使われずに観賞用になっている。いや、使わないことがあなたの誇りなのかも」新九郎は流しの食器をちらりと見る。「花瓶も生けてある花も洋風だ。紅茶派か珈琲派かは賭けでしたが、はっきりしていることもある」

「それは?」

「応接セットに手をつける様子もないあなたは、僕を歓迎していない」

「うちの子はどこにいるんですか」幸代の目に力が宿った。

「ひとつはっきりさせておきます。宏典さんの行方不明に、悪徳金融業者は関与していません。むしろ彼らも、宏典さんの行方が杳として知れないから、僕のような探偵を雇った。なぜ彼らのような連中から借金を?」

「……筋電甲です」苦虫を噛み潰したような顔で幸代は応じた。

 帝都東京は四肢を欠損して産まれる子がこのところ急増している。そのため、市と政府は救済策を用意した。戦中戦後に大いに発展した義肢装具技術の産物である筋電甲を子供たちに支給するのだ。だが、無償ではない。子供たちは、大人になり就業してからの筋電甲代の返済が義務づけられており、その免除のためには一定の、筋電甲を必須とする社会貢献活動を必要とする。代表例が機甲化少年挺身隊だ。もちろん、彼らのような軍属は特殊であり、一般企業での奉仕労働が大半である。戦後の急速な経済成長に伴う労働力の不足に、機械仕掛けの筋力を持つ子供たちが充てがわれたのだ。

 さらに、制度につけ込む連中もいる。

 子供をタダ働きに従事させたくないのが親心だ。決して安くはない筋電甲代金を一括払いする親も多い。そして、一括払いする財力がない親たちに、子供が背負わされる借金の借り換え先払いですよ、と甘言を囁く悪徳金融業者が存在するのだ。

 東京で暮らすには金がかかる。そして経済成長下にあっても、商売に失敗する会社はある。東京に地盤を得た成功者の象徴のような団地に暮らしていても、そもそも無理をしていて貯金もなく、受験戦争を勝ち抜かせるために過大な教育費を子供にかけ、しかし夫の勤め先は不渡りを出して倒産寸前という場合もある。それが大田原家だった。

 当初は順調だった筋電甲代の返済は滞り、まともな銀行から紆余曲折を経て〈カンバー信販〉という悪徳業者への借り換えを余儀なくされる。これがその名の通り、〈神林組〉の息のかかった業者である。そして借金は雪達磨式に膨らみ、とても返済できる額ではなくなっていく。子供に言えるはずがない。お前の腕のせいなのだと言ってしまえるような親ならば、そもそも子の将来の借金の先払いなどしない。だが子供は敏感で敏いから、家庭に漂う不和を感じ取る。父親は会社の不安定さが自身の不安定さとなり、苛立ちを家庭にぶつけるようになる。すべての皺寄せは、家を守る幸代へと向かう。

「それで〈カンバー信販〉の連中が、親の恐怖を煽るために息子名義の借金を強いた。僕のリストに宏典さんの名前があるのはそういうことですね」新九郎は写真立てを横目に見る。「今、お幾つですか」

「一六です」

「剣道をやってらっしゃる?」

「籠手を着ければ筋電甲が目立たないから、と……」

 なるほど、とだけ新九郎は応じた。最近の子供が考えることは難しい。

「探偵さん」と幸代が言った。「あの子を見つけて下さるんですよね」

「僕の依頼人はあなたではありませんし、あなたの息子さんだけを探しているわけではないのです。これだけの人数だ。やくざ金融を出し抜くほどの何らかの組織が関与している」

「なら私がここで依頼を……」

「僕の依頼料は高い。あなたの経済状況で支払えるとは思えないな。僕は金よりも人道で動きますが、ゆえにあなたのお子さんだけを優先して探すことはしない。主義に反します」

「なら……」

「身体で払いますか」と新九郎は言った。

 幸代は、一番上まで留めたブラウスのボタンに手を触れていた。それで繋がった。

 経済的なゆとりのない家庭。夫の稼ぎが先細り、借金は膨らみ、堅実なパートタイムの仕事などでは家計を支えることはできない。団地に暮らす成功者としての見栄もある。そもそも、田舎から出てきてお茶汲み仕事をして会社務めの男の妻に収まった女に、稼ぐ能力があるわけがない。選択肢はひとつだ。

 壁掛けのカレンダーの細かい書き込み。丸の中に数字が書き込まれている。14。15。13。15。16。

 腐った果物のような匂いがしたのは、決して食卓に置かれた梨のためだけではない。

「時間ですよね」と新九郎は言った。「子供が帰ってくる前。終わってから買い物に出かけられる時間。午前中の家事は済ませられる時間。妙だと思ったんですよ。僕のような怪しい男が突然現れても、あなたの警戒心は薄かった。あなたは、膨らむ借金の返済と家計の赤字を埋めるために、旦那さんに黙ってここで身体を売っている。違いますか」

「なら……どうすればよかったんですか!」

「成功者と落伍者は、いつだって後者の方が多い」新九郎は、幸代の目線を真正面から受け止める。「東京が成功者の街なのは、落伍者を弾き返すからです。旦那さんの郷里でやり直すという手もあるでしょう。街の光に拘るなら、このあたりの売春宿を束ねる長を紹介できます。直引きよりは危険が少ないですし、〈カンバー信販〉から紹介されるより好条件で……」

 そこまで言って、新九郎は言葉を切った。

 幸代の目線が逃げ、前歯で唇を噛んでいた。少し腰を浮かせると、長身に恵まれたおかげで、幸代の両手が膝の上で何かの形を作っているのが見えた。親指と人差指で作った輪を触れ合わせ、無限の記号のようなものを組んでいた。

 苦しむ人に寄り添う神が神のふりをした悪魔になったのは、いつのことからなのだろう。

 新九郎はペンと手帳を取り出した。

「お子さんが行方知れずになったのは、いつ頃のことでしょうか」


 女も男も消えている。幸代の組んだ印章からも明らかなように、この集団失踪事件には〈下天会〉が関わっている。その〈下天会〉と葉隠幻之丞が、魔都倫敦で一戦交えたという。

 新九郎は上野の見慣れた往来を眺めつつ煙草の煙を吐き出す。

 つまり、私立探偵としてだけではなく、特定侵略行為等監視取締官として取り組むべき事件でもある、ということだ。

 消えた少年、大田原宏典の写真だけは、幸代から受け取っていた。剣道着に身を包み、賞状のようなものを手に、母と並んで撮られた写真だ。近年、剣の道は化物殺しの喧嘩剣術と戦争を経て体育教練として学校に取り込まれた剣道に二分されている。新九郎は前者であり、大田原宏典は後者。新九郎が後者の達人である陸軍憲兵隊の沖津英生大尉と奇妙な友情を築いてしまったように、ふたつの道は決して対立するものではない。ゆえに、行方知れずの剣道少年、大田原宏典のことを、新九郎は他人とは思えなかった。かつての自分というほどではないが、剣を取る若者には思い入れてしまう。若かりし頃、法月八雲と河川敷で決闘紛いのことをした記憶が急に去来し、新九郎は吸殻を捨てた。

 行方知れずになったのは、三ヶ月ほど前のこと。果たして幸代は、息子を連れて〈下天会〉の道場をしばしば訪れていた。人生が何もかもうまくいく夢を見られるのだという。息子の方はというと、機械の左手が生身に変わった生活を見るとかで、試合で勝てるのは筋電甲のおかげだという他の部員の詰りや妬みから来る悩みを一時だけでも忘れられる、と依存を深めていった。

 借金と身体の欠損。

 ただ生きているだけではどうにもならないことが、すべてうまくいく夢を見る。俄には信じ難いが、語る幸代に嘘をついている人間に特有の兆候は見られなかった。

 腰を据えて調べてみる必要がある。

 決意すると、やるべきことが見る間に増えていく。神林忍から受け取ったリストの人物を調べる。警察に話を通し、見え隠れする事件と〈下天会〉との繋がりと、葉隠幻之丞からもたらされた情報を重ね合わせ、背後に何らかの異星人勢力が関係していることを示し、財前らの担当する事件にする。いけすかない時計にも一報入れねばならない。荒事になるなら、二ッ森姉妹の協力を仰ぐ必要もある。女たちが消えているのなら、紅緒の耳にも入れておき、彼女が知る情報も引き出すべきだ。

 最後が一番気が進まない。

 〈下天会〉の拠点は。組織構成は。信者や協力者はどこにいるのか。機械仕掛けの暴力集団については、井端彩子の知見もあるに越したことはない。

 そして何よりも肝心なことは、この事件には可能な限り、早坂あかりを関わらせるべきではない、ということだ。

 相手は葉隠幻之丞と渡り合い、恐怖さえ感じさせるほどの強敵である。ウラメヤのごろつきどもなど比較にもならない怪物どもを向こうに回して、大事な預かりものであるあかりの身の安全を守りきれる自信がなかった。

 日が暮れていた。新九郎は水の中を漂うようにねぐらへと戻った。

 〈純喫茶・熊猫〉の店内では、見知った顔と並んで、見知らぬ顔が待ち構えていた。

「あ、先生! どこ行ってたんですか!」と早坂あかりが言った。

「仕事だよ。……そちらは?」

 すらりと背の高い、三〇に少し届かないくらいの女性がいた。

 紺色の細身のワンピースは胸元に目の覚めるような白いスカーフが巻かれている。手元には釣鐘型の帽子。傍らには洋風の旅行鞄。おちゃらけているが品のある、この国に洋装が輸入されて間もない頃の女性たちのような装いだ。当時、彼女たちはモダンガアルと呼ばれていた。

 面影がある。意思の強い目。なんだか生意気そうな口元。素直にまっすぐ流れてくれない髪。隣りにいる早坂あかりが大人になった姿を並べているようだった。

「姉です!」

「早坂かをりと申します」彼女は折り目正しく頭を下げた。「妹がお世話になっています。……なんだか、初めましての気がしませんね、伊瀬新九郎さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る